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Step back viewing on Gaza

明日にも地上戦か、という報道が過熱している水面下で(イスラエル政府は否定しているけれど)エジプトを介した人質解放交渉を必死に行っていることもあるだろう13日の金曜日。予備役36万人を動員した地上戦突入を後押しするのはイスラエルの国民感情である。であるからこそ、すこしステップバックした視点からイスラエルとパレスチナを眺めておこうと思う。敢えて。他に誰もやっていなそうだから。 国民感情。ここ数日のイスラエル界隈のSNSを眺めているにつけイスラームとユダヤの対立というところから「ハマスの非人道性」を問うレトリックが飛躍的に増えている。「人道に対する罪(ニュルンベルク、東京裁判)」「非人道的なテロに対する戦争(対テロ戦争)」と「非人道性」を訴えることによって、実際にトリガーを引けば膨大な犠牲者が(双方に)出る地上戦を正当化してしまえる、少なくともそう思い込めるためのレトリックである。107が即座にイスラエルにとっての911という言説が飛び交ったのも、そうした流れの中のことであろう。 今回のハマスの行動は間違いなく非人道的であるのは誰も否定できない。同僚や友人の知る人たちも犠牲になったと聞く(同時にパレスチナの友人たちが置かれた状況にも心が痛む)。反面、イスラエルに住んで現地の空気を吸って肌身に感じていた人間からすると、国際合意(=オスロ合意)の履行が(双方の交渉がとん挫したために)なされないままにある中で西岸の入植地を広げ、そこで行われてきたパレスチナ人に対する人権侵害がまるで何もないことのように時間が流れていくテルアビブの日常に少なくない違和感を感じていたものである。ここでいう人権侵害とは、イスラエル治安当局がイスラエルの安全保障のためという大義名分で西岸で行う治安活動が行き過ぎた場合に起こるものと、ユダヤ人入植者がパレスチナ人に対して行う暴力や破壊行為などがある。ハマスがガザを支配してから以降のガザの実質的な封鎖もそうである(ガザの中でハマスが何をしているかは、一義的にはイスラエルのせいではないかもしれないが)。そもそも国際社会の共通認識として「イスラエル領ではない」西岸に入植すること、その入植者たちの法的根拠を、イスラエル国内法を援用して持たせていること、暴力や破壊行為を黙認していることは、イスラエルが国家として行っていることである。そして国際社会もまた口先でそれを批

読書記録 当たり前が当たり前でなくなること

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 盛夏の川村美術館。長谷川等伯が前澤何某に買われてなくなってしまったことを知らなかった。いつでもそこに行けば名作に会えるというのは、当たり前のことではないという事実。 半年くらい前にたまたま目について、扉を開いてしまった途端に一気読みした 末松さんの本 。少し前にプリゴジンの乱を二二六に類して評していた識者がいたけれど、そういうところに馬脚が現れる。 往時、戦没した兵の遺骨が故郷に帰ると、親兄弟親類縁者が部隊兵営に勢揃いしているからてっきりかわいい息子やら甥っ子やらを弔おうと集まってきたのかと思ったら、戦死した兵一人にいくらということで出される弔慰金目当てにそれをむしり取ろうと集まった輩たちだった。兵たちが戦地に送られる時、親兄弟親類縁者は「生きて帰るな。お国のためじゃなく、弔慰金のために。お前一人が死ねば家族が生きる」といって送り出した。自分たち青年将校が多くは中隊の責任者としてその遺族対応の矢面に立って見ていたのは、一見あり得ないほどさもしく、しかしながらそうまでせざるを得ないほどの貧しさだった、という下りが印象に残る。 ワグネルにも生活のために働いていた傭兵が少なからずいるだろうが(少なくない米兵がまたそうであるように)、プリゴジンがそうしたやむに止まれぬ兵たちのための義憤にかられて起ったとはとても思えない(少なくともそういうことを言っている識者を私は知らないが、もしそうなら大した人物である)。今の日本に一族の男子を戦地に送って死なせ、その弔慰金を取って生きようというまでの底抜けの貧しさがあるとは(まだ)思いたくないけれど、かつてそうしたことの重なりを動機の一つとして起きたのがあの事件だったということは、終戦の日を前にして想いを致すべきことのように思う。

五島のボタニカル

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 たぶん日本一行きにくいところにある蒸溜所だろうと思う。特に最後の3キロが超絶にシビれる(これは地図とかナビでは絶対わからない)。キリンの人がたった3人で独立してつくったらしい。すごいチャレンジだと思う。クラファンもやっていたらしい。知らなかったので、代わりにはならないけど商品を大人買いして帰ることにする(でもお金は妻に借りる)。ちなみに蒸留機は蒸留機のポルシェらしく、そこだけはお金を掛けたといっていた。でも、思想もブランディングもとても良い気がしたので、苦労して伺ってよかった。 さて、そんなに行きにくいところなのに、配送を頼んだ瓶2本を、たった500円で持ってきてくれるらしい。クロネコすごいよねー。 さて、五島のボタニカルや、いかに。来月届くようです。

読書記録 沢木とバルガス=リョサと

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 少し前に、2冊の本を読んだ。それぞれけっこう分厚い。 一冊は、沢木耕太郎の「天路の旅人」。今一冊はマリオ・バリュガス=リョサの「ケルト人の夢」。 「天路の旅人」は戦中に中国大陸奥地からチベット、果てはインドまでを「密偵」として旅した西川一三という若者の「旅」の足跡を描く。まだ寒く、房総の土地でも思わず顔の皮膚がひきつるような氷点下の朝が続くような時期だったこともあり、厳冬期のチベットの景色がよく目の前に浮かんだ。 「ケルト人の夢」はロジャー・ケイスメントという19世紀から20世紀初頭に生きたアイルランド生まれの若者の「旅」の話。悪名高きスタンリーのスタッフとして、しかし未開の地を「クリスチャン」として啓蒙するという若き青き情熱をもって乗り込んだコンゴ。大英帝国外交官となって再び赴いたコンゴからアマゾン、そしてアイルランド独立運動へと続くロジャーの旅は、まだ肌寒かった季節にもかかわらず、熱帯のジャングルで引き起こされ、やがてロジャーをアイルランドナショナリズムに駆り立てていく引き金となる植民地支配の過酷さが発する冷や汗の出るような灼熱を終始感じざるを得ない読書であった。 二人が生きた時代はほんの少しだけ重なるものの、今日から振り返ってみる歴史的な背景はかなり異なる。それでも両者に共通するのは、若き青き「旅」への憧れ、そして運動のエネルギーである。私たちもかつてかくあった(ありたかった…)、という。しかし西川のその後は盛岡の化粧品店店主として日々厳密なルーティンを守る一生へ、ロジャーの後世はアイルランド独立運動の果てに待つ大英帝国への反逆者としての処刑へと、少なくとも表面上は大きく別れていく。ではロジャーを終生突き動かしたように、西川の「旅」へと向かったあのエネルギーは消えてなくなってしまったのだろうか。作家・沢木との盛岡の酒席を挟んで繰り返されたやり取りの末に、その答えがあったのかどうか…。 気が付いたら桜も散り、新緑の季節に差し掛かっていたが、寒い時節に寒さを感じながら、冷や汗をかきながら没頭した大著たちだったので、改めてご紹介。普通であれば並べて読まない組み合わせかもしれないが、「旅」そして「ちゃんと生きてちゃんと死ぬこと」をきちんと捉えた良書ですので、ぜひお手に取ってみてください。

マンボウをホーリーランドから眺めて想うこと

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 今年の3月11日は、マンボウ未だ明けやらぬ日本を、東地中海と死海にはさまれたホーリーランドより遠く眺めながら二日酔いの中過ごしておりました。 11年というのは、いまだテレビや新聞が年一回の特番を組み、人々の記憶を呼び起こす年月の長さであるなぁなどと思っておりました。はたまた阪神大震災から今年で27年ですが、追悼行事やメディアの特番が組まれ、記憶を風化させない取り組みが続いています。では伊勢湾台風はどうでしょうか。63年前です。三河地震や南海地震、鳥取地震はどうでしょうか。およそ77年前です。地元ではいまだになにがしかの戒めの行事やお弔いがあるかもしれませんし、当時を経験した人たちの中には今もって様々の想いがあることは想像に難くありませんが、少なくとも全国ネットの特番は組まれていないように思います。関東大震災はもうすぐ100年です。そもそも9月1日は防災の日として営々と続いておりますし、100周年で特番が組まれるかもしれませんね。帝都を揺るがす直下型地震だったから特別扱いなのかもしれませんが、少なくとも今日の私たちが100年前の出来事を見る目というのは、同じ立場から東北や神戸を振り返る目線とは少なからず異なるまなざしなのではないかなぁとも感じています。 どうしても世代を超えて記憶は薄れていくし、その記憶を伝える土地の風景も変わっていきます。それでも人から人へ語り継ぐこと、亡くなった人、これから生まれてくる人、つまり今の私たちの目の前にはいない人たちに対する記憶や想いをも、折に触れて語り合っていくことの先に長い時間をかけてやがてやってくる未来を想像することも、少なくとも年に一回くらいはあってもいいんじゃないかなと思ったりするわけです。ちょうど桜の季節にそんなことをやったらいいんではないかねと始めた試みももう11年。みんな、元気だろうか。 長い年月といえば、昨今の不安定な国際情勢を語る自称識者が「戦後70数年もの長きにわたって安定してきた国際秩序を乱し…」と声高に叫ぶ姿がネットに転がっていました。はてブレトンウッズ?と思いましたがそこでふと。「安定」していたと思って過ごせていたのは実はほんの一握りの人たちだけで、朝鮮戦争もベトナム戦争も中東戦争もイラン革命もベルファストもフォークランド紛争も中南米のあれやこれやも(関係者の方々すみません、ちょっと多すぎて…)アパルトヘイ

パレスチナとはなにか

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ロシアの「南下」という文脈を、具体的な侵攻というアクションよりもしばらく前から眺めていると、どうしても日露戦争のことを考えてしまう自分がいる。しばし一人暮らしなので仕事が終わると時間がある。「坂の上の雲」の文庫を全巻持ってくることも考えたけれど、NHKオンデマンドでドラマを見ることにする。乃木さんがどうしたという、いわゆる司馬史観については正直なところどうでもよいのだけれど、もっと大きなところで19世紀後半から世紀末に至って世界を覆った民族主義の大潮流というものは、かくも中世以前からの歴史を色濃くして地上に線を引きまくったんだなぁということを、改めて思うわけです。 日本の場合は明治維新をあまり民族主義的運動とは強く定義しないけれど、小邦国家連合から大日本帝国という国民国家をつくって日露戦争にそれが結実した流れは近代「日本民族」を形成した運動だったでしょうし、そうでなくても明治以降にアジア主義の思想が生まれ、その中で日本の民族主義が台頭していく過程からも明治維新が民族主義のトリガーを引いたとは言えるのかなぁなどとつらつら思いつつ、パレスチナへの道を車に揺られていたのでした。 よくクルド人は国土を持たない最大の民族などと言われますが、パレスチナ人も国土があるのかないのか分からない状態でかれこれ数十年過ごしているわけです(クルド人は1,500万人とも言われ、パレスチナ人はパレスチナには500万人程度ですがディアスポラも含めると1,000万人を超えるという試算もあります)。19世紀後半から世紀末にかけての民族主義高揚の時代を英国委任統治下で過ごし、戦後はイスラエル建国によって混乱が続き、ようやくオスロ合意を経て自治政府が出来たけれど、日本が支援してつくられた工業団地にモノを運ぶ専用道路もイスラエルに相談しないと通せない、というのが実際のところのようです。 ヨルダン川渓谷という土地は、有名な死海があるところですが、エルサレムのある山並みとヨルダン国境の山脈にはさまれた南北に細長い盆地を形成しています。直射日光の強さとデーツのプランテーションを割り引けば、初春の少し肌寒い気候も相まって安曇野のような風景とムリに言えなくもありません(その夜エルサレムの山には雪が降ったそうな)。8世紀にウマイヤ朝のカリフが建てた冬の宮殿(壮大な入浴施設付)の跡に、こんなに大きいのは見たことがない一

ラッキーに感謝

 土曜の夜遅くにいまだガラガラの羽田空港を飛び立ち、イスタンブール経由でテルアビブへ。 トルコ航空機内は少し客足が戻ってきたとはいえ、依然として一列一人占有できるゆとり(満席の1/3程度の搭乗率)。 一転してイスタンブール空港は驚愕のカオス。ポストコロナの大移動がすでに始まっていることに加えて、ウクライナショックも重なって欧州-アジア路線が壊滅していることから、動いているトルコ経由がひっ迫していると推測(おそらく同じように動いているドバイ、アブダビ経由も同じような状況ではないかな)。ちなみに実は日本からはANAのブラッセル経由などもあるにはあったのですが、トランジットが18時間と法外で完全に選択肢にはならない状況。 イスタンブール、初めてで知らなかったのですが「すべての国際線乗り継ぎ客が手荷物検査の対象」ということになってるんですね。その人数たるや凄まじく、まずここで40-50分程度の長蛇の列。お年寄りや家族連れからここ数年帰れていなかったんだろうなと思しきお土産を山盛りに持っている東南アジアからの出稼ぎの人たち、動き始めているビジネスを加速しに行くのか香港の携帯電話番号をWi-Fiログインに打ち込んでいる華僑のビジネスマンなどなどでごった煮のカオス。 ようやく抜けたと思っても、イスラエル行きは搭乗ゲートでさらに手荷物検査があります。しかもなんとイスタンブールではX線ではなく、係員が100%手作業で荷物の中身を全部開けて確認している始末。ここでさらに30-40分の列。トランジット120分の中で正味70-90分を列に並ぶという…13時間半のフライトの後にこれは堪える。。。 テルアビブ行きの行列の最後尾ではトルコ人の係員が必要書類の事前チェックをしていて、居並ぶ乗客にどこから来たのか聞いて回っているのですが、何人かウクライナから来たという人の声が聞こえてきました。なぜ聞こえるかというと軒並み書類が整っていないからなんですね。 テルアビブについてイミグレに並んでいた時も、何分ものやり取りの末にカウンターの入国管理官から別室に行くように促された人たちが大勢いましたが、何人かはウクライナのパスポートを持ってイスラエルにたどり着いた人たちでした(ちなみに私の入国審査はいつも10秒くらいで、かつ無質問で終わります)。 PCR検査を終えてようやくビルから出て、予めワッツアップで連絡