ジャケ買い リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 6月 23, 2009 しちゃいました。我が家には、今か今かと読まれるのを待っている本が、待機児童のようにあふれてます。何年か前に自作した木製シェルフはすでに過積載。バングラの人足トラック状態。そんなわけでIKEAに行くといつも本棚を物色しようとするのですが、嫁さんが目下ワードローブにしか関心を示さず。よってあの本たちの収容はしばらく先の未来になりそうです。許せ、民たちよ。さてすでに読んだ方、もしくはサミュエルズの他の本を読んでこういう話だよっていう方、しばらく僕と話さないで下さい。笑 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
桜と物語 3月 29, 2013 巷は、桜の季節である。 桜は、日本において、ニホンジンにとって、ある意味特別な存在であるといわれる。単に今日的な意味合いだけをとっても、「開花」を心待ちにする「予報」や、全国津々浦々で「花見」という文化がもたらす共通的な認識、理解は、この列島を、生きる人々を大きく包み込んでいる。 歴史的には、「田植桜」「田打ち桜」と呼ばれる、農繁期の始まりを象徴する存在であったことも、いまでは広く知られているし、さらに古く平安の時代よりも前にさかのぼれば、「桜」が今日持つステータスを保持 していたのは「梅」であったことも多くの人に知られていることであろう。 かつて機械化される前の田づくりの仕事は、身体的にとてもとてもつらく厳しかった。大変な仕事をみんなで力を合わせて乗り切ろうと、「花見」という今日的な意味合いではなかったとしても、田楽の囃子にのせて、桜の木の下で茶や弁当をとったかもしれない。時には振る舞い酒も、出たかもしれない。そんな記憶が、今日の「花見」を楽しむ私たちの中に遺っているとしても、不思議ではない。 もちろん私たちの祖先のすべてが土地に縁のある農耕民ではないが、猟民であっても、漁民であっても、狩猟や漁労の行き帰りにふと目を上げた先にあるあざやかな桜の枝ぶりに心が動かされたであろうことは想像に難くない。このように日本において、ニホンジンにとって、桜がある種exclusiveであるかのような認識や言説は、もはや揺るぎのないもののように思える。 *** さて。物語の中で、桜をモチーフにしたストーリーや、桜になにかを投影してコンテクストを描いた作品が多く存在する。いくつもあるそれらの中から、とても印象的で私の好きなものをふたつほど紹介したい。 ひとつは、不朽の名作である「マスターキートン」第15巻第4章「真実の町」である。たかがコミックと侮るなかれ。これはれっきとした「文学作品」である。外国人に、いわゆる日本人的な桜に対する情念を持たせたストーリー、といえなくもないが、きっと外国人も同じような情念を持ちえると思わせるような個人的に大好きな話である。 「マスターキートン」の中では数少ない、日本を舞台にしたチャプターである。長らく考古学者としての就職浪人であるキートンは、日本の大学教員の面接を受けるために一時帰国している。キートンが、空港で何者かに手荷物を取り違えられてしまうところ... 続きを読む
Step back viewing on Gaza 10月 14, 2023 明日にも地上戦か、という報道が過熱している水面下で(イスラエル政府は否定しているけれど)エジプトを介した人質解放交渉を必死に行っていることもあるだろう13日の金曜日。予備役36万人を動員した地上戦突入を後押しするのはイスラエルの国民感情である。であるからこそ、すこしステップバックした視点からイスラエルとパレスチナを眺めておこうと思う。敢えて。他に誰もやっていなそうだから。 国民感情。ここ数日のイスラエル界隈のSNSを眺めているにつけイスラームとユダヤの対立というところから「ハマスの非人道性」を問うレトリックが飛躍的に増えている。「人道に対する罪(ニュルンベルク、東京裁判)」「非人道的なテロに対する戦争(対テロ戦争)」と「非人道性」を訴えることによって、実際にトリガーを引けば膨大な犠牲者が(双方に)出る地上戦を正当化してしまえる、少なくともそう思い込めるためのレトリックである。107が即座にイスラエルにとっての911という言説が飛び交ったのも、そうした流れの中のことであろう。 今回のハマスの行動は間違いなく非人道的であるのは誰も否定できない。同僚や友人の知る人たちも犠牲になったと聞く(同時にパレスチナの友人たちが置かれた状況にも心が痛む)。反面、イスラエルに住んで現地の空気を吸って肌身に感じていた人間からすると、国際合意(=オスロ合意)の履行が(双方の交渉がとん挫したために)なされないままにある中で西岸の入植地を広げ、そこで行われてきたパレスチナ人に対する人権侵害がまるで何もないことのように時間が流れていくテルアビブの日常に少なくない違和感を感じていたものである。ここでいう人権侵害とは、イスラエル治安当局がイスラエルの安全保障のためという大義名分で西岸で行う治安活動が行き過ぎた場合に起こるものと、ユダヤ人入植者がパレスチナ人に対して行う暴力や破壊行為などがある。ハマスがガザを支配してから以降のガザの実質的な封鎖もそうである(ガザの中でハマスが何をしているかは、一義的にはイスラエルのせいではないかもしれないが)。そもそも国際社会の共通認識として「イスラエル領ではない」西岸に入植すること、その入植者たちの法的根拠を、イスラエル国内法を援用して持たせていること、暴力や破壊行為を黙認していることは、イスラエルが国家として行っていることである。そして国際社会もまた口先でそれを批... 続きを読む
一家言ということについて 11月 15, 2012 「一家言」という言葉がある。 その語義は、辞典に依れば「 (1) その人独特の主張や論説。 (2) 一つの見識をもった意見。「教育については―をもっている」」とある。 しかし古くは司馬遷の史記(列伝)に遡る。古今の文書・歴史の編纂に務めた職である太史公は親から子へと代々継がれた。ある代の太史公が、自らの人生を振り返り「太史公の務めをおおまかにまとめるとするならば、多くの先達、賢者が遺した言葉や文書を集め、様々な知見をまとめて後世に伝え遺すことこそが、私の父祖から引き継いできた家業の成り立ちであった」としたことに依る。(序略、以て遺を拾ひ芸を補ひ、一家の言と成す) 昭和の文学者坂口安吾は、「一家言を排す」とした論文で、これを退けようとする自らの主張を以下のように述べている。 「私は一家言といふものを好まない。元来一家言は論理性の欠如をその特質とする。即ち人柄とか社会的地位の優位を利用して正当な論理を圧倒し、これを逆にしていへば人柄や地位の優位に論理の役目を果させるのである。<中略>我々の理知的努力と訓練により、また人間性の深部に誠実な省察を行ふことにより、早晩我々の世界からかゝる動物的な非論理性を抹殺し、肉体的な論理によつて正当な論理を瞞着し圧倒することの内容の空虚を正確に認識しなければ、人間の真実の知的発展は行はれ得ない。<後略>」 慮るに、知識や見識を振りかざし、「人格者」「知識人」とする自覚に驕り、己の非論理的な知見の特殊性をむしろ是として論理的あるいは普遍性を追求する見識を駆逐するような人間の増長が、坂口安吾をしてこのように考えさせたのか。 時代は下り、先日南昌荘に集った人々にはみな「一家言」があった。「そのこと」については一言も二言も、語り出したら止まらない人々ばかりであった。 ある紳士が述懐した。 「この歳まで己の人生を生きてきて、試行錯誤を繰り返してきて、ようやくかくあるべしとする視座が定まったと思う人は私ばかりではないと思う。そういうことを後の世に生きる人に伝えたい、遺したいと思う気持ちがある。」 漢の時代の先人に通じる思考と覚悟を以て、岩手の、盛岡の、田野畑の叡智を繋いでいきたいとする意志が確かに南昌荘に集った。他方で坂口安吾が批判したように、個々の経験や知恵が、ややもすると独善的... 続きを読む
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