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1月, 2014の投稿を表示しています

若い人と話す、恩返しと恩送り

 時々、若い人と話をする。別段今に始まったことではなく、日本にいるときから折に触れて話をしている。それは僕から意図してということではなく、また改まって機会を設けたりするというわけでもない。すれちがったタイミングで、ちょっと話を聞いてもらってもいいですか?話をしてもいいですか?という問いかけから、少しその辺に腰掛けて、というように日常のちょっとした延長くらいの感覚である。もちろん時間や場所などを約束することもあるが、特別に仰々しいわけではない。そして基本的に彼らの申し出を断らない。その理由は簡単で、年嵩の人間に話を聞いてもらいたい何かを抱えていたかつての自分の姿を思い起こしてみればいい。自分の目線からみたらとても忙しくしている大人が、自分のために時間を割いて話を聞いてくれるということ自体が、とてもありがたかったからである。これまで自分が先達から受けてきた恩をお返しするひとつの態度なのだと自覚している。 僕は心理学を本格的に学んだわけでもないし、キャリアコンサルタントでもないし、ましてや心療内科医でもない。だから「面談」をどう仕切るか、どのように話をするか、といった確立された理論やテクニックを持っているわけではない。そういう意味ではずぶの素人である。しかしながらなぜか概ね話をした若い人たちは数十分後、あるいは数時間後話をする前よりもすっきりした顔をして別れて行く。もちろん年を重ねていれば誰もが経験するであろうよしなしごとについて話をすることもあるのだから、一日の長があれば誰でもこのように接することができるかもしれない。時々でかつての自分が悩み苦しんできたことの共有が、いまの彼らを楽にするということもあるかもしれない。努めていることは、「自分の若いころはVS今の若者は」論や「~べき」論に陥らないというくらいのことである。 さて、若い人たちと話をする上で最近になって気が付いたふたつの重要なことがある。そのひとつは彼らの存在そのものに対する敬意を持った認知(acknowledgment)であり、いまひとつは彼らが語っていることを未来に向けて開拓していく手助けをすること(elaboration)である。存在の認知というととても大げさに聞こえるし、相手に対して敬意を持って接するなどということは当たり前ではないか、と思われる向きもあるかもしれない。しかしながら無意識の中で自分よりも

犬の糞、下肥、ぼっとん便所

 イギリスに来て半年が過ぎ、夏から秋、そして冬と三つ目の季節を迎えているわけだが、この間ずっと、正確には外出するときはいつも気にかけないと危険で仕方がないことがある。ドアが自動ロックなので鍵を持ってでないと締め出される。その通り。雨が頻繁に降ったり止んだりするので、濡れては困る衣服をめったに着られない。その通り。否、その危険はいつも足元にある。家の前の歩道から海沿いのプロムナード、公園の芝生、商店街の通路。それはありとあらゆる場所にポトリと落ちていて、油断している人の足元を地雷のように脅かしている。犬のフンである。 この国で、多くの犬は非常によく訓練されていて、リードをつけないままでも飼い主の指示をよく守り、人や他の動物に危害を与えることなく整然と歩いている。(もちろん少ないながら例外もいる)しかしながら当たり前のことながらどんなに訓練された犬であっても「出るものは出る」。そしてどんなに訓練された犬でも「いまここではフンをするな、家まで我慢しろ」という指示はおそらく通じない。従って犬は思い思いの場所でフンをする。あちらこちらに「犬のフンは持ち帰るように」と書かれた看板が掲げられ、「Dog Waste」と書かれたそれ専用のゴミ箱が置かれている。しかしながら、それにも関わらず多くの飼い主は犬のフンを拾って持ち帰ったり、わざわざ専用にあつらえられたゴミ箱に捨てたりしない。おのずと、道端から公園から遊歩道から芝生に至るまで街中は犬のフンを踏んづけるリスクに常に晒されている。 ふと、ここのところdog wasteならぬhuman wasteなるものをDevelopmentの文脈で散見する。要するに開発途上国における人糞の農業肥料使用に関するテーマであるが、適切に処理されていない人糞を肥料に使用することによる消化器系の病気や伝染病の蔓延といった衛生上の問題がある一方で、肥料が購入できない貧困層にとって農業収穫量を上げ食糧供給を担保し得るひとつの手段として人糞使用を考えるべきとするポジティブな見解もある。「適切な処理」を実現するためには、おそらくなんらかの装置や設備を用意し、人為的にバクテリアなどの分解者を混入して正常発酵を促すような科学的に管理された手法を中心とする開発事業として、人糞を適切、安全かつ異臭、汚水などの公害を発生させないプロセスをもって「無害化」した上で肥料として

空港に妻を送る、デビルズダイクで転ぶ

 年が開け、秋学期の課題であった三本の小論文も無事に提出がなり、松の内も開ける1月7日に妻が一時帰国する予定であったので、自動車を借りてヒースロー空港まで送っていくことにしていた。二人分の片道バス賃に私ひとり分の戻りのバス賃を加えても自動車を借りて燃料費を加えた費用にはわずかに及ばないのであるが、半年間慣れない土地でじっと頑張ってくれた妻に対するささやかな御礼のつもりであった。フォルクスワーゲンのゴルフを借りたつもりなのに、または同等クラスの記載も勿論知っていたが、まさかFIATが出てくるとは思わなかったが。やはりイタリアの車はいまいちである。なぜ職人の国であったであろうイタリアの自動車は細部に魂が宿っていないように感じるのであろうか。単にユーザビリティの違いや、メンテナンスの良し悪しではないような気がするのは私だけだろうか。 車の話は本筋ではなかった。妻を空港まで送っていったのだ。せっかく自由になる足があって、かつこの日は珍しく日中天気が安定していたので、景色の良いところを見てから空港に向かおうということになった。Devil’s Dykeというブライトン北方郊外の小高い丘の上に街から海まで見渡せる展望地があるということを学友から聞いていたので、そこへ向かってみることにした。我が家から車を飛ばせばわずか15分の距離である。道々、真冬であるのにも関わらず青々と茂った牧草を食む白黒の点々が丘陵を覆うように広がる景色は、いつ見ても心が和むものである。またこの展望地の頂上付近には馬を飼う牧場があるようで、自らが今年の干支であることなど知る由もないような顔をして黙々と飼い葉を食べる素直な大きく丸い眼がよっつむっつ並んで、じっとこちらを眺めている。 Devil’s Dykeの頂上付近は明け方まで降っていた雨の影響でひどくぬかるんでいた。ナショナルトラストの管理地であることを示す「駐車料金を払わないと50ポンドの罰金」という看板を横目に、そのぬかるみが目立つ斜面の入り口に差し掛かった私は、あろうことか両足をそのぬかるみに取られてすぐさま2~3mほど滑落し、尻餅をついて転がって、あげく両手を付いてやっとのことで自らの体を重力に逆らわせた。瞬間的にはっと振り返った背後では妻が何ともいえない表情でじっと私を眺めている。次の瞬間には大きな笑い声が聞こえたのであるが、こちらは冷たい泥の中で

イングランドと海、ノルマンディを想う

 クリスマス前から続いた年末年始の休暇も本格的に終了し、今日から世の中は動き始めている。こう書くと休暇中は物事がすべからく止まってしまっていたような気がするが、根元からぶった切られた哀れなもみの木や一度に数百、数千という数で屠殺されて商品棚に並んでいく鶏や七面鳥の消費はむしろ加速し、帰省や観光に向かう人々の交通機関への殺到も日ごろよりも高まるのがこの休暇の期間である。休暇開けに「世の中」が動き始める、という表現もある意味で一面的であるという自覚を13年目にして会社勤めという「世の中」のルーティンのひとつから解き放たれたいま改めて持つのである。 世の中が休暇中であったこの数週間、私は毎朝決まった時間にオフィスに出勤するという十数続いた「世の中」の義務を免除される代わりに、日々一単語、一センテンス、一パラグラフを積み重ねていく作業を地道に続けていたのであった。もとより会社勤めが日常であったときから「一年の計は元旦にあり」といったある種の「年末年始リセット主義」からはいささか縁遠かった私は、しかしながら「計」を一切持ち合わせずに生きることではなく、都度、日常の中で「計」を立て、「実行」し、そして「推敲」するというルーティンを回してきたのかもしれない。 さて、毎朝窓から見える海である。夏の間は妻と毎夕のように海岸の遊歩道を散歩し、眺めてきた海はここのところ荒れることも多く、白波を立てた大きなうねりがドドーンと打ち寄せる日も珍しくない。この英国南部の海岸線にある街に暮らし始めてから、この海岸線というものに英国人(イングランド人)が寄せるセンチメントに度々触れる機会があった。例を挙げれば「イングランド人と海」というタイトルのドキュメンタリーシリーズがBBCによって制作され放映されるほどである。 多くの人が既知のように、いまイングランドと呼ばれるこの地はその歴史の中で繰り返し南東の大陸や北方からの侵略を受けてきた。一面的なものの見方を排除するために本筋とは外れるが敢えて付言すれば、そのイングランドと呼ばれる地に住まっていた人々も度々他者を侵略してきた経験を持っているのではあるが、ともあれ、空高く旗幟を掲げたノルマン人のロングシップがこの海岸線を埋め尽くし、櫂の音を合わせて湾を進んでくる情景は、時に穏やかに輝く銀鏡のように、時に浜を激しく叩きつける神鎚のように今日私たちの目の前に在