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ラッキーに感謝

 土曜の夜遅くにいまだガラガラの羽田空港を飛び立ち、イスタンブール経由でテルアビブへ。 トルコ航空機内は少し客足が戻ってきたとはいえ、依然として一列一人占有できるゆとり(満席の1/3程度の搭乗率)。 一転してイスタンブール空港は驚愕のカオス。ポストコロナの大移動がすでに始まっていることに加えて、ウクライナショックも重なって欧州-アジア路線が壊滅していることから、動いているトルコ経由がひっ迫していると推測(おそらく同じように動いているドバイ、アブダビ経由も同じような状況ではないかな)。ちなみに実は日本からはANAのブラッセル経由などもあるにはあったのですが、トランジットが18時間と法外で完全に選択肢にはならない状況。 イスタンブール、初めてで知らなかったのですが「すべての国際線乗り継ぎ客が手荷物検査の対象」ということになってるんですね。その人数たるや凄まじく、まずここで40-50分程度の長蛇の列。お年寄りや家族連れからここ数年帰れていなかったんだろうなと思しきお土産を山盛りに持っている東南アジアからの出稼ぎの人たち、動き始めているビジネスを加速しに行くのか香港の携帯電話番号をWi-Fiログインに打ち込んでいる華僑のビジネスマンなどなどでごった煮のカオス。 ようやく抜けたと思っても、イスラエル行きは搭乗ゲートでさらに手荷物検査があります。しかもなんとイスタンブールではX線ではなく、係員が100%手作業で荷物の中身を全部開けて確認している始末。ここでさらに30-40分の列。トランジット120分の中で正味70-90分を列に並ぶという…13時間半のフライトの後にこれは堪える。。。 テルアビブ行きの行列の最後尾ではトルコ人の係員が必要書類の事前チェックをしていて、居並ぶ乗客にどこから来たのか聞いて回っているのですが、何人かウクライナから来たという人の声が聞こえてきました。なぜ聞こえるかというと軒並み書類が整っていないからなんですね。 テルアビブについてイミグレに並んでいた時も、何分ものやり取りの末にカウンターの入国管理官から別室に行くように促された人たちが大勢いましたが、何人かはウクライナのパスポートを持ってイスラエルにたどり着いた人たちでした(ちなみに私の入国審査はいつも10秒くらいで、かつ無質問で終わります)。 PCR検査を終えてようやくビルから出て、予めワッツアッ...

ある朝、柔らかで心地の良い声を聞いた時のこと

 朝、オフィスに向かおうと家を出ると、目の前の歩道に置いてあるベンチで、なにやらおじさんが音読している。ヘブライ語でもアラビア語でもない(英語でもフランス語でもない)どこかの言葉で何やら書物を音読している。風体からその言葉を想像するのも失礼極まりないのだけれど、おそらくエチオピアのおじさんで、エチオピアの言葉で読んでいるのだろうと思いながら目の前を通り過ぎる。最初は「音読!?」と瞬時にいぶかしんだのだけれど、聞いているとなんとも柔らかな、これでも少しは肌寒くなった砂漠の国の短い秋の朝の優しい日差しの中に響く心地よい声だった。 彼の故郷(だと思う!)エチオピアも揉めに揉めて首都近郊までティグレの人たちが攻めてきているという話。オフィスの同じ階を共有するエチオピア大使館は表向きいたって平穏なのだけれど、先日エルサレムではエチオピア移民の人たちが、故郷に残された家族や親族、友人の類を呼び寄せさせろとデモをぶちかましていたそうな。 オフィスについてGoogleアラートで送られてくるニュースを読む。現地紙のOpEdのひとつに、イスラエルとパレスチナが今後一国二制度のような方向に進んでいくのでは、と評するものが目に留まる。ここのところの状況を眺めながら、西岸やガザでの大変な生活(基本的な生活インフラが足りない、セットラ―が嫌がらせをしに攻めてくる)を今後も続けていくくらいならば、イスラエルの中で一定の自治を認めてもらうような方向を人びと自らが望むようなことになるのだろうか、そういう人は結構いるかもね、といった話を先日パレスチナのおじさんと話したことを思い出した。 でもふと考えを巻き戻す。確かにイスラエルは専制国家ではないし、言論の自由も封殺されていないし、みんな言いたいことを言い合っている国ではある。だから、生活の保障という意味ではその市民になることで得られるものはあるのだろうと思う。でも、私は何者であるというアイデンティティに封をした中で得られる生活の保障を私たちは取り得るのだろうか(それでも生きるためには、子や孫によりよい生活をと思えば取り得るのかもしれない)と考えると、あまりにも安定した、自分たちのアイデンティティと生活の保障が同時にしかも自動的に担保されていることを疑わないマジョリティの心理に漬かりきって世の中を見ている自分に改めて気が付くのである。 民族自決、...

リアル「ランボー怒りのアフガン」戦士はナイスガイだった話

 目抜き通りの大手スポーツ用品店でプレッシャーボールを買ったら、缶が開いていてノンプレッシャーだった。一事が万事そんな国ですよ、イスラエルは。 クルマを持っていないので、ちょっと離れたテニスコートまでタクシーで行こうとしていたところ、アプリでたまたま呼んだタクシーの運転手がやけにフレンドリー。東欧訛りの英語を話しますが、イスラエル人の英語もどっちかというとそっち寄りなので、最初は正直あまり関心もなく「ふーん」と聞いていました(そもそもヘブライ語がイディッシュみたいな感じ)。 曰く、ちょっと前までモントリオールにいて日本人の友達がいた、その前はLAでドライバーだった、もともとはアルメニア出身でね、と。 ほうほう。アルメニアですか。そういえばこの前ちょっと揉めてましたね、隣の国と。と話を向けたところ運ちゃんトークがスパーク(そこに食いつく人あんまりいないと思われ)。私は故郷で18歳で徴兵されてカザフスタンに派遣されたんだよね、ちょうどそのころソ連がアフガニスタンで戦争をしていたから。 なんですと?あなたアフガンに行ってたの??まだアルメニアがソ連のころ???しかもソ連兵として????こちらも俄然スパーク。目の前にソ連の軍隊にいて、あわやアフガンに行かされそうになっていた人がいるなんて。 いや、アフガンには行っていない、行く手前でちょうど戦争が終わったんだ。その後しばらくしてからイスラエルに移民してきた。で、当然イスラエル国防軍にも入る必要があるのよね。だから私は2回、しかも異なる国で軍隊に行っているんだよね。 おお、そ、そうですか。。なんとも波乱にとんだ人生ですね。でも戦地に行かなくてよかったのはラッキーでしたね。私など、しばらくの海外生活以外はなんとも無風な日本でのほほんとやってきましたのでね(汗)。幸か不幸か一家で戦争に行ったことがあるのは100歳超えた爺さんだけなのよ…。 まぁ、考えようによってはエキサイティングな人生かな…。でもラッキーとは思えないんだよね。知っている人がたくさん先に行ってしまったからね。自分だけ帰ってきたという思いはあるのよね…。 そうこうしているうちに河川敷のテニスコートに到着。24/7でタクシーやってるからいつでも電話ちょうだい!と風のように去っていったマラトさん。別にその後営業の電話がかかってくるわけでもなく。なのでまた仕事を頼ん...

「規制の虜」はどこから来たのか:「底なし沼」と「気違い部落」と

フェイスブックを眺めていたら、かつて仲間とお世話になった黒川清さんが白石隆さんと一緒に笑っている写真が出てきた。 ふと少し前に買ったまま積んであった黒川さんの本を思い出した。国会原発事故調を率いた経験を踏まえて書かれた「 規制の虜 」という本。踏まえて、と書いたのは、たしかに事故調の立ち上げから大変なプロセス、報告という舞台裏ストーリーを読む面白さはもちろんあるのだけれど、そのことを踏み台にして黒川さんが言いたいことを書いているからである。 いまから10年くらい前に、仲間とあるシンポジウムを企画した。そのときに黒川さんを知っていた仲間の一人が出演を頼みに行き、快諾していただいた。時代の閉塞感を打ち破るために必要なものはなにか、という問いに対して企画者の一人だったわたしが当時出した答えは、100人いたら100通りのリーダーシップ、というものだった。つまり誰か偉い人に率いられて付いていく、その偉い人がもっているひとつのリーダーシップということではなく、誰もが自らを導き、駆り立てることができること、あるいはそうすることそのものがその人にとってのリーダーシップ、ということ。この文脈でリーダーシップの語意を訳せば、「自律性」とでも言っただろうか。そのときの答えは間違っていなかったと思うし、いまでもそう信じている。 黒川さんの本は嘆いている。原発事故という象徴的な出来事をベースに、この国ではあらゆることに対して、責任ある立場のエリートの人たちが、都合が悪くなるとほっかむりをしてトンズラしようとする、と。日本はこのままではダメになる、なんとか矜持を持った、誰がなんと言おうと自分が正しいと思うことをする強力な「個」をもった人びとが世の中を引っ張っていくべきだ、というのが黒川さんの主張だろうと思う。これも10年前にシンポジウムでしゃべってもらったときから変わっていない。当然だろう。黒川さんは僕らに出会うずっと前からぶれていない。朝河貫一の「 日本の禍機 」を引いて力説しておられる。朝河貫一は二本松の人である。私の父方の祖父も二本松なので、それじゃわたしも四分の一は二本松だ、というような理由で誰かを勝手に近しく思う、判官びいきのようなのもどうだろうかと思う。こういうメンタリティが後に述べる諸々にもつながるところもあるんだろうとは思いつつ、好きなので隠さない。そして「日本の禍...

住み慣れた家を引き払おうとする季節に (留学準備編②)

もうあと数日で住み慣れたこの家を引き払わなくてはならない。そんな初夏のある日、我が家の郵便受けに、一通のエアメールが届いた。 海外に友人知人がいないわけでもなく、そのうちの誰かからのものだろうかと思いつつ、今のこの世の中わざわざ手紙をよこしてくるのはアイルランドにいる妹くらいのもので、(彼女は折に触れてカードなどを送ってきてくれる)封筒の、あのエアメール独特の青と赤のストライプと、アルファベットの宛名を郵便受けの中に覗き込みながら手にとって逆さに見た。 違う。妹からの手紙ではない。いや、そもそも宛名が私の名前ではない。住所は確かに私の住むアパートのもので、番地一桁にいたるまで正しい。しかし宛名はまったく違う人物である。横から妻が、「きっと前の人のね。」とそっけなく、続けて「捨てるか、郵便局に言って引き取ってもらって差出人に返したら?」と言う。 「うん、そうだね。そうしようか。」と言いかけて、私は封筒の裏側を確認する。差出人の名前が封筒にない。郵便局とはいえ、差出人が不明では戻しようがない。 前の住人のものだろうか。以前、不動産屋が言っていたことを記憶の片隅からひねり出す。前の住人は父親と息子の二人家族だった。いま私の手元にある封筒の宛名は、おそらく女性の名前である。不動産屋の情報が正しければ、この宛名の人物は少なくとも前の前、あるいはそれ以前の住人ということになる。彼女を発見してこの手紙を渡すことは、途方もない労力だろうし、私にその手間をかける義理も人情も正直なところない。なにより手がかりがない。 いっそ捨ててしまうか。いや、それは忍びない。そんなことがあったことなどすっかり忘れている妻を尻目に、逡巡し決めかめていた私は、さしあたり封筒を下駄箱の上に置いて数日が経った。せめて差出人がわかれば。そう思いながら朝晩下駄箱の上の封筒を見つめた。 あるとき、ふと封筒の封の一部が、少し糊が取れて広がっていることに気がついた。手にとって眺めてみると中に写真らしきものが入っているのが見て取れる。老齢と思しき男性と若い女性が写っているように見える。さすがに封を開けて内容を取り出すことは憚られたが、そのときチラリとメモのようなものが写真に留まった形で目に入った。 どうやら写真に写っている老齢の男性が亡くなり、その妻である差出人...

「家族」の話

お盆 高速道路を埋めるマイカーの縦列。 夜遅くまでホタルの行進のように赤いテールランプが続く様子はもう何十年もおなじみの光景。またごった返す東京駅のホームや羽田空港の出発ロビーの映像は、もはや風物詩ですらある。  みな、どこへ行くのだろうか。「旅行」という人も多いだろう。円高につられて海外旅行に行く人もかなりの数だそうだ。そうでなければ帰省だろうか。なにも混雑のピークにわざわざ帰省する必要もないだろうに、と思うのは「田舎」のない東京者のひがみであって、長く(とはいっても 1 週間弱という人が多いだろうか)休みが取れる時に「田舎」へ帰ろうという人の列は毎年切れ目がないほど長く続く。  なぜ、人は「田舎」に帰るのだろうか。自然が豊かだから?否、都市に「田舎」がある人もいるだろう。普段暮らしているところを離れた非日常があるから?否、それならば「旅行」に行くのとどう違うのだろう。「帰省」という言葉、「田舎に帰る」という言葉が行く先には何が待っているのだろうか。   そこにはきっと「人」が待っている。「田舎」とは、「港町」や「よく通った近所の駄菓子屋」「小学校の低い鉄棒」というような具体的な場所のイメージに表される場所であると同時に、帰る人と帰りを待っているであろう「人」とが織りなす実態と想像が折混ざった景色がある場所のことである。 帰る人を待っている「人」は、誰よりも「家族」であろう。両親や祖父母をはじめとして親戚や隣近所、果ては幼馴染みや同級生、恩師といった人々も「家族」同然であるかもしれない。帰る人は、帰る先に待っている「人」を想い浮かべる。「家族」の在り様に想いを馳せる。「人」の向こう側に広がる景色を仰ぎ見て、自分と「人」とが登場するシーンを想像しながら、混雑する交通に耐えて「田舎」を目指すのである。 「田舎」を思い描きながら帰省の途に就く人は、きっと幸せである。彼の脳裏に浮かぶ「家族」への想いが、景色やシーンを創出して彼を幸せにする。その時彼は、実は景色やシーンではなく、自分の思い描く「家族」のイメージによって幸せになる。「田舎」に帰る人は、「家族」に帰るのである。   オバマ・リベラル 先日オバマ大統領が、現職の米国大統領として歴史上初めて「同性愛結婚の合法化容認」を打ち出したと報じられた。...

ソウルコミック

マスターキートンの話にけっこう多くの人から反応があった。 おふくろの味をソウルフード、竹馬の友をソウルメイトというように、なんだか知らないけど立ち返ってしまう、ふとまた無性に読みたくなる漫画はソウルコミックである。 普段はあまり意識しなくても平気。何年もはなれていることもしばしば。でもふとしたときに湧き起こるあの時のドキドキやビリビリ。もう居ても立ってもいられない。全巻大人買いである。 聖闘士星矢、ドラゴンボール、キャプテン翼、マリブル、スラムダンク…ひとりひとりの心にソウルコミックにまつわる物語がある。 フードやメイトほど国境を超えた普遍性はコミックにはないかもしれない。漫画を読まない人が多い土地もあるだろう。だからこそ我々は己の心にソウルコミックを抱いていることに誇りを持っていい。漫画を愛する人々。漫画の殿堂はいらない。年季の入った古本屋や貸本屋で、お互いのソウルのありったけを見せびらかしながら心底ノスタルジーを楽しむ。 実に幸せの極みではないか、諸君。

Connect USA

敬愛する友人の @nakannen さんが企画したトークイベントConnect USA「時代を創る二つの作法」に参加した。 http://connectusa.jp/ 中島信也さんの「CM歴史絵巻」のようなプレゼンで会場が暖まり、渡辺謙さんがジョインするころにはあやうく本題を忘れかけそうになっていたけれど、中島さんの巧妙なモデレーションでちゃんと引き戻された。中島さんの話を聞くのは初めてだったけど、この方は天才だと思う。 正直なところを少しだけ言うと「役者やCMディレクターとしての仕事、映画や広告作品を作ること、それに対して真剣に向き合っている姿が本当に立派でした。感激しました。」というコメントだけで #connect USA のタイムラインが埋まってほしくない。 彼らが真剣に向かい合うものの「正体」はなにか。それに気がついている人たちに少なからず出会えた。そしてその行動は彼らだけのものではないということも、そろそろじわじわ広がっていってくれるといい。 まぁでも、そう固いことを言わずに謙さんの一ファンとしてのミーハーっぷりをさらけ出せば、例えば「硫黄島からの手紙」は10回見ました。いつも出張の機内で往復一回ずつ。ひとりでこっそり毛布をかぶって。そしていつも同じところで涙が出るのです。 「私たちがこの島を守る1日には意味がある」 「余は常に諸子の先頭にあり」 「ここはまだ、日本か」 日本とは、なにか。日本人とは、何者か。私は、あなたは、何者か。そして、なにを為すものか。 いやぁ、映画って、いいもんですねぇ。

「鎖国の始まりと終わり」 

昨夜は某私大の副学長と某メガバンクの元役員の方と会食をしました。 新卒のころから面倒を見ていた後輩の人脈です。若いのに立派な人間です。別に僕が育てたわけではないのですが、、、 インフォーマルかつ気軽な懇親会ということで、とてもリーズナブルで感じのいいお店でした。 tete a tete http://homepage2.nifty.com/tete-a-tete/index.html 副学長はタイの歴史がご専門、会食には僕のラオス人の同僚も同席していたので、話題は意識せずとも東南アジアに関する話が中心になりました。ラオスの観光振興の話からカンボジアとの対比、アンコールワットを遺したクメール王朝とタイのアユタヤ王朝の話へと移りました。 そこから日本と東南アジアの関係へと発展しまして、話の主役は山田長政に。彼に代表される近世に生きた日本人には進取の気質があり、彼らの多くが「浪人」(傭兵)と「貿易商」という組み合わせであり、当時同様に東南アジアに進出していたポルトガル人と同じ構造であったそうです。 日本人町では、日本人と混血した末裔が暮らしていたことから、おそらく人びとの顔立ちは「日本人」ではなかったでしょうし、言語もだんだんと現地化していたかもしれませんが、しかし衣服だけは日本の服装を守っていた、と。興味深い点です。 江戸幕府が鎖国政策を導入した動機としては各諸侯(藩)が独断で対外交易をして幕府に対応し得る財政を築くことを抑止するために、一般の日本人の対外渡航を禁じオランダ・中国・朝鮮・アイヌに限って所定の藩を経由して交易を行う管理貿易体制を敷くことで幕府の統治体制を安定化させることなどにあったそうですが、鎖国体制を持続するためには、国内で自給自足の食糧生産が確保され、諸産業が完結し経済が自立していることが前提になるため、以後200年以上続いたことからもこの前提は達成されていたのではないか、とも。「内向き」でもやっていける状況だったということでしょうか。なんとなく今の日本に雰囲気が似ているかも。別に鎖国をしているわけではないですし貿易も活発にしているのですが、国内社会の仕組みや少なからず人びとのマインドは「鎖国状態」に近いのではないだろうかと個人的には思います。 昨今、「鎖国」をやめて「開国」し西洋文明に「開化」していく幕末・明治の時代がクローズアップされ人気です。(昨...

ボツワナ

書こうと思っている主題についてなかなか煮詰まらないのでちょっと合間に。 黒川先生がボツワナに行かれているようです。 http://www.kiyoshikurokawa.com/jp/2010/02/%E3%83%9C%E3%83%84%E3%83%AF%E3%83%8A%E3%81%8B%E3%82%89.html ボ ツワナ ツワナ人の国。 位置的には南アの北。ヨハネス駐在員だった先輩が 「ボツワナはいいぞ~。(環境がね)」 と言っていたので新婚旅行の候補にもなっておったところです。 (南アで動物、ザンビアで滝、ボツワナでダイヤとカラハリライオンとコイサンハンターに会うという壮大な旅・・・) かつてアパルトヘイト時代はだいぶ南アの工作員がむちゃなことをしたんだろうなと思いますが(モザンビークとかもひどかったらしい)いまはだいぶよくなったことでしょう。 豊富な天然資源とアフリカにはめずらしくグッドガバナンスのある中進国。 天然資源に頼ってガバナンスがめちゃめちゃになるか、ガバナンスの努力をしようとしても資源(社会資本とか、企業資本とか、人材=識字とかも含めて)が足りなくて成長することが出来ずに紛争に逆戻りという国もある中で、どっちも持ってるボツワナ。 この国がこれから先もっと成長するためにはどうしたらいいか、という黒川先生の問い。 おもしろいので電車の中で考えながら、ニトベの226会に行ってきます。 アディオス。

迷路@トーキョー・ステーション

東京駅、といっても東京国際フォーラムの地下にあるJR京葉線のホームから「ほんとの東京駅」に向かう丸の内地下道をご存知ですか? 改札を出ない八重洲側の通路と違って「動く歩道」もなく、延々と続く約1キロのトンネルです。 丸の内線に乗ろうと歩いていると、向こうから大きなバックパックを背負った白人男性が声を掛けてきました。この寒空に半袖の赤ら顔。年の頃は50歳くらいでしょうか。 おじさん曰く「サブウェイはどっちだ?!」 僕「どのサブウェイ?」 おじさん「コウラクエンに行きたい。」 僕「じゃあ丸の内線だからちょうどいいし一緒に行きましょう。」 おじさん「ありがとう。レッドライン、とだけ覚えていて、赤い『丸』を辿ってきたけどどこかで道を間違えたみたいだ。」 僕(赤い丸??) なるほど、彼が迷った理由が分かりました。丸の内線は「メトロの赤い丸」ですが、彼は「JRの赤い丸」、正確には槐色の丸を追って地下道を進んでしまったというわけです。 覚えやすいように、と配慮して色分けされているわけですが、よくよく考えてみれば「色の見え方」も人それぞれ。「赤い」は必ずしも同じように「赤く」見えないかもということか。 それにしてもおじさん、30分も駅の中を歩き回ったらしく、君に聞いてよかった、と疲れた顔が実に印象的でした。聞けばシドニーから志賀高原にスキーに来たとか。なんて羨ましい。 そのあと「文化のローカライゼーションとビジネス」について酒を飲みながら話をしたのですが、この話はしないままでした。

考える葦

休日の丸の内。 早朝の人影もまばらな地下鉄の改札脇で、ごみ箱から古新聞をあさる白髪の男性。髭は無精ではあるが伸び過ぎず。住宅街をジョギングしていたらさりとて不思議にも思わない紳士面のジャージ姿を横目に階段を上がると薄汚れた寝袋と古新聞の束を抱えた無人の台車が主人の戻りを待っている。世をはかなんで路上や公園にいるのだから彼らの勝手だ、と言う向きもあるが、寒い冬の朝にそれでも命をつなぐ古新聞を集めるところにジレンマがある。 馬場先門の静謐清廉な空気の中を進むと竣工なった三菱一号館。角のテナントからジュエル・ロビュションが微笑んでいる。日本の経済発展の象徴、ビジネスディストリクト丸の内。三菱もまた近代日本の富を象徴する存在。その足元の地下道は、路上生活者の小便の臭気に満ちている。別に新発見でもなんでもない。毎日何十万人の人が目にする「日常」風景。 競争とイノベーション、自己責任、格差の必然性。そんな使い古された視点でどうこう言う気はない。どちらかといえば私だって極端な話「競争に勝つこと」の恩恵に浴してきた部類。そんな自分が生きる世の中の仕組みや社会が成長するいまの通説、理屈を根底からひっくりかえすわけでは毛頭ないが、目の前にある現実をどう理解し、どう納得するのか。果たして本当に納得しているのか。見えないものとして心の隅に追いやっていないか。改めて問われたら、どう答えるのか。少なくとも私は、自分の子どもからこう問われたときに「彼らの存在は自業自得故だ。だから君はあのようになってはいけない」とだけしたり顔で答えることはしたくないと、直感的にだが思うのである。 人間は考える葦だ。例え君の思い悩みがいま結論を導かなくても、感じた矛盾を抱えて考えつづけることを止めてはいけない。そう逃げるのが精一杯かな。いやはや実に情けない。でも人間はそうやって疑問や悩み、不思議や矛盾を何千年も考え続けてきて、それが科学であるとすればやはりそれは進歩の礎なんだ、なんて言ってあげられるのかもしれない。

追憶の彼方の国境警備と運命の分かれ道

8月18日。終戦の日を少し過ぎた平日に田舎に帰りました。 妹の誕生日、という建前で爺さんが両親の家に来ることになり。 爺さんとは前にも紹介した、白洲次郎の家のソファを作ったあの爺さんです。 ド平日だしちょっと無理かもと最初は思って、行く、行かないの答えを渋っていたのですが爺さんから「戦中の満ソ国境の地図をもってきてくれ」というリクエスト。 僕の会社は旧満鉄調査部を前身とする研究機関で、図書館にはそんな資料がどっさりと眠っています。古い資料はダメージドとして閉架されていますが、地図や統計などは復刻版が出ているものもあり、開架で持ち出しも出来るのです。(職員に限り) ありました。「満州文省地図~地名総覧」(昭和17年刊) 全旧満州帝国の省別地名索引と在現地官庁、企業名リストがついたオールカラーの地図帳。一体誰がこんなものを見るのよ、と思いますがちゃんと需要(?)があるのですね。 さて、軒下の縁台に腰を下ろしておもむろに地図帳(厚さは辞書並です・・・)を開いた爺さん。 「ここだ、間島省。」 今の中国にそんな省は存在しません。「満州国間島省」。現在の吉林省、中朝国境に程近く、延吉という都市が省都だったようです。今日偶然にも同僚が辞令を持って現れて、これからその延吉に赴くとのこと。つくづく面白い会社です。 昭和16年1月。徴兵検査を甲種合格した爺さんは、宇都宮の連隊本部に入営。そのまま新潟へ移動、船に乗せられ釜山経由で現在中朝国境に近い北朝鮮領にある慶源というところに一旦駐屯したそうです。部隊編制の完了を待って陸軍第71師団第87連隊配属となり、中朝国境を越えて現在の中国領、当時満州国間島省、現在の吉林省琿春に置かれた連隊本部勤務となりました。 念のため「帝国陸軍編制総覧」や「日本陸海軍総合辞典」という、これも辞書並の書物にあるデータで確認してみましたが、史実の記録に実に正確に記憶しているようです。寸分たがわぬ記憶で自分の足跡をすべて覚えているのです。 爺さんの所属していた大隊は、国境警備の名目で琿春の連隊本部から東へ約40キロ、満ソ国境から約15キロ程のところにある土門子というところへ前進配備されます。爺さんは大隊砲(歩兵砲=可動式の小型砲)の射手だったので、砲や弾薬を運ぶ軍役馬の飼育も任務のひとつだったそうです。曲射(放物線を描くように発射すること。迫撃砲と同様の運用)を...

『吉田茂』と白洲家の人びと 後編

白洲次郎は家に入るなり言う。 『吉田のオヤジと同じ名前の人はあんたですか。』 次郎がオヤジと呼んだ時の宰相吉田茂とバラックの吉田茂は確かに同姓同名。 この時、バラックの茂は大正9年(1920年)生まれの30歳。首相の茂は明治11年(1878年)生まれだからもうとっくに70歳を超えていて年の差は親子以上に離れている。次郎もバラックの茂よりは18歳年長であるから、彼の頓着しない性格を割り引いたとしてもこの物言いは致し方ない。 同姓同名を確認したすぐあとの次郎の言葉はこうである。 『うちにきて椅子張りやってくれないかな。職人が見つからなくて困ってるんだ。』 椅子張りの職人なんてそこらに他にもいるだろうし、なんでわざわざおれのところに。茂は訝しむ。次郎は、なんでも知り合いに聞いたらオヤジの茂と同じ名前の「椅子張り職人」が芝にいるから、というので飛んできたらしい。 茂は困る。復員したての状況で田舎に帰るわけにもいかず、さりとて妻と幼子を抱えて食っていくためにはなにか仕事をしなければならない。戦前にいた講談社からは戻ってこいと言われたけれど、なぜかもうあそこで仕事はしたくない。戦争なんてなければ、おれはフランスに行って絵描きになりたかったのに。活字の校正で月日を終えるのはどうにも辛抱ができない。それじゃあと見渡してみたところ、進駐軍の将校官舎や復興しつつある役所や学校の内装やら椅子張りの仕事が目にとまる。やったことはないけれど手先はそこそこ器用だし、手近な道具で始められるし。好きなわけではないけれどひとつやってみようか。そんな動機で始めた「椅子張り職人」だから全く心許ない。でも手間賃ははずんでくれるかな。はてさてどうしたものか。 逡巡する茂の心の内を知ってか知らずか、次郎は続けざまに都合をまとめようとする。 『道具と体一つで来てくれればいいから。いつなら来られる。場所は鶴川だ。』 仕事場はどうやら鶴川にある白洲家、「武相荘」である。 茂は腹を決めて次郎に言った。それじゃ来週末の休みに伺います。土曜の昼過ぎで良いですか、と。 それから幾度となく茂は鶴川の白洲家に行って、ソファを修理したり、椅子を張り直したり、そんな仕事をしている。茂は回顧する。おれが鶴川に行って仕事をしていると、正子さんがいていつも親切にしてくれた。普段の仕事の合間にやっていたからどうしても休みの日に行くことが多...

『吉田茂』と白洲家の人びと

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吉田茂と白洲次郎の関係は広く世に知られているところである。 戦後の占領期から独立期にかけての日本史は、この二人の業績なしには語れない。 昭和26年。サンフランシスコ講和条約が署名され、戦後の日本が主権国家として再び国際社会に復帰しようとしていた年。 東京は芝増上寺の門前。今でいう東京メトロ大江戸線大門駅から増上寺の山門に向かうあたりの路地裏は、大空襲で一面焼け野原であった。戦後、戦地から復員してきた人々や、家を焼け出された人々がバラックと呼ばれるトタンで作った仮の住まいを建てて暮らす景色が広がっていた。 バラック街の一角に、台湾から復員してきた一人の男が妻と生まれたばかりの長女と暮らしていた。陸軍下士官であった男は、満州と朝鮮の国境付近、現在の中国吉林省延吉市から北朝鮮国境にほど近いところに駐営していたが、戦局の悪化に伴い台湾へ配転されていたために、ソ連の参戦による被害や戦後の抑留を受けることはなかった。男の所属していた部隊は「長男部隊」と呼ばれ、内地では各家を相続する「嗣子」ばかりを集めていたため、危険な前線に配置されることなく終戦を迎えたのである。復員後に故郷の幼なじみであった妻と結婚したが、徴兵前から東京に暮らしていたこともあって故郷には戻らず、芝の地に落ち着いていた。 ある夏の暑い日。男のバラックの前に、一台の見慣れない車が止まる。ひどく磨き込まれて黒光りのする高級車である。運転手は車から降りると、男のバラックの引き戸を開けてこう告げる。 『白洲が参りました。』 運転手が家の主の所在を確認したのであろう、視線で合図を受けて車中の人物はゆったりと車から降りてバラックに入る。 『初めまして、白洲次郎です。』 薄暗い屋内で主は勤しんでいた仕事の手を止めて、吹き出す汗を拭いながら小さく会釈をする。 男の名は『吉田茂』。 <続く>

額縁

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先日、名所である鎌倉を敢えて外して、神奈川某所に紫陽花見物に行きました。 ふつう紫陽花というと、モコモコしたシルエットが印象的です。 しかしこの品種は額縁紫陽花というものらしく、小さな花の周りに額縁よろしく大きな花弁が包み込むような形をしています。 男30。 花もいいもんだなぁと思える歳になったということでしょうか。

ココロ騒ぐのはなぜ?

フィリピンから帰国して早半月。 なんだろう、このモヤモヤは。 いつもならば陽光うららかなこの季節。 私のココロは青天百里の如く 純々と晴れ渡っているはずなのに。 晴れやかな蒼天をうっすらと覆う 皮膜のような心憎いまでの 得体の知れない感触。 まさか、フィリピンのせいなのか。 これまで実に多くの国を訪ねてきたけれど。 実に多様に複雑で、暑かったり寒かったり辛かったり 臭かったりはしゃいでいたり、もの悲しかったりする 国々を渡り歩いてきたけれど。 フィリピンという国はどうだろう。 華々しく、でもしおらしく、 輝かしく、でもどんよりと。 元気そうなのだけど、元気じゃない。 明るそうでいて、実はナイーブ。 あか抜けているのかと思えば、 意外とシャイだったり。 まるで、なんだかもうひといき会話のかみ合わない、 つかみどころのない女の子とバーのカウンターで2人きり。 上半身をねじりながら相対して 互いのココロの在処を眈々と探っているような。 惹かれているのか、魅惑的なのか。 いやいや引いているのか、懐疑的なのか。 押すのも引くのもままならぬ。 そんな男の絶妙に微妙な心理状態を想起させる。 いまや誠に悩ましい存在なのである。フィリピン。

雨・フィレンツェ・ネクタイ

会社のおばちゃんがイタリアはフィレンツェに旅行したとかで、お土産に ネクタイをもらいました。 『雨で大変だったのよー。ベッキオ橋の屋根が雨宿り する人でラッシュ みたいだったわ!!』 とは、おばちゃん談。 数年前のちょうど今ごろ、僕は80人のクライアントを 連れて フィレンツェにいました。 ご存知の通りイタリアに限らずヨーロッパの歴史保全をしている街は 観光名所がある市心まで大型バスが入れないので、数百メートル、 場合によっては1キロ近く離れた駐車場から歩いて向かうことになり ます。 ちょうどその日も雨が降っていて、お年寄りたちを引き連れて ウフィツィに向かってアルノ川沿いを歩きました。 グループの中に一組のご夫婦がいました。 娘さんのウェディングが ちょうどその日にフィレンツェで行われるということで、昼食後に 団体を離れて出席することになっていました。 お父さんは土建屋の社長。パンチパーマに色つき眼鏡のミスター強面・・・。 レストランから挙式が行われる教会までは歩いて10分足らず。 天気がよければなんの問題もありません。 しかしあいにく土砂降りの雨・・・。 新婦のお父さんとお母さんは、レストランからタクシーで教会に 向かおうとしましたが、雨の影響で電話で呼ぼうにも一向に つかまりません。挙式開始時間は刻々と近づいてきます。 僕は意を決して雨中を外に出て、中央広場近くのタクシースタンド まで走りました。傘なんて役に立ちません。案の定、スタンドの前は 雨を避けて移動しようとするお客で長蛇の列。電話で呼べないワケです。 時間がありません。 一番前に並んでいたご婦人に事情を説明し、なんとか列を譲って 頂けないかと頼み込みました。後ろに並ぶ他の客からは訝しげな 視線を浴び、今にも罵声が飛びそうな勢いです。 なんとかご婦人にご理解頂き、携帯で店に待機する同僚へ。 店の前は逆からの一方通行だったため、ご夫婦にこちらまで来て頂く ことに。居並ぶ待ち客からは一斉に冷たい視線。 『これだからジャポネーゼは!』 とでも言わんばかり。 ようやくタクシーに乗り込む直前にご主人が、 『あ!おれネクタイ忘れたっ!』 奥様と僕は一瞬凍った顔で視線を合わせました。 僕はとっさに自分のしていたネクタイをご主人に手渡しタクシーの ドアを閉めて見送りました。 イタリア語の出来ない僕でしたが、タクシーが走...