投稿

美容室という場所について

昨日、久しぶりに髪を切った。イギリスに来て2回目である。一年で2回?そう、とても少ない。 去年の夏、こちらに来る直前に10年来通い続けている表参道の美容室で切ってもらっていたから、最初の数ヶ月はある意味で除外できるとしても残りの8~9ヶ月あまりを2回の散髪で乗り切るというのは尋常でない。といって日本にいるときも年に4~5回の散髪であったことを考えればそれほどの数字でもないかもしれないけれど。 とにかく人生最大級の長髪だったのだ。それも慣れるとそれほど悪くないと思い込むのが弱い人間の常であるが、髪を切りたい欲求というのはある日突然やってくる。昨日の昼前に思い至って、午後3時には近所の美容室にいた。前回切ってもらったところと同じである。 言葉でスタイルを説明するのがややこしいし、微妙な表現がうまくできないのであらかじめ携帯で調べておいた「こんな感じ」というネット上の写真を見せてみる。20年ちかく前にロンドンやパリで散髪にトライしたころはまだインターネットというものもさほど普及しておらず、そんなことは考えもしなかった。代わりに店の中のポスターを指差す、というアナログっぷりであった。そういうわけで、美容師にはこちらの要求がビジュアルに伝わり、ほぼほぼ思うとおりの姿かたちに出来上がる。 もともと僕は美容室でたくさん話さない人間である。というより一般的にそれほど話さない。3歳児の頃には「口から生まれてきた」と揶揄されるほどの口達者であったことを考えると、長じてからの、特に直近数年の無口ぶりはなんとしたものだろうか。人間生涯で発することのできるワード数が決まっているのかもしれない。いや、他ではけっこう話す。とみに美容室で話さないのだ。 もちろん美容師は話しかけてくる。特に見習いが会話の練習とでもいわんばかりに洗髪中の僕に向かって住まいや職業や婚姻関係を聞いてくるのはもはや毎回のことである。それ、けっこう順位の高い個人情報だよね?という感じのする類のきわどい質問もある。当然それらを一切無視して終始無言を貫いているわけではない。個人情報保護ガイドラインの説明など受けていないけれど最小限の受け答えはする。情報流出が怖いから話さないわけでもない。 10年通う美容室のオーナーはそういう空気をきっちり見極める人なのかどうか、ふわふわしていてつかめない人なのだけ...

ハイジの国あるいはバーニーズマウンテンドッグの国のこと

少し時間が空いてしまったが、先週初めてスイスという国に行くことが出来た。 これまで何度も欧州に足を運んでいながらなぜか訪れることのなかったスイス。学生時代にドイツやオーストリアを周遊していたときに、ふらりと国境を越えても良さそうなものであったスイス。ハイジの国スイス。バチカンで観たスイスガーズの故郷スイス。 往路の機内で地図を見ながら、改めてこの国が、山がちな国土の四方を強大な国々に囲まれていることに思いを馳せる。 ドイツ、フランス、イタリアの三強が北西南を押さえ、さらにかつてのハプスブルク大帝国の旗艦であったオーストリアが東側の山向こうに控えている地形は、さながら四面楚歌である。 チューリッヒの空港に降り立ち、車窓から国土を眺める。線路のすぐ間近まで迫った山肌が限られた平地を切り取って聳え立つ景色は、なるほどこれまで物の本で得た知識そのもののようではある。 四つの大国に囲まれながらスイスが独立を保ってこられたのは、ひとえにこの山ばかりの国土に誰も関心を持たなかったのだ、という説は、この景色を見ているとなるほどそうかもしれないと頷ける。 他方で中に立ち入ってみるとそこは各地域の自治が非常に強い連邦国家であり、地域によって話される言語が違う。言語が違うということの意味は、駅に滑り込む電車の車窓に見える建物の景観が街ごとに違うということであり、そこに住まう人びとのアイデンティティが異なるということであり、その違いの分だけひとつの連邦国家の中に多様性を内包しているということである。 僕はスイスの歴史にまったく明るくなかったので、いくつかの情報を参照する程度で旅に出かけたのであってその奥深いところまで見知ったとはとてもいえない。言えないのだけれど、旅先で人びとと言葉を交わしているうちに、ふと気が付いたことがひとつある。 かつてかじったドイツ語は、タクシーで行き先を告げたりレストランでウェイターと話をしたりする程度の語学力である。たまには使ってみようとドイツ語で話しかけると、彼らはドイツ語で返事をしてくる。少し込み入った話になると生半可なドイツ語はまったく役に立たないのでおのずと英語に切り替わる。そうすると彼らは英語で応対してくる。となりのテーブルはフランス人、あるいはフランス語圏から来たお客だろうか。僕とドイツ語+英語で話をしていたウェイ...

チャリティフットボール

先週から毎週木曜日の昼間はAlbionのチャリティーフットボールに参加している。地元のプロサッカーチームBrighton and Hove AlbionのコーチであるChrisがチームのコミュニティ活動(Albion in the community)として展開しているもので、失業中であったりメンタルヘルスに課題を抱えたりしている若者にフットボールを通じて楽しみを持ってもらおうとする取り組みである。 コトの始まりは昨年の11月頃だった。フットボールができる環境を探してインターネットサーフィンをしていたら、偶然家の近所の公園で水曜日のお昼に集まっているフレンドリーのサークルが目に付いた。さっそくMeet upという当地のこうした市民活動やサークル活動に使われているSNSから連絡を取ると主催者のChrisから「来て差し支えない」という返事があった。 それからほぼ毎週、春学期は水曜に講義が入ってしまったので数週間ご無沙汰したが、水曜日のHove parkで大学と家庭との往復では知り合えない地域のおじさんたちと一緒にボールを蹴ることは楽しかった。言葉は三割くらいしか分からないけれど、フットボールのルールは同じで、いいプレイをすれば褒め合い、ゴールを決めればハイタッチをする。どんな人でも受け容れられる。人種、年齢、立場は一切関係ない。僕(アジア人、みんなよりちょっと若い、学生、英語はあまりしゃべれない)が良い証明だ。スポーツの持つ力の大きさを実感していた。 3月に入り、Chrisが新しい提案をメンバー宛のSMSに送ってきた。それが冒頭に書いたチャリティーフットボールの企画への参加を求める内容だった。どうやら秋からHove parkに人を集めてプレイしていたのは、この企画に賛同してサポートしてくれる地域のオトナを発掘するためのデモだったのではないかと気が付いたのはこのときである。前々から大学の外に広がるブライトンの一般社会、それもなにがしかのサポートを必要としているところに自分が少しでも貢献することで地域に入っていくきっかけを探していた僕は、矢も盾もなくこの提案に飛びついた。僕が時間に融通の効く学生であることを彼が知っているからかもしれないが、そんな話を前に少しだけChrisにしていたからか、おそらく積極的に関わる気のある人間だと判断されたのだと思う。 そ...

生き方を語るのは意外と難しい

今週水曜から来週の水曜までの一週間、一時帰国する。もともとは畏友の結婚式が来週の日曜に予定されていて、なんとかそれに出席するための一時帰国であった。これを機に今後のことについて上司とも話しをしなければならないし、諸々の用事もあったので、思い切って学期の途中に帰国することにした。 途中とはいっても、もうコースワークはあと二週間を残すのみである。4月11日にすべての講義が終わり、5月15日までに春学期のペーパーを提出し、6月2日までに修士論文の概要を提出し、そのあとはひたすら論文執筆の世界である。縁あって出会った同級生たちとも、過ごせる時間はあとわずかである。 昨日はバングラデシュ人のイクバルに誘われてふたりで延々と酒を飲んだ。いろいろなことを話した。まさかイギリスでバングラデシュ人にサムライの、「武士道」の話をするとは思わなかった。 そもそも私の祖先は厳密な定義でのサムライではない。農民と武士の間のような郷士であった父方と農民と商人の間のような生糸仲買の母方との間から昭和の後半になって生まれてきた私が、外国人に対して「武士道」とはなんぞやと語ることもあるいはおこがましいのかもしれない。 幸運にも基礎的な教育とその後の機会に恵まれて、「武士道」を知識として知っているということはあれど、そもそも私は伝統や権力を背景としてもつエスタブリッシュメントではないし、エリートでもないという確固たる自覚がある。そうであったら、という羨望にも似た気持ちがなかったか、と問われれば、かつて「選良」に対する憧れがあったことは否定できない。 しかしながらそれは明確な権力への欲求とは異なり、知的好奇心が長じた賢者への純粋な憧れ、と表現したほうが正しいと思う。他方で、庶民の子供として生まれ、小さな世界でのみ少々かしこいといわれて育ってきた少年にとって「選良」は憧れる対象ではあっても、真の意味でそうなれるものでは決してない、ということも歳を経るごとに心の底から分かってきた。 いくつのころからか、そうしたある種の幻想への憧れと言うものは不思議と消え去り、己の足元と、そこに続いてきた道と、そこから続いていく道が、とても納得のいく形で見えるようになった。それは他人の目からすれば、しごく控えめで野心的でなく、悪く言えば挑戦的でなく、したがってややもすると怠惰で、厭世的にさえ...

鉄道で映画のススメ

週末にロンドンへ向かう列車に映画を持っていって観た。 乗り物の中で映画を見る、というと私の世代は真っ先に飛行機を思い浮かべるだろう。それも個人用モニター、さらにはオンデマンドチャンネルなどというものはここ10年くらいの出来事である。 思い起こせば初めて乗った欧州線では、はるか前方の大きなスクリーンを機体最後部にわずかに残った喫煙席からくゆる紫煙の向こうに眺めていたのだから。それだってもちろん「南回り」や「北周り」の諸先輩方にはかなわない。それはなぜ日本赤軍にハイジャックされたパリ発の日航機がダッカに着陸したのか、という一昔前の時代の話である。ともかくかつては「列車の中で映画」なんて言ってみたら頭がおかしいのか、そんなふうに思われてもおかしくなかった。時代は変わるものである。 この日はブライトンからロンドンへ向かう列車が片道二時間掛かるということだった。通常であれば北に向かってまっすぐ延びる線路を走るところが、週末をかけて保線工事をするとかで、私の乗る上京列車はウォーシングやリトルハンプトンといった海岸沿いの街々へ大きく西に迂回してから、一転北上してロンドンに向かう経路を辿った。 あらかじめ二時間という行程を知ったので、のんびりと車窓を楽しむだけではもてあますと考えた私は、この日列車の旅に映画を持っていくことにした。 カトリーヌ・ドヌーブ主演の「インドシナ」を観た。初めて観たのはいつのころだろうか。何度目かの「インドシナ」である。何度も観るほど良い映画かといわれると胸を張ってそういえる自信はなく、正直なところ微妙な部分も少なくない作品なのであるが、この日はなぜかこれが観たくなった。理由は分からない。 簡単に話をひもとく。植民地インドシナに生まれ育ちフランス本国を知らないドヌーブ演じるフランス人女性とその養女である両親を事故で失ったベトナム人皇族の少女がひとりの若きフランス海軍大尉を愛してしまう。少女はハロン湾に転勤した彼を追ってサイゴンから北へ、革命前夜のインドシナを旅する中で、植民地支配下で抑圧され貧困にあえぐ人々と交流する中から、巨大なゴムプランテーションを営む支配者階層である養母と離れて共産主義革命へと身を投じていく。 「インドシナ」はメロディに母と娘がひとりの男性を愛するというある種の禁忌を奏で、インドシナ植民地をまさにい...

鈍な機械にも五分の魂

一週間ほど前に大家のスティーブがボイラーの交換を決めた。 あさっての火曜日の朝にガス屋が見に来て交換作業の詳細を決めることになった。 最低でも16年かそれ以上の年齢を重ねたボイラー。比較的近い風呂場や洗面は比較的安定的にお湯が出るし、暖房も問題ないのだが、台所の流しはたまにいつまでたっても水しか出ないことがあった。なによりガスの燃焼効率が悪いのか目玉が飛び出るような請求が来たりしていて、これは替えてもらわないと、という状況だった。 それが、交換が決まった途端に、パフォーマンスが良くなったのだ。この一週間と言うもの、ボイラー氏は極めて安定的な給湯を続けている。念のためガスメーターも日々確認しているのだが、(まさに人間スマートメーターである)、ガスを使わなかった日をベースラインとして、そこそこ使った日と比較をしても極端に効率が悪いとは言えない状況である。 交換が決まる前までは、それこそ目玉の飛び出る請求の元となるメーターリードを生み出した元凶のボイラー氏は、自分の寿命が残りわずかであると悟ったいま、現役最後のご奉公と思ってか空前絶後のハイパーパフォーマンスを見せているのである。 いや、冷静に考えれば安定的に低燃費で動く、というのが当たり前なのかもしれないけれど、イギリスに来てからというものすべからく期待値レベルが下がっているので、こんなことでも驚き喜んでしまう。 そして、これは子供のころからつとに感じていたことなのであるが、機械などが交換されることが決まると急に調子が良くなるという記憶がある。機械にも心のあることなのかもしれないなどと思う私はナイーブだろうか。それでもいいと思っている。

ピナ・バウシュに救われる

この間、階下のリノベーションに入っている工事屋がヘマをして、粉塵が階上の私の部屋に降り注いだり、どうも中だるみというか学問に身が入らない日々が少し続いていて体と気持ちが疲れていた。 気に障ること、心に不安があると決まって不調をきたすので、随時主張する痛みとの戦いも体力を消耗させる。結果として体調を崩すわけにはいかないので睡眠時間を長く取るように心がけると、活動時間はおのずと短くなる。二月のほとんどの時間はそうして過ぎている。 そんな中で先週の日曜日にロンドンでピナバウシュのTanztheaterを初めて観た。ドイツのなにがしかをかじった身としては、一度は観てみたいと思っていた集団のパフォーマンスをこうした形で観ることができたのは奇遇としか言いようがない。 今回の演目は舞踏よりも演劇要素の強いもので、セリフも多くストーリー性もあるものだった。しっかり人間と言うものの禍々しさや清清しさを掘り下げてくれる作品だったので、一緒に見に行った人たちとも良い話ができた。 一流のアートに触れるべき理由のひとつは、そこから新しい発想が生まれ、対話が生まれ、そして人々の中にそれぞれに解釈されて定着していくことなのだろうと前々から思っていたことを、図らずもこの機会に改めて実感した。ひとりひとりが受け取ってそれぞれの中で咀嚼して腹の中に沈める、というのもいいのでしょうが、その時間、空間を共有した幾人かの対話からそれぞれの価値が変容され、リフレクトされ、そして互いに増幅されていく過程も含めてアートの価値として考えてみると、その接し方、慈しみ方をますます心に置いておけるようになるのではないかなと思う。 そんな昨日、三回目のロンドンフィル。どうもなにかを感じられない。それは一流の音楽家がさらりと涼やかに演奏しているからそう感じさせない、ということではない。曲目が濃淡の少ない、起伏の少ないものであったからということでもない。そんなことを言ったらいつもワーグナーばかり聞いていなくてはならない。好きだけれど。 迫り来るもの、ひきこまれるような圧力、うねり。それは単に音の強弱によって生み出されるものではなく、そのライブの空間を支配する目に見えない力によって押し出されてくるもの。前の回には感じたもの、ピナバウシュでもこの身を鷲づかみにされたあの圧倒的なもの、Royal ...