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記憶の川

隅田川は、僕にとって記憶の川である。 かつてドイツを旅したときder Rhein und die Mosel と教わった。父なるライン、母なるモーゼル。同じ川でも男と女。日本人にとっても利根川は坂東太郎であり、北上川や最上川は母なる川かもしれないが、僕にとっての隅田川は記憶の川である。 墨田区の病院に生まれ江東区の団地に育った。成長して八王子の田舎に引っ越した後も、父の運転する車に乗って首都高の箱崎ランプを降りて右手に曲がって渡れば清洲橋。高速が混んでいる時は、おそらく呉服橋か江戸橋で降りて永代通りから渡れば永代橋。清澄白河にある祖父母の家に向かう路の記憶は今も鮮明に蘇る。 隅田川を渡るということは幼いころの僕にとって、優しい祖父母の待つ家に向かう、あるいはそこから家路に着く記憶と密接につながっていた。 なぜか清洲橋よりも永代橋のほうが好きだった少年の僕は、いつも車窓から川の流れを見つめていた。えいたいばし、という音の響きが好きだった。もっと強く想い出せば、高速を降りて曲がるとわりとすぐ出てくる清洲橋ではなくて、日本橋からしばらくの間の下道を走って、茅場町の水門を左手に見つつ、待ちに待ってようやく現れる永代橋に誘惑されていたのかもしれない。 橋に差し掛かった瞬間に車窓に開ける川面の情景がいつも好きだった。グレーのビルの壁がいっせいに視界から消え去り、黒光りする水面と舳先に古タイヤを括りつけた川舟の立てるウェーキの白のコントラスト。 川の流れと時間の流れ。記憶の川はいつも僕の脳裏を流れ続けている。長谷川平蔵がさんざんやんちゃをし、タモリやなぎら健壱が愛してやまない、僕の大好きな祖母がいまも暮らす本所・深川へ渡っていく橋が架かる記憶の川。 ふと滝廉太郎の歌が聞こえてくる。はるのうららのすみだがわ。まさにそんな季節。 でも歌のタイトルは、川ではなくて「花」。 そう、桜の季節。