投稿

ラベル(活動報告)が付いた投稿を表示しています

5年後の春に

六本木の居酒屋で,有象無象の衆がとっちらかる酒宴の席の片隅で,ふと知り合った酔狂な男がいました。人を一切寄せ付けない振りをして,寂しさを満開にした革ジャンの背中の向こうからクルッと向き直った顔には,鋭く人を刺しそうで,それでいて人の心をつかんで離さない,底なしの優しさを持った目が,酒に酔ってちょこんとすわっていました。 生い立ちも,職業も,女の好みもまるで違う二人でしたが,なにか信ずるものがつながったというか,『けっきょく大事なところはそういうことなんだよね』というところで膝を打てるというか。 半年後に,日本が揺れました。一月あまりが経ち,彼と会いました。彼の奥さんと僕の妻も一緒でした。この一月にお互いの身に起こったこと,考えたこと,とりとめもなく話をしました。フツフツと湯気を立てて煮えるモツ鍋が半分くらいなくなったときに,ふと彼は言いました。 『吉田さんさ,俺,東北に桜をね,植えたらどうかと思うんだ。あれからずっとずっと考えていたんだけど。なにをすべきなのか,なにができるのかって。で,俺は花屋だから。植物の持っている力をどうにかして,人びとの元気につなげられないかと思い至ったのね。たくさんの物語が流されてしまったところで傷ついたけれど,また頑張ろうとしている人たちと一緒にさ,これから未来に向かって育つ樹を植えたらどうかな。どう思う?吉田さん』 モノもカネも情報も,そのときに必要なものがいくらでもあったと思います。まちがいなくそのひとつひとつが尊かった。みんな今日を,明日を生き抜くのに一生懸命だった。未来??桜?それで明日の飯が食えるのか?そんな時代だった。でも僕の目の前には,未来を,人間ひとりの寿命よりもはるかに長い時間を生きて,しかも生きた人間の想いを,ひとりひとりの生きた証である「物語」を,託すことのできる樹木という媒体を活かして未来を見ようとしている男がいました。 樹を植える,樹が育つ,大きく大きく育っていく。10年,20年,50年,100年,彼と,いま彼が話している僕が死んだ後,遥か先の未来にまで届く。ただ,そこには重い重い責任が伴うことも,彼は承知していました。あのときの,初めて会ったときのあの目で,そう言っていました。 『うん,やろう。それはやるべきだ』 5分後くらいに,僕はそう答えていました...

一家言ということについて

「一家言」という言葉がある。 その語義は、辞典に依れば「 (1) その人独特の主張や論説。 (2) 一つの見識をもった意見。「教育については―をもっている」」とある。 しかし古くは司馬遷の史記(列伝)に遡る。古今の文書・歴史の編纂に務めた職である太史公は親から子へと代々継がれた。ある代の太史公が、自らの人生を振り返り「太史公の務めをおおまかにまとめるとするならば、多くの先達、賢者が遺した言葉や文書を集め、様々な知見をまとめて後世に伝え遺すことこそが、私の父祖から引き継いできた家業の成り立ちであった」としたことに依る。(序略、以て遺を拾ひ芸を補ひ、一家の言と成す) 昭和の文学者坂口安吾は、「一家言を排す」とした論文で、これを退けようとする自らの主張を以下のように述べている。 「私は一家言といふものを好まない。元来一家言は論理性の欠如をその特質とする。即ち人柄とか社会的地位の優位を利用して正当な論理を圧倒し、これを逆にしていへば人柄や地位の優位に論理の役目を果させるのである。<中略>我々の理知的努力と訓練により、また人間性の深部に誠実な省察を行ふことにより、早晩我々の世界からかゝる動物的な非論理性を抹殺し、肉体的な論理によつて正当な論理を瞞着し圧倒することの内容の空虚を正確に認識しなければ、人間の真実の知的発展は行はれ得ない。<後略>」 慮るに、知識や見識を振りかざし、「人格者」「知識人」とする自覚に驕り、己の非論理的な知見の特殊性をむしろ是として論理的あるいは普遍性を追求する見識を駆逐するような人間の増長が、坂口安吾をしてこのように考えさせたのか。 時代は下り、先日南昌荘に集った人々にはみな「一家言」があった。「そのこと」については一言も二言も、語り出したら止まらない人々ばかりであった。 ある紳士が述懐した。 「この歳まで己の人生を生きてきて、試行錯誤を繰り返してきて、ようやくかくあるべしとする視座が定まったと思う人は私ばかりではないと思う。そういうことを後の世に生きる人に伝えたい、遺したいと思う気持ちがある。」 漢の時代の先人に通じる思考と覚悟を以て、岩手の、盛岡の、田野畑の叡智を繋いでいきたいとする意志が確かに南昌荘に集った。他方で坂口安吾が批判したように、個々の経験や知恵が、ややもすると独善的...

桜on三陸プロジェクト 第1回東北視察報告③

野蒜で初めて津波被害の実態を目の当たりにした田中と吉田は、青年のナビゲーションで国道45号線に戻り、石巻市へ入りました。途中東松島の航空自衛隊の基地が見えます。戦闘機は地震発生後にすぐ上空へ待避したものの、練習機などは後手に回って間に合わず、多くが流される映像がテレビでも放映されたところです。 基地の遠景を右手に見ながら国道を進むと、石巻港と港に隣接する工業地帯が視界に入ってきます。日本製紙の大工場をはじめ、背の高いプラントが整然と並んでいます。高いところを見ているだけではなにも変わったようには見えないのですが、建て込んだ建屋の陰を抜けて堤防に通じる道路に出た途端、何があったのかがみえる光景に出会いました。固い鉄で覆われていたはずの工場の建屋には数メートルもある大きな穴が空き、横倒しになったフォークリフトやブルドーザーがちらほら。 工業地帯を抜けると、今度は水産加工業者が集まる地区に入ります。大小様々、加工工程も様々の企業、工場が建ち並んでいますが、ほぼ全てが津波の被害によって操業停止。日曜日であったこともあるでしょうが、あたりにはカモメしかいません。青年の実家・兼工場だったところも被災。家は傾き、工場の建屋はすでに撤去してもらったとか。どこをどう流され、なににつかまって体を水から脱し安全地帯へ逃れたのか。その場の空気が弱い雨で柔らかくなっていたにも関わらず、張り詰めたものが一向に消し飛ばない。砂にまみれたままの設備がとにかく悲しい。100年は続いてきたという家業の成れの果てに、父親を失い再建の道筋も見えない。それでも自分は生きて行かなくてはならない。彼を、彼のような多くの人々を応援できなかったら、僕たちの存在価値はなにか。 青年が最後に案内してくれたのは女川でした。建物が残る石巻とは打って変わって「なにも残らなかった」町。本当に一部の鉄筋コンクリートの残骸を残して、焦土といって違和感がない景色。港のすぐ横には小高い丘(といっても目の前の五階建てのビルよりも高いのですが)の上に病院があり、万が一の時にはそこに至る数十段の階段を駆け上がれば難を逃れられると言われていました。実際には想定を超えて、病院の一階部分まで波が来た、ということでしたが。 金曜日の午後。地震発生から津波到来までわずか20分足らず。港の水産加工場で働いていたお母さんは、学校が終わって家にいる...

桜on三陸プロジェクト 第1回東北視察報告②

仙台の夜は更けていきますが、語り出したら止まらないうちの田中と畠山さんの勢いに引っ張られ、「○すけ」さんの息子さんが切り盛りする二号店「○たけ」さんへ。http://www.w-marutake.com/ かつて地元の酒造で蔵人として修行されていたという息子さん、酒の話をさせたらこれまた止まらない・・・。板長の親方も笑顔がステキなナイスガイ。田中の十年来の心友も加わって語らいは深夜まで続きました。「○たけ」さん、本当に素晴らしい居酒屋さんです。東京にあったらマジメに毎週通いたくなるくらい。もちろん仙台に行ったらMUSTですよ。みなさん。 ちょうど「○たけ」さんの目の前にあった某ホテルに意外にも空室があったので、飛び込みで宿泊して大浴場で足を伸ばすことが出来ました。こうして翌日の早朝から宮城県の沿岸部へ入っていったのです。 BeeBQで親しくなった石巻の青年をシェルパに迎え、僕たちは払暁の杜の都を車で出発しました。田中の心友が快くマイカーを提供してくれました。仙台市内を抜けて一路北東へ。泉中央から東へ折れて多賀城から塩竃に入る頃には、周囲の景色が変わってくることに気がつきます。石巻の青年が後部座席から、ところどころの町並みをみて「ここは6mはきましたね」と津波の被害状況を淡々と語ります。日本三景で知られる松島の街も、海沿いの観光地にある土産物店などはいまだ復旧していない店舗も散見されました。なにより日曜日にも関わらず、観光バスの一台も走っていない景色は元旅行業界の人間である吉田としてはとても奇異に映りました。10年近く前に来たときの賑わいと一変してしまっていることが、なんとも言葉になりません。 瑞巌寺にお参りしました。不思議なことに、海からの高さはさほどでないにも関わらず、山門もほぼ無傷で残り、境内のこけむす杉林も健在。静寂につつまれた、バガボンドの世界に出てきそうな空間がほんの少し離れているだけのはずの海岸線の景色と完全に隔絶しているように感じました。こういうときに人間は聖域のようなものをきっと感じるんでしょう。 石巻の青年いわく、松島界隈でも例えば利府町の海岸線(そのときは赤沼という地区を走っていました)にはほとんど津波の被害がないところがあるとのこと。理由は沖に「百景」をつくる大小の島々が浮かび天然の防波堤の役割をしているから。なるほど赤沼の海岸...

桜on三陸プロジェクト 第1回東北視察報告①

6月25日払暁。 桜on三陸プロジェクトの田中と吉田は人でごった返す東京駅でうまそうな駅弁を物色していました。 5月のHillsbreakfastで皆さんの前でこの計画をお話ししてから一ヶ月。あらゆる方面からご関心やご支援のお申し出を頂いて参りましたが、肝心の現地のことが分からないとなにも始まらない、東北の人に会って話を聞かせて頂き、僕たちの話を聞いてもらいたい、そんなふうに強く思っていました。 河北新報社の畠山茂陽さんという方を東京でご紹介頂いた僕たちは、畠山さんが25日の午後に仙台市内でBeeBQ(後で説明します・・・)大会を仲間と開催するという情報をキャッチ。人がたくさん集まる機会を逃してはならん!というわけで急遽弾丸トラベラーになることを決めたのです。 始発から午前中一杯は普通車、グリーン車ともに全車満席状態が続く東北新幹線。偶然にも同じ列車の同じ車両に岩手へスタディツアーに向かう「新渡戸国際塾」4期生のみなさんとご一緒しました。吉田が1期生として参加していた国際文化会館のプログラムです。満席の車内で、他の乗客に少々訝しがられながらも桜のチラシをお渡しし、広報活動。岩手での反応を今度聞かせて下さい。 杜の都はあいにくの雨模様。田中は生涯で初めての訪問ということでしたので、まずは土地の神様仏様にご挨拶をせねばなりません。というわけで青葉城趾、瑞鳳寺、瑞鳳殿へ。青葉神社というところもありましたが、どこへいっても正宗公。すごい街です。 仙台市内は宿泊も相当タイトになっているようです。復興関連で全国から人が押し寄せているわけですから、新幹線同様ホテルも混雑するのは当然でしょう。お昼を食べようと入った立ち食い寿司屋にも「ようやく仕事が終わった」と話す晴れやかな顔をしたビジネスマンがチラホラ。聞くところによれば土木や廃棄物処理などの直接的なお仕事に加えて、保険の損害調査などもいまがピークなのではないか、とのこと。タクシーの運転手さんも、「ビジネスマンは仙台を拠点に被災した地区へ動くからタクシーの需要がすごい。毎日のように走っている同僚もいる。」「会社は戦後初めて黒字になったとか冗談ともつかないことを言っている」と。復興特需ではないですが、確かに経済は一時的にかなり沸いている感覚なのでしょうか。それでも街を行き交う人々はいたって平穏そのもの。夜の居酒屋を見ていて...

競争を協奏に

格調高く重厚、ときには軽妙で水紋のように無限に広がるハーモニーを奏でるオーケストラ。管弦楽団と邦訳されるとおり、数多くの管楽器奏者、弦楽器奏者、そして打楽器奏者も加えた大所帯です。 美しいシンフォニーを奏でる優美な世界だと思いがちですが、きっと個々のパート、たとえばバイオリン奏者ならバイオリン奏者同士では、とてもシビアな競争があるのでしょう。そもそも奏者になれるかどうか、というところでセレクションがあるでしょうし、嫌が応にも実力のあるものだけが残っていくことのできる厳しい競争社会であろうことは想像に難くありません。ひょっとしたら「どこの学校を出て誰に師事したか」といったことも競争を決する要因として影響するかもしれません。 また楽団自体が財政の問題などで存続できるかどうか、他の楽団との生存競争にもさらされなくてはならないのが現実だと思います。映画「おくりびと」で、東京のオーケストラのチェリストだった主人公が納棺師になるエピソードも、所属していた楽団が解散してしまい職を失う、というものでした。 ただいずれにしても良質な競争こそが、クオリティのより高いオーケストラを創る源泉であることには、多くの人が同感するものだろうと思います。 数多くの楽器奏者が集まるオーケストラは、しかしながら全体としてシンフォニーを奏でなくてはなりません。個々のパートでは激しい競争がありながら、あるいは楽団として他の楽団と激しく競争しながら、ひとつのオーケストラとして数多くの異なる楽器を弾く多様な能力と専門性を持った奏者が集まり、ひとつのシンフォニーを響かせているのです。 このことを一般社会におきなおして考えてみるとどうでしょうか。 様々な能力や専門性を持つ職業人が、日々各々の土俵で競争しているのが今の世の中です。八百屋は青果のマーケットで、魚屋は魚のマーケットで、 IT サービスを提供する人は IT サービスのマーケットで、あらゆるビジネスはすべてそのモノやサービスを商う市場で戦われています。八百屋がバイオリン奏者なら魚屋はトランペット奏者、 IT サービスを提供する人はクラリネット奏者という具合に、各々のパートで競争しているのです。元々異業種だった人が他の市場に参入することもあるでしょうが、その人は元は植木屋であったとしてもそのときには「八百屋」であり「魚屋」になるのです。 そ...

なぜ桜on三陸プロジェクトに関わろうと思ったのですか?

「なぜ桜on三陸プロジェクトに関わろうと思ったのですか?」 田中さんがHillsbreakfastで最初のプレゼンをしてから2日。あらゆるところで聞かれるようになりました。去年の10月末に六本木の居酒屋(リアル中西@松ちゃん)で本当に偶然の出会いをしてから半年。先月お互いのパートナーを交えて食事をした際に、突如「吉田さん。俺、東北に桜を植えたいんですよ」と。僕は植物の知識も、東北のコネクションも、復興計画に影響を与えることも、資金集めをする力もない、彼にとってはほとんど役に立たない存在。ただひとつだけ、彼が感じる「価値」とはなにか、ということに心の底から共感が湧き起こったのです。 いまを生きる私たちにとって「価値」とはなにか。いったいどんなものか。「閉塞感」「停滞感」といわれ、なにか生きにくさを感じている人が少なくない現代は今後どのように変革されていくべきなのか。 前近代、私たちの祖先はいまよりずっと「不自由」でした。厳然たる身分制度、想像を絶するあらゆる格差、時には生存すら危ぶまれる厳しい自然環境、いまの私たちの「価値」から見れば圧倒的とも思える不条理。現代にいたるいくつもの事件や変革を経て、私たちは「人権」「国民国家」「世俗民主主義」「工業化」「経済成長」「格差是正」などさまざまな新しい「価値」を手にしてきました。私たちはかつての時代を生きた先達よりも可能性にあふれ、多様性を抱え人生を送るための多くの選択肢をもち、「自由」であると考える人が多いと思います。 一面において、それは正しいと僕は思います。他方で、「蛙の子は蛙」といわれたように、私たちの祖先が生きてきたのは、生まれながらにしてその人が一生を生きる「価値」が定められていた時代でした。暮らす地域や社会階層、性別、文化、宗教などによってこの「価値」が規定されていた時代でした。人々は他の「価値」を持つ隣の人々と今日ほど早く大量に移動したり情報交換をしたりせず、ある意味で「不自由」ではあるけれど「多様な価値」が共存していた時代でした。一人の人が生まれてから死ぬまでの間に感ずる「時間の流れ」は今よりもゆるやかであったように思います。 時代が進むにつれて、人々は前述した新しい「価値」を手にしてきましたが、一人の人がその一生を生きる間に感じる「時間の流れ」は速くなり、他の「価値」を持つ隣の人々との距離が近くな...

「グローバル人材」ってどんな人?

昨日、「日本版Gap Year勉強会」なるものに出てきました。KBSのBOPプロジェクトでご一緒しているJICA青さんが発起人である関係でお邪魔しました。200人近い人が参加。盛り上がりました。 Gap Yearとは英国やドイツで事例のある社会的な制度。高校卒業後大学入学前、大学在学中、大学卒業後就職前といった時期に「どこかに所属しない」一定期間のGap Yearを設けて旅行やボランティア、インターンなど若者の自発的な行動を促してそれを社会の制度として認知するもの(その期間好きなことをしたからといって就職など社会制度上不利にならない、差別されない、ということ)だそうです。学生時代にドイツにいたころ、そういえばいろんな人がいたことを思い出しました。僕の「友人」だった大学生達は平均年齢が24~5歳。一番仲が良かった友人はいまでも付き合いがありますが、当時僕より6歳上の「大学生」でした。(ドイツの場合はGap Year以外に大学の制度も日本と異なるのですが) 30分ほど遅刻していったので、到着したときにはすでに始まっていました。発起人の一人であるNRI小林さんのプレゼン。100万人が変わったら日本は変わるかもしれない。「人を変える」のではなく「人が変わる」というコンセプトと理解しました。そのあと15人くらいの今をときめく人たちが思いを語るセッション。とても気持ちの良い時間でした。 会場のどこに座っているかはあまり問題ではなく、響いているかどうかが問題。一番前に座って過分に飲まれちゃう子もいれば、一番隅っこで程よく響いているやつもいるかもしれない。「どう伝わったか」までをコントロールしようとすることは野暮だよね。「どう?俺のやっていることすごいでしょ?すごいよね?楽しくない?なんでわかんないかなぁ、もう!」と聞こえちゃうとちっとも粋じゃない。すごいことをやっている人のコトバは淡々と語っているようで力強く、否応なく響くんだよなぁ・・・。というようなことをつらつらと考えながら聞きました。みんなそれぞれ面白い。 近くに座っていた人たちと話をする時間がありました。要点はふたつ。 1.グローバル人材ってどんな人? 2.我々にとって最も大事なことってなんだろう グローバル人材とは「自分の国について語ることが出来る人」 という人。彼は経験に照らして「『あのとき』出来なかった(から今そう思...

稲刈り

先週末は実家で稲を刈っておりました。 何度かこのブログでも紹介した両親のやっている風の谷ファームの「 自然農塾 」のみなさんに、僕や兄弟の友人も何人か加わって丸一日がかりで3枚の田んぼを丸刈りにしました。 通常の田植えでは数本の苗を一緒に植えていくのですが、風の谷ファームでは「一本植え」。同じところに小さな苗が一本しか植えられないので、当初はなんだか寂しい景色でした。 しかし蓋を開けてみるとびっくり。たった一本の苗から見る見るうちに分けつし、刈り取るころには20本近くにまで増殖。一本の稲穂に30以上のお米がついていることから推計すると実に一粒の種籾から600倍もの生産性があることになります。(ほんとか??) また先週の台風でものすごい風雨が吹きすさんだはずで、ふつうなら寝たり倒れたりしてしまうところですが、見渡す限りしゃきっと立って並ぶ稲穂は、刈ってしまうのが少しもったいないほどでした。 刈られた稲は①はざ掛けにされ②脱穀され③ムシロで天日干しされ④水分が指定の割合まで下がったら精米されてようやく食卓に供されるようになります。この間およそ10日から2週間。収穫祭はもう少し先です。 はざを組みながらオヤジがぼそっと「グローバリゼーションがますます進んでいく世界において如何に地域経済の復興していくかは農業と自然環境の再生、そしてそこに集う人間と自然との関わり合いにかかっている」。 そういえば「放射冷却米蔵」は完成し、先日も大原の漁船の船長さんとなにやら「海の森」構想の話をしていたし、またなにか企んでいる模様。 絶叫ブランコは大人気だし、ツリーハウスの土台もできたし。次は一体何をするのか。

闇鍋

先日のブログで報告しましたとおり( http://44dgeorge-penguinflipper.blogspot.com/2010/06/blog-post_11.html )「朝会」の闇鍋プロセッシングがどのように進んでいったのかをまとめて参りたいと思います。 設定は以下のような感じでした。 鍋=グローバルシティ東京 具1=英語能力 具2=他者包摂のためのエンロールメント能力 具3=高度人材移動 まず鍋の準備はこのような具合。 「グローバルシティ」は東京以外にもニューヨーク、ロンドン、パリをはじめ世界各地に存在。(グローバルシティの定義は http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%83%BD%E5%B8%82 ) 中でもアジア地域は顕著であり、シンガポール、香港、上海などグローバルシティとしての相対的地位が上昇。 東京は「グローバルシティ」競争ともいえる流れの中で如何に比較優位を確立していくことが出来るか。 いくつか方策が考えられる中で、「東京の魅力を外国人に知ってもらう」取り組みが挙げられる。イベント(映画祭、ファッションショー、モーターショー、など)を通じた発信。 中でも東京の文化がつまった「祭り」を前面に打ち出すという設定はどうだろうか。 次に具の下ごしらえ。 具1=外国人を東京にinviteし、hostする場合、communication toolとしての英語から、文化の持つ価値を「日本語」を理解しない「日本人以外」の受け手の価値観にビビッドに伝え、落とし込むようなある意味での「意訳」「超訳」が求められるのではないか。これはもはや一個人の言語能力に留まらない。 具2=外国人を東京にinviteし、hostする場合、具1で挙げた英語能力に加えて、感動の輪に受け手を巻き込み共感を呼ぶ態度や姿勢(enrollment behavior, attitude)が求められるのではないか。これはもはや一個人の性質や努力に留まらない。 具3=観光目的の外国人を多くinviteし、hostすることは極めて重要。他方で観光人口そのものはフローであるため、東京の魅力を伝えるその先にストックとなる定住型高度人材の誘引が求められるのではないか。 闇鍋とは、グローバルシティ東京の比較優位を高める潮流が中で渦巻いている鍋。...

朝っぱらから走り始めてます

さて走り始めた「朝会」は、5月最終週の第1回で前回書いたような初期設定を施されました。 http://44dgeorge-penguinflipper.blogspot.com/2010/06/blog-post.html そして2週間後の今週、第2回が開かれました。 メンバーが持ち寄った「気がついたこと」「気になったこと」を各々が発表します。 Aさん「世界に増え続ける大都市との競争に東京は生き残れるか」 Bさん「英語能力は必要条件か、それとも付加価値か」 Cさん「なぜ日本人は「お誘い」が苦手なのか」 私「国際的な労働移動は日本の成長に役立つか」 一見バラバラのテーマですが、きれいに縦糸と横糸が見えました。 各々の発表を受けてみんなで話し合ったところ、みなやはり同じ感想。集まるべき人が集まるべくして集まっています。別に狙ってないのですが結果的に。こういうときに同調性とか共感性を感じるととても嬉しくどんどん物事を前に進めたい気分になります。 「グローバル化する世界」という文脈の上に載せると、全てが繋がって語られるよね。 その上で「東京」というハードインフラに「英語能力」「積極的なコミュニケーション」「国際労働移動」というソフトインフラを載せると、「グローバル化する世界の中で、東京という都市においてこれらのアスペクトがどのように位置づけられているのか、これらはどのように東京という都市の趨勢にインパクトをもたらすのか」というようなテーマになってくるよね。 各々が持ち寄ったアイディアを「東京」というナベの中で一緒に煮てみよう、ということになりました。 はてさてどんな料理が出来るのか。 闇鍋?? かもしれません。 誰かの下宿に集まって闇鍋、ワクワクしたでしょう?

早朝から集まってます。

最近時流に乗って(?)「朝会」という勉強会を始めてみました。「丸の内朝大学」など他の若人(?)もすなるという巷で大流行の早朝勉強会を我もしてみんとしてすなり、と紀貫之チックな心境です。 今週第2回の集まりを開いたのですが、前回までの議論で整理した会の大まかな流れと狙いを忘れないように書いておきます。 (流れ・アプローチ) 「自分たちでアジェンダを決める」「急がない、じっくりゆっくり深く広く」 1.ミーティングは隔週1回。 2.各人が次のミーティングまでの2週間、日常を過ごす中で自分の立場、視線から世の中を見つめていて「気がついたこと」「気になること」を意識的にピックアップして、参考情報などと一緒に持ち寄る。 3.持ち寄った「気がついたこと」「気になること」について報告し合い、その中から次のミーティングで更に深く考えたいものをみんなで選ぶ。 4.次の2週間を使って同じテーマについて自分の立場、視線から調査し、分析し、考察を深めて再度持ち寄り報告し合う。原則2回で一つのテーマについて扱いたいが、メンバーが合意してより深く学びたい、知りたいという場合は当然この限りではない。 (狙い) 「コミュニケーション」「アジェンダメイキング」「エンロールメント」「アクノレッジメント」「サティスファクション」 1.自分たちではない他の誰か(セミナーの主催者とか)がアジェンダを定めるのではなく、参加するメンバーひとりひとりが自分の立場、それぞれの視線から日常を生きる上で「気がついたこと」「気になること」を持ち寄ってアジェンダから一緒に作る。 誰かが作った組織、誰かが考えたアイディアにただ乗っかるのではなく、自分たち自身が発案できるということがインセンティブと感じられれば会の参加に積極性と主体性が生まれ、結果として持続性が高まる。 2.メンバー自身の立場、視線から集めた「気がついたこと」「気になったこと」を元にアジェンダを作ることによって天から降ってきたようなものではない「地に足の着いたテーマ」を設定する。 但し、各論が集積したとしても、それらを包含するマクロ的視点、本質的議論に収斂し共有していかれるようお互い意識し、良い意味で「趣味的」または「蛸壺」にならないようナビゲートし合いたい。(当面僕が縁の下のファシリテーター的な役目を買って出ようと思っていますが、交代でその回のチェアを決めてや...

「鎖国の始まりと終わり」 

昨夜は某私大の副学長と某メガバンクの元役員の方と会食をしました。 新卒のころから面倒を見ていた後輩の人脈です。若いのに立派な人間です。別に僕が育てたわけではないのですが、、、 インフォーマルかつ気軽な懇親会ということで、とてもリーズナブルで感じのいいお店でした。 tete a tete http://homepage2.nifty.com/tete-a-tete/index.html 副学長はタイの歴史がご専門、会食には僕のラオス人の同僚も同席していたので、話題は意識せずとも東南アジアに関する話が中心になりました。ラオスの観光振興の話からカンボジアとの対比、アンコールワットを遺したクメール王朝とタイのアユタヤ王朝の話へと移りました。 そこから日本と東南アジアの関係へと発展しまして、話の主役は山田長政に。彼に代表される近世に生きた日本人には進取の気質があり、彼らの多くが「浪人」(傭兵)と「貿易商」という組み合わせであり、当時同様に東南アジアに進出していたポルトガル人と同じ構造であったそうです。 日本人町では、日本人と混血した末裔が暮らしていたことから、おそらく人びとの顔立ちは「日本人」ではなかったでしょうし、言語もだんだんと現地化していたかもしれませんが、しかし衣服だけは日本の服装を守っていた、と。興味深い点です。 江戸幕府が鎖国政策を導入した動機としては各諸侯(藩)が独断で対外交易をして幕府に対応し得る財政を築くことを抑止するために、一般の日本人の対外渡航を禁じオランダ・中国・朝鮮・アイヌに限って所定の藩を経由して交易を行う管理貿易体制を敷くことで幕府の統治体制を安定化させることなどにあったそうですが、鎖国体制を持続するためには、国内で自給自足の食糧生産が確保され、諸産業が完結し経済が自立していることが前提になるため、以後200年以上続いたことからもこの前提は達成されていたのではないか、とも。「内向き」でもやっていける状況だったということでしょうか。なんとなく今の日本に雰囲気が似ているかも。別に鎖国をしているわけではないですし貿易も活発にしているのですが、国内社会の仕組みや少なからず人びとのマインドは「鎖国状態」に近いのではないだろうかと個人的には思います。 昨今、「鎖国」をやめて「開国」し西洋文明に「開化」していく幕末・明治の時代がクローズアップされ人気です。(昨...

4回目の田植え

イメージ
両親が千葉県はいすみ市榎沢に就農して4年目。 先週の土曜日に4回目の田植えをしました。 一昨年、昨年は荒天で冷たい風と指先を凍えさせる田の水との戦いでしたが、今年は一転して好天に恵まれて田の水も温み、まるでさながら温水プールの中でホット泥パックをしながら田植えをしている気分でした。 緑のあぜ道に縁取られた田んぼは冬の間湛水されていたため保温され生き物が逃げず滋養たっぷり。カエル(全長30㎝もあるウシガエルを筆頭に・・・)ザリガニ、ドジョウ、ヒル、アメンボ、、、名前も分からない大小様々な両生類や昆虫たち。抜けるような青空とのコントラストが実に気持ちよく、労働の疲れを癒してくれます。 友人を中心に10名近い方々に集まって頂いたおかげで順調に作業は進み、無事に目標としていた田んぼ一枚(25m×40mくらいの広さ)を植え終えることができました。田んぼは全部で5枚あり、我が家だけなら米の自給率は400%を超えます。そのため後述するトラストへの賛同者に還元したり、小ロットながら自主流通する販路を模索しています。 両親のファームでは、完全無農薬で出来る限り自然の理に適った農を実践するための土地保全を目指しています。どうやら田んぼの生き物たちのうち「捕食」をする肉食獣たちは常に田んぼにいるわけではなく、ときどき「山」から出てきて、あるいは空から飛んできて「田んぼレストラン」で食事をするようです。そのため田畑だけではなく後背地である「山」も含めて保全管理したい、そんな土地を求めて移住しました。この山の急斜面から大空に飛び出すように作られた「ブランコ」があります。自然との共存の中に人間らしい楽しみ方を合わせて寄り添っていく生き方です。 先述した「冬期湛水」はその手法のひとつです。ふつうの田んぼは冬場に水を抜いて地肌が露出した状態であるため生き物は田んぼから姿を消すか、地面深く潜ってしまいます。春になって苗を植えるときには田んぼの地表はある程度柔らかくないといけませんので、冬の間にがっちり硬く締まった表土を柔らかくするために鋤起こして撹拌し、水を入れた後に地表を平らにする代掻きという工程を経ます。この工程で機械をいれて土を引っかき回すのでますます生き物が死に、あるいは逃げてしまいます。しかし田んぼに水が張っていることで地表の温度が下がらないため、翌年の春から稲が根を張るであろう深さの地表...

ニーツェ

昨晩は(すでにつぶやいてはいますが)図らずも千鳥ヶ淵の花の宴客に巻き込まれながら、ディスカヴァー21の読書会「超訳 ニーチェの言葉」に参加しました。 著者の白取さんから「ニーチェ」はドイツ語の発音では「ニーツェ」に近いよ、と言われ「そうだよなぁ。Z=ツェットだもんなぁ。」と懐かしのドイチェ(これはチェ)発音を思い出しながらお話を伺い、また座席近くの人びとと輪になっていろいろなお話をさせて頂くことが出来ました。 装丁を担当したデザイナーの方や、印刷会社の担当者の方もゲスト参加。たまたま席が近く後半の「輪になる」セッションでご一緒したので、装丁家が何を考えてカバーをデザインするのか、印刷会社の方が出来上がった書物にどれだけ思い入れがあるのかといったことに触れて、改めて「書物」の持つ価値を見つめ直すこととなりました。kindleやipadは確かに世界を変えてしまうかもしれませんが、少なくとも私は「書物」を目にしたときの装丁の美しさ、手に取ったときに感じる「物理的な重み」や「指でページをめくるときの紙のざらつき」といった「触感」を読書の楽しみの重要な要素だと思っている人間なので、紙の書物を創り続けるお仕事の偉大さを改めて確信した次第です。重い洋書を出張先にまで持っていって、それでも読みたいと思い続けられる人間でいたい、というのが偽らざる本音。 さて「輪」のトークで、「この書物に出会い、『難しい』哲学の象徴だったニーツェに対する認識が変わった」と申し上げたのですが、より正確に表現するならばきっと次のようなことを考えていました。 僕は「哲学そのもの」を難しいと思ったことはありません。「難しい」とは「この解釈はかくあるべしと異なる主観から定義されたものを自らのものとして理解せよ、というコンテクストに違和感がある」と翻訳されるべきものだと考えています。では「難しくない」「違和感のない」哲学とはなにかといえば、それはすなわち「自らが創り出す哲学」に他なりません。 自身のおかれた環境とうまく付き合って生存していく上で必然的に見いだされる「価値観」と、自らの実際の行動とその結果得られる知見からにじみ出てくる「おそらくそうであろう、そうに違いないと考える」物事の本質らしきものは、果たして「真理」なのかどうか(もっと平たく言えば「自分は『正しい』方向を向いているのだろうか」ということ)を、真...

Delivered a Speech from "Excellency Made in America"

イメージ
先週土曜日にサントリーホールでオバマさんのスピーチを聴きました。 朝8時の開場と案内されていたので、余裕を持って7時45分に集合!ということにしていましたが、時間を読み過ぎて7時25分にはカラヤン広場に到着しました。 そのときすでにエントランス前には100人を超す列が出来ています。 チケットをまだ受け取っていなかったので、一瞬並ぶことを躊躇。でもどんどん列が長くなっていきます。座席は全て自由席ということだし、雨がひどくなってきたらとても外で待てないし・・・。仲間がひとり来た7時30分のタイミングで意を決してノーチケットのまま列に並びます。屈強なSPにチェックされたら、もうそのときはそのときだ。チケット持ってるCさん、早く来て!!! 約束していた7時45分を過ぎるころには列は長蛇と化してカラヤン広場を埋め尽くしました。 ようやくチケットを持ったCさん到着!この頃にはバッチを付けずに会場に入ろうとしたSPが大使館関係者に軽くたしなめられたりしているのを横目で見つつ、だんだん入り口の警備状況も分かってきて緊張感が高まります。 しかし実にいろいろな人が並んでいます。少し見渡した限りでも著名な政治学者である東大のK教授や、元共同通信記者でTBSなどの報道番組でアンカーも務めるG氏など、VIP対応されてもおかしくない人たちが雨に濡れて並んでいます。と思えばやはり学生さんとおぼしき若い人たちがとても多く招待されていて、なるほどと思わされます。 airport-like security checkをくぐり抜けていざ二階席へ。我々「一般招待」者は一階席には入れません。バルコニーの、それもステージを至近に真横から見られる左側の席へ。近い。とても近い。正面の席も捨てがたいけれど、近さに負けます。 そしてこの位置からは一階のVIP席に座る人たちの様子が手に取るように分かってとてもおもしろい。frontrowには現職閣僚もちらほら。9時過ぎにはほぼ着席完了。スピーチの開始予定は10時。あと1時間ちかく居並ぶ大臣たちを含めて政財界の重鎮たちを待たせるって、やはり大統領は別格ということでしょうか。 入場口で配られたロックスターも顔負けの「大統領パンフレット」を読んでいると弦楽四重奏+クラリネットの余興が。しかも演奏は日本フィル。大統領のプロフィールが写真付きで細やかに描かれた20ページにもおよ...

3R

イメージ
3Rってよく見聞きする言葉だと思います。 Reduce, Reuse, Recyclingの三つのRをとって3R。 廃棄物を減らし、再利用し、リサイクルするという意味だそうです。 僕は専門家でも何でもないのですが仕事上の行きがかりから、日本やASEAN各国を含めたこの3R政策を研究するプロジェクトのお手伝いをするようになって2年目になります。3Rはもとより環境政策の先進国である日本をはじめ熱心なタイやフィリピン、シンガポール、マレーシア、そしてインドネシア、ベトナムといった国々からの専門家でワーキンググループを作っています。僕はさしずめその事務局といったところです。 廃棄物と一口にいっても、種類は家庭ゴミから産業廃棄物、それもhazardous waste(有害廃棄物)まで実に幅広く、国によって処理の仕方や法規制の有無、整備状況もまちまちです。informal sectorと呼ばれる中小の無認可業者がdumping(不法投棄)をした結果、環境破壊を招く事例も多数起きているようで、日本も過去の苦い経験に則って、如何にinformal sectorをformalizeしていくか、業界の法制化と企業育成のための制度作りに向けた提言をすることもこのプロジェクトの目的になっています。また近年注目が高まっているrare metal(希少金属)資源の再利用についても、大きな課題のひとつです。といってもこのプロジェクトで取り扱うのは、レアメタル回収・再生利用の技術的な側面ではなく、なかなか見ることの出来ない再生可能資源流通やそこに関わるステークホルダーの実態を調査し、どのようなルール作りや支援を行えばいいのかを探ることです。環境問題、それも廃棄物処理の問題については、従来は一国内の問題として各国別に取組が行われてきましたが、廃棄物や再生可能資源の国境を越えた取引がde factoで進む一方で、中には当然ながらilegalなものもあることからその規制が求められる、また枠組やルールを統一化することで市場としての価値が高まり、結果として業界が洗練され3Rの効能が高まるという期待をこめて、国の枠組を超え地域全体としてこの問題に取り組む必要性があるとの認識から多国籍のワーキンググループが組織されています。 先週インドネシア・ジャカルタで開催された第一回の会合では、会議室でのミーティングはもち...

JKSK

18:33海浜幕張発の快速に飛び乗っても新宿に着くのは19:40。 田舎勤務を憂いながら駆け付けたのはJKSK月例会@クリナップ西新宿 ショールームです。 http://www.jksk.jp/j/jksk-report/index.html JKSK(女子教育奨励会)とは、古くは明治の企業家渋沢栄一らが中心 となって「女性の社会参加と国際化」を目指して官民一体となって 設立したものが平成の世にリバイバルしたものだそうです。 主宰者(理事長)はこの方、木全ミツさん。労働省の幹部を務めて 国連公使に。退官後はボディショップジャパンの社長をなさった方。 http://www.jpf.go.jp/jfsc/topics/fr-0606-0075.html 国際文化会館で昨年行った「新渡戸塾」という「次世代のグローバル リーダーを育てる」ことを目的にした私塾に参加させて頂いた時の ご縁でご紹介頂き、先月からお邪魔しています。 新渡戸塾については、たぶん来週くらいに別途書きます。 JKSKの月例会は、理事長である木全ミツさんの手料理で始まります。 毎回招聘して貴重なお話をしてくださる講師のイメージに合わせて? メニューが変わるそう。今回はけっこうピリ辛のものが多かった気が します。といっても2回しか出ていないのですが、今日の講師は確かに ピリ辛だったかも・・・。 講師の西田陽光さんは、東京財団の加藤秀樹さんが主宰する「構想 日本」という政策集団の広報責任者を務めていらっしゃる方。 西田さんのブログはコチラ。 http://blog.livedoor.jp/yohkoh2/ お話の主題は、財政難のわが国において、公共部門にかかる税金と その使途となる事業を見直し、無駄をなくすために構想日本が 自治体や省庁、政党へ働きかけて、「事業仕分け」と呼ばれるプロ ジェクトを行っている、その活動内容を紹介する、というものでした。 ポイントは以下の通り。 ①国・地方に関わらず、行われている事業が公費投入するべきもの なのかどうかを、当事者である自治体・省庁・政党とその事業を分析 出来る実務者・専門家、そして広く一般に開かれた形で点検し クラリファイしていく。 ②予算規模の大きな事業かつ効率性、事業の必要性等を勘案して疑問 がある事業を精査した上で「事業仕分け」を行う。公費支出に値せず と判断...