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空海とベネディクト

空海展をみた。 前から行こうと思いつつなかなか時間を作れなくて、あやうく梅棹忠夫展の二の舞になるところだったが、コアな友人の一人と別件で電話していたら「行かないとやばいぞ、お前」と言われてむりやり行った。ありがとう。 この現代ニッポンのどこにこれほど「宗教美術」を愛でる人がいるのか、というくらい金曜夕方の国立博物館は激戦の様相。「宗教がない」と言われる現代ニッポンにおいて、彼らは何を求めて空海展を訪れるのだろうか。彼らにとっての「宗教」とは一体何だろうか。 9世紀から今日まで残され、語られ、手渡されてきた書。そして多くの密教儀式に使用される道具と、崇拝の対象であった仏像たち。展示の終盤、東寺講堂を再現した仏像曼荼羅を会場の隅っこの壁に体を預けてかれこれ1時間ほど眺めていたが、ついぞ人々が何を求めてこの場に集うのかを理解することは適わなかった。 元々、そのものがあるべき場所にあってはじめて価値があると思う。各地から「国宝」「重文」が集結と言われ、集められてきた品々が、あるべきところでない場所に鎮座していることに些かの違和感を感じる。通常非公開のものが見られるから人々は集うのか。「絶対見られない」「絶対に触れることができない」ということそのものだからこそ絶対的価値があるのではないのか。見ることができたら、触れることができたら、そこに果たして価値はあるのか。 そんな天の邪鬼な僕が、なんで前から行こうと思っていたのか、空海展に。 それはかつての「偉大な宗教」を単に現代の日本人として対等なスタンスで見る、理解しようとするというある種不遜な態度ではなく、「宗教がどうやって時代を記録してきたのか」という装置としての機能にフォーカスする視点で空海展を見たかったから。このモチベーションはローマ帝国以降、ルネサンスまでのヨーロッパキリスト教世界。ベネディクトに代表される修道院はキリスト教の「教え」を引き継ぐことを、修道士たちの生活そのものに根ざした形で、まさに時代の価値観を記録するものとしてつないできた。 「宗教」が形として残り続ける現代世界において、翻って「世俗」の空間もまた同様に広がり続けていく中で、私たちはこれからの未来に「いまこの時代」をどう記録し伝えていくべきか。その装置とはなにか。「宗教」が唯一の記録装置であった中世までの世界と、活字を一般庶民が駆使できるよう

ソウルコミック

マスターキートンの話にけっこう多くの人から反応があった。 おふくろの味をソウルフード、竹馬の友をソウルメイトというように、なんだか知らないけど立ち返ってしまう、ふとまた無性に読みたくなる漫画はソウルコミックである。 普段はあまり意識しなくても平気。何年もはなれていることもしばしば。でもふとしたときに湧き起こるあの時のドキドキやビリビリ。もう居ても立ってもいられない。全巻大人買いである。 聖闘士星矢、ドラゴンボール、キャプテン翼、マリブル、スラムダンク…ひとりひとりの心にソウルコミックにまつわる物語がある。 フードやメイトほど国境を超えた普遍性はコミックにはないかもしれない。漫画を読まない人が多い土地もあるだろう。だからこそ我々は己の心にソウルコミックを抱いていることに誇りを持っていい。漫画を愛する人々。漫画の殿堂はいらない。年季の入った古本屋や貸本屋で、お互いのソウルのありったけを見せびらかしながら心底ノスタルジーを楽しむ。 実に幸せの極みではないか、諸君。

寄らば大樹の陰

寄らば大樹の陰、という言葉がある。お陰様で、というのも同じで、元々は巨木に対する霊性信仰あるいは夏の強い日差しや冬の冷たい北風を遮ってくれる樹木への尊厳から発生している。北の国の和尚さんに教えて頂いた。転じて人間と人間の関係性を表す比喩表現として現代では理解されているが、古来人間は巨木に畏敬の念を抱き、自然を怖がって生きてきたことの名残りがここにある。大樹の陰に寄るのはなにもかっこ悪いことではなかったのだ。 人間は自然に勝ってはいけない。 ある方の師の言葉。 半分腑に落ちて、半分考えが巡り続ける。 人間は自然をできる限り理解しようとした。もっといえば巨大で繊細でなんともつかみどころがないけれど自分の命はまさにそこに担保されている自然になんとか親しくなって欲しかった。彼女となんとかお近づきになりたいとする手段が科学だった。その心には計り知れない自然のメカニズムを前にしたわからないことへの畏れがあった。 人間は科学の力で自然に勝てるのか そもそも問いの立て方が間違っているかもしれない。 いつのころか人間が自然に勝とうと考え始めたのは、自然の時間の流れに必ずしも沿わない形の時間軸で語られる守るべきものを持ってしまったから。被服、家、備蓄した食糧、装飾といったモノから、家族、社会、そして制度、秩序。突き詰めると、人それぞれの快適。その最大公約数がいま私たちが守るべきものとして認識しているなにか。 さて、守るべきものを持つ人間は自然とどう向き合うか、但し勝つというオプションは抜きで。  こんなクラスがあったら最高に学校は楽しい。

身体感覚

日曜の夜東京に着いたとき、体がフワフワするようなえもいわれぬ感覚に包まれた。翌朝になって通勤の人波に紛れてもまだ変わらない。 中尊寺、衣川から峠を越えて陸中松川、門崎。砂鉄川のたおやかな流れがつくる景色に体を浸していたのに、10数時間後に渋谷の雑踏に至ってはどうにも自分の体がフワフワするのは致し方ない。 人間に限らずすべからくイキモノは、生存本能のアンテナを立てて自分のまわりにあるあまねく情報をキャッチしながら、自己と外界の関係を隔てるバリアを水濠のように巡らせている。そのバリアは己を護ることを第一義とするのはもちろん、己の在り処を計る重要な役割を果たしている。つまり英語の「Barrier」=障壁という語義のみならず、である。 外界の状況を把握することがバリアの有様を規定することに影響するのであれば、当然陸中の山中と渋谷の雑踏ではバリアの在り方が異なる。深い緑の森やたおやかな清流に対するものと、多くの人間やコンクリートジャングルに対するものは異なる。恐らく野山にいるときのバリアモードでそのまま渋谷の環境に突入してしまったので外から侵入する情報に対して対応が効かない状況がまさに夜から翌朝にかけて続くフワフワの真相であったらしい。 この身体感覚というシロモノが実は大切であるとかねてから考えている。「人知を超越した自然に対する畏敬・畏怖」バリアの感覚。「数多くの素性を知らない人間への警戒」や「人工物への憧憬」バリアの感覚。この「 自然」と「人間」という軸で身体感覚を論じることは、植物のみならず動物に対する感覚も含めてすでに多く為されているように思う。他方で「人間」対「人間」という場面において、これを特に認識して突き詰める「芸術」の世界を中心に積極的な理解と実践が進んでいることは間違いないが、こと一般社会の人間関係の中においてこの感覚がどのように把握されているかは些か心許ない。 「師匠の背中を見て学ぶ」とか「あいつはなんだか知らないけどセンスがいいよな」といった話にこの感覚を理解できるポイントがあるように思っている。  

桜on三陸プロジェクト 第1回東北視察報告③

野蒜で初めて津波被害の実態を目の当たりにした田中と吉田は、青年のナビゲーションで国道45号線に戻り、石巻市へ入りました。途中東松島の航空自衛隊の基地が見えます。戦闘機は地震発生後にすぐ上空へ待避したものの、練習機などは後手に回って間に合わず、多くが流される映像がテレビでも放映されたところです。 基地の遠景を右手に見ながら国道を進むと、石巻港と港に隣接する工業地帯が視界に入ってきます。日本製紙の大工場をはじめ、背の高いプラントが整然と並んでいます。高いところを見ているだけではなにも変わったようには見えないのですが、建て込んだ建屋の陰を抜けて堤防に通じる道路に出た途端、何があったのかがみえる光景に出会いました。固い鉄で覆われていたはずの工場の建屋には数メートルもある大きな穴が空き、横倒しになったフォークリフトやブルドーザーがちらほら。 工業地帯を抜けると、今度は水産加工業者が集まる地区に入ります。大小様々、加工工程も様々の企業、工場が建ち並んでいますが、ほぼ全てが津波の被害によって操業停止。日曜日であったこともあるでしょうが、あたりにはカモメしかいません。青年の実家・兼工場だったところも被災。家は傾き、工場の建屋はすでに撤去してもらったとか。どこをどう流され、なににつかまって体を水から脱し安全地帯へ逃れたのか。その場の空気が弱い雨で柔らかくなっていたにも関わらず、張り詰めたものが一向に消し飛ばない。砂にまみれたままの設備がとにかく悲しい。100年は続いてきたという家業の成れの果てに、父親を失い再建の道筋も見えない。それでも自分は生きて行かなくてはならない。彼を、彼のような多くの人々を応援できなかったら、僕たちの存在価値はなにか。 青年が最後に案内してくれたのは女川でした。建物が残る石巻とは打って変わって「なにも残らなかった」町。本当に一部の鉄筋コンクリートの残骸を残して、焦土といって違和感がない景色。港のすぐ横には小高い丘(といっても目の前の五階建てのビルよりも高いのですが)の上に病院があり、万が一の時にはそこに至る数十段の階段を駆け上がれば難を逃れられると言われていました。実際には想定を超えて、病院の一階部分まで波が来た、ということでしたが。 金曜日の午後。地震発生から津波到来までわずか20分足らず。港の水産加工場で働いていたお母さんは、学校が終わって家にいる

桜on三陸プロジェクト 第1回東北視察報告②

仙台の夜は更けていきますが、語り出したら止まらないうちの田中と畠山さんの勢いに引っ張られ、「○すけ」さんの息子さんが切り盛りする二号店「○たけ」さんへ。http://www.w-marutake.com/ かつて地元の酒造で蔵人として修行されていたという息子さん、酒の話をさせたらこれまた止まらない・・・。板長の親方も笑顔がステキなナイスガイ。田中の十年来の心友も加わって語らいは深夜まで続きました。「○たけ」さん、本当に素晴らしい居酒屋さんです。東京にあったらマジメに毎週通いたくなるくらい。もちろん仙台に行ったらMUSTですよ。みなさん。 ちょうど「○たけ」さんの目の前にあった某ホテルに意外にも空室があったので、飛び込みで宿泊して大浴場で足を伸ばすことが出来ました。こうして翌日の早朝から宮城県の沿岸部へ入っていったのです。 BeeBQで親しくなった石巻の青年をシェルパに迎え、僕たちは払暁の杜の都を車で出発しました。田中の心友が快くマイカーを提供してくれました。仙台市内を抜けて一路北東へ。泉中央から東へ折れて多賀城から塩竃に入る頃には、周囲の景色が変わってくることに気がつきます。石巻の青年が後部座席から、ところどころの町並みをみて「ここは6mはきましたね」と津波の被害状況を淡々と語ります。日本三景で知られる松島の街も、海沿いの観光地にある土産物店などはいまだ復旧していない店舗も散見されました。なにより日曜日にも関わらず、観光バスの一台も走っていない景色は元旅行業界の人間である吉田としてはとても奇異に映りました。10年近く前に来たときの賑わいと一変してしまっていることが、なんとも言葉になりません。 瑞巌寺にお参りしました。不思議なことに、海からの高さはさほどでないにも関わらず、山門もほぼ無傷で残り、境内のこけむす杉林も健在。静寂につつまれた、バガボンドの世界に出てきそうな空間がほんの少し離れているだけのはずの海岸線の景色と完全に隔絶しているように感じました。こういうときに人間は聖域のようなものをきっと感じるんでしょう。 石巻の青年いわく、松島界隈でも例えば利府町の海岸線(そのときは赤沼という地区を走っていました)にはほとんど津波の被害がないところがあるとのこと。理由は沖に「百景」をつくる大小の島々が浮かび天然の防波堤の役割をしているから。なるほど赤沼の海岸からは水

桜on三陸プロジェクト 第1回東北視察報告①

6月25日払暁。 桜on三陸プロジェクトの田中と吉田は人でごった返す東京駅でうまそうな駅弁を物色していました。 5月のHillsbreakfastで皆さんの前でこの計画をお話ししてから一ヶ月。あらゆる方面からご関心やご支援のお申し出を頂いて参りましたが、肝心の現地のことが分からないとなにも始まらない、東北の人に会って話を聞かせて頂き、僕たちの話を聞いてもらいたい、そんなふうに強く思っていました。 河北新報社の畠山茂陽さんという方を東京でご紹介頂いた僕たちは、畠山さんが25日の午後に仙台市内でBeeBQ(後で説明します・・・)大会を仲間と開催するという情報をキャッチ。人がたくさん集まる機会を逃してはならん!というわけで急遽弾丸トラベラーになることを決めたのです。 始発から午前中一杯は普通車、グリーン車ともに全車満席状態が続く東北新幹線。偶然にも同じ列車の同じ車両に岩手へスタディツアーに向かう「新渡戸国際塾」4期生のみなさんとご一緒しました。吉田が1期生として参加していた国際文化会館のプログラムです。満席の車内で、他の乗客に少々訝しがられながらも桜のチラシをお渡しし、広報活動。岩手での反応を今度聞かせて下さい。 杜の都はあいにくの雨模様。田中は生涯で初めての訪問ということでしたので、まずは土地の神様仏様にご挨拶をせねばなりません。というわけで青葉城趾、瑞鳳寺、瑞鳳殿へ。青葉神社というところもありましたが、どこへいっても正宗公。すごい街です。 仙台市内は宿泊も相当タイトになっているようです。復興関連で全国から人が押し寄せているわけですから、新幹線同様ホテルも混雑するのは当然でしょう。お昼を食べようと入った立ち食い寿司屋にも「ようやく仕事が終わった」と話す晴れやかな顔をしたビジネスマンがチラホラ。聞くところによれば土木や廃棄物処理などの直接的なお仕事に加えて、保険の損害調査などもいまがピークなのではないか、とのこと。タクシーの運転手さんも、「ビジネスマンは仙台を拠点に被災した地区へ動くからタクシーの需要がすごい。毎日のように走っている同僚もいる。」「会社は戦後初めて黒字になったとか冗談ともつかないことを言っている」と。復興特需ではないですが、確かに経済は一時的にかなり沸いている感覚なのでしょうか。それでも街を行き交う人々はいたって平穏そのもの。夜の居酒屋を見ていて

競争を協奏に

格調高く重厚、ときには軽妙で水紋のように無限に広がるハーモニーを奏でるオーケストラ。管弦楽団と邦訳されるとおり、数多くの管楽器奏者、弦楽器奏者、そして打楽器奏者も加えた大所帯です。 美しいシンフォニーを奏でる優美な世界だと思いがちですが、きっと個々のパート、たとえばバイオリン奏者ならバイオリン奏者同士では、とてもシビアな競争があるのでしょう。そもそも奏者になれるかどうか、というところでセレクションがあるでしょうし、嫌が応にも実力のあるものだけが残っていくことのできる厳しい競争社会であろうことは想像に難くありません。ひょっとしたら「どこの学校を出て誰に師事したか」といったことも競争を決する要因として影響するかもしれません。 また楽団自体が財政の問題などで存続できるかどうか、他の楽団との生存競争にもさらされなくてはならないのが現実だと思います。映画「おくりびと」で、東京のオーケストラのチェリストだった主人公が納棺師になるエピソードも、所属していた楽団が解散してしまい職を失う、というものでした。 ただいずれにしても良質な競争こそが、クオリティのより高いオーケストラを創る源泉であることには、多くの人が同感するものだろうと思います。 数多くの楽器奏者が集まるオーケストラは、しかしながら全体としてシンフォニーを奏でなくてはなりません。個々のパートでは激しい競争がありながら、あるいは楽団として他の楽団と激しく競争しながら、ひとつのオーケストラとして数多くの異なる楽器を弾く多様な能力と専門性を持った奏者が集まり、ひとつのシンフォニーを響かせているのです。 このことを一般社会におきなおして考えてみるとどうでしょうか。 様々な能力や専門性を持つ職業人が、日々各々の土俵で競争しているのが今の世の中です。八百屋は青果のマーケットで、魚屋は魚のマーケットで、 IT サービスを提供する人は IT サービスのマーケットで、あらゆるビジネスはすべてそのモノやサービスを商う市場で戦われています。八百屋がバイオリン奏者なら魚屋はトランペット奏者、 IT サービスを提供する人はクラリネット奏者という具合に、各々のパートで競争しているのです。元々異業種だった人が他の市場に参入することもあるでしょうが、その人は元は植木屋であったとしてもそのときには「八百屋」であり「魚屋」になるのです。 そ

なぜ桜on三陸プロジェクトに関わろうと思ったのですか?

「なぜ桜on三陸プロジェクトに関わろうと思ったのですか?」 田中さんがHillsbreakfastで最初のプレゼンをしてから2日。あらゆるところで聞かれるようになりました。去年の10月末に六本木の居酒屋(リアル中西@松ちゃん)で本当に偶然の出会いをしてから半年。先月お互いのパートナーを交えて食事をした際に、突如「吉田さん。俺、東北に桜を植えたいんですよ」と。僕は植物の知識も、東北のコネクションも、復興計画に影響を与えることも、資金集めをする力もない、彼にとってはほとんど役に立たない存在。ただひとつだけ、彼が感じる「価値」とはなにか、ということに心の底から共感が湧き起こったのです。 いまを生きる私たちにとって「価値」とはなにか。いったいどんなものか。「閉塞感」「停滞感」といわれ、なにか生きにくさを感じている人が少なくない現代は今後どのように変革されていくべきなのか。 前近代、私たちの祖先はいまよりずっと「不自由」でした。厳然たる身分制度、想像を絶するあらゆる格差、時には生存すら危ぶまれる厳しい自然環境、いまの私たちの「価値」から見れば圧倒的とも思える不条理。現代にいたるいくつもの事件や変革を経て、私たちは「人権」「国民国家」「世俗民主主義」「工業化」「経済成長」「格差是正」などさまざまな新しい「価値」を手にしてきました。私たちはかつての時代を生きた先達よりも可能性にあふれ、多様性を抱え人生を送るための多くの選択肢をもち、「自由」であると考える人が多いと思います。 一面において、それは正しいと僕は思います。他方で、「蛙の子は蛙」といわれたように、私たちの祖先が生きてきたのは、生まれながらにしてその人が一生を生きる「価値」が定められていた時代でした。暮らす地域や社会階層、性別、文化、宗教などによってこの「価値」が規定されていた時代でした。人々は他の「価値」を持つ隣の人々と今日ほど早く大量に移動したり情報交換をしたりせず、ある意味で「不自由」ではあるけれど「多様な価値」が共存していた時代でした。一人の人が生まれてから死ぬまでの間に感ずる「時間の流れ」は今よりもゆるやかであったように思います。 時代が進むにつれて、人々は前述した新しい「価値」を手にしてきましたが、一人の人がその一生を生きる間に感じる「時間の流れ」は速くなり、他の「価値」を持つ隣の人々との距離が近くな

アジアB級グルメマップのス〃メ ベトナム・ハノイ編③

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オペラハウスもすっかり漆黒の夜に沈んでしまいましたが 街は未だ眠りません。 さてお仕事も終わりに近づき、お疲れさまのディナーです。 Tran Hung Dao通り(だったと記憶・・・汗)にある小洒落たレストランをリサーブ。 (前日に前を通り掛かって、外観と混雑具合で即決しました。とても混んでいるということ。) 豆電球のライティング装飾がどうやら流行っているらしく、ここ以外にもけっこう 見ました。 なんでもない平日の夜ですが、お祭り気分な感じです。 フレンチコロニアル調の建物は、内装まで白に塗り固められていて 高い天井近くにレトロなファンが留まっています。 感心するのは装花のセンス。個人的な好みなのですが、同じ種類の花だけを ぐわっと盛っている形が好きなのです。 さて肝心の料理はどうでしょうか・・・。 こちらのオヤジさんがむちゃくちゃ張り切ってオーダーしてます。。。 結果からいえば完璧なまでに的確なオーダーでした。 蛇の道は、蛇。(違うか) 生春巻き。 中身がこてこてビーフ。これ、ハマります。 ビアハノイに合うの合わないの・・・。 整然と並ぶ料理の面々。 このレストラン、ステキなのはハードだけじゃありません。 テイストもかなりレベルが高い。(のにものすんごくリーズナブル) デザートも含めて30品目以上飲み食いしてお会計は一人当たり150,000ドン程度! (約800円!!!) おまけは小雨に煙るマーケット。 装花で感動していた私ですが、フローリストの店先もものすごくセンスがいい! 雨に濡れた路地に花の色が映ります。 こうしてハノイの夜は更けていくのでした。 (終)

アジアB級グルメマップのス〃メ ベトナム・ハノイ編②

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たらふく食べて飲んだ翌朝はさっぱりとした朝食がいいところ。 こっちのオヤジさんに聞いたら「お前らのホテルの近くにはまともな店がねぇ。」 「車使っても良いからここへ行け。」 と言われてきたのがここ。 フォー専門店。 朝7時少し前ですがしっかりお客が入っています。 黒塗りがどんどん乗り付けてきて、企業の幹部クラスのような風体の おやっさんが入れ替わり立ち替わり・・・。 こいつは期待出来そうです。 席に座ると、ものの10秒でなんにも言わないでこれが出てきます。 シングルオーダー、シンプルオーダー。 鶏肉のフォー。一杯30,000ドンちょっと。(約150円) 屋台で食べると50円くらいだそうですので、「高級店」です。 なんとも麺もスープも透き通った味わい。たまりません。 まったく胃もたれもせず、今日のお昼もしっかり食べられそうな予感。 こちらは視察の合間に立ち寄った地方のレストラン。 淡水魚の料理が「売り」だそうで。 淡水魚様、いらっしゃいませ。 チョウザメのような形状ですが、キャビアはとれないそうです。 北の方の湖で取れるとか。 こいつをまるごと4種類の調理法(炒、焼、蒸、揚)で頂きます。 炒め物(漬け物と一緒に炒められてます) 揚げ物(生春巻きに巻いて食べると絶妙) いやはや実に幸せな話です。 (続)

アジアB級グルメマップのス〃メ ベトナム・ハノイ編①

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余震に揺れまくる成田空港から飛び立って、やってきました8年ぶりのハノイ。 8年前の記憶なんて一切残ってはいません。ほぼ、初めまして。 夕暮れなずむオペラハウスとヒルトン。前回はあそこに泊まりましたが・・・。 さっそく夕食に参りましょう。 徒歩圏内にあるそこそこのレストラン。(名前を忘れた・・・) カニタマスープ。 揚げ春巻き。 牛肉の竹筒焼。 これはですね、想像以上の美味です。 なんというか、甘辛醤油味とでもいいますか。日本人の味覚の郷愁を誘うには 完璧すぎる味付け。 白身魚の蒸し物。 なんでこんなにネギと生姜が旨いのか。野菜が旨い国に悪い国はない! いつもアジアB級グルメマップのス〃メの「取材」でご一緒している「鼻」の効く 同志曰く 「やっぱりいろいろ食べ倒したけど、ベトナム料理がアジアで一番旨い。」 とっても心に染みました。 (続)

この一週間で考えたこと(3)

今回の会議に参加されたASEAN各国のみなさんからは一様に震災を受けた日本に対する 同情と親愛のメッセージをいただきました。 少なからず日本にきたことのある方々ばかりで、なかには2年住んでいたという人もいたりと、みなさん知日派ばかりということもあるとは思いますが。 また世界中の友人知人から次々と安否を気遣うメールやSNSへのメッセージが届きました。 金曜日に始まり、週末もなくベトナムに飛んできて慌しく過ぎ去っていった時間が、ようやく このあたりから私の思考に寄り添ってくれるようになったことに気がつきました。未だ よく整理できていないので、完全な文章にならず以下のような書き方になってしまうのが 残念なのですが、いずれ再整理することを念頭に頭の中のたな卸しという意味もあって ここに記そうと思います。 (1)「当事者」とは 今回の震災は「日本」で発生し、私は「日本人」なので彼らから見た私は「当事者」である。 だから多くの温かい言葉や励ましのメッセージや安否を問う連絡がどしどし来る。 他方で、私は東京に暮らし、家財こそ少々被災(高かったグラスが割れた程度です・・・) したが家や家族はいたって無事で、日常生活を維持することになんら支障がない。私たち 日本人からすれば本当の「当事者」は私のようなものではなく、より過酷な現実に身を おいている大勢の人々である、という認識が当然のものとしてある。 この「当事者」をめぐる感覚のズレは、もしかすると我々が今後何かが起こった際、どこかの 誰かにメッセージを発信するときにも多々意識をするべきポイントかもしれない、ということに 今回改めて思い至った。 要点はふたつである。ひとつは当事者でない者はあくまで当事者足り得ないということを 十二分に認識すべきということ。いまひとつは海外における日本のメディアによる日本 からの情報発信がほとんどないということ。特に後者の影響は甚だしい。NHKワールドは 特に途上国では一般の人々が接することが出来る媒体ではなく、したがって彼らが知る ことのできる情報源はおのずと日本以外のメディアになる。海外メディアは「日本(全部)」 が大変だと報じるから彼らは「日本人(全部)」が大変だ、という理解になる。だから 日本に子供がいるような人に余計な心労を強いる。東京は今のところセーフティなのにも 関わらず、だ。

この一週間で考えたこと(2)

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日曜日。空港でかなり派手な余震に見送られてハノイへ。 本来であれば今次出張は中止にもなりそうなものでしたが、カイシャの見解は「フライトが飛んでいる以上、コトが起きているのは日本なのだから渡航先たる現地に問題はなく、従って積極的に中止する理由はない」。まぁ確かにおっしゃるとおり。さらに今回は日本からのみならず多くの関係者がASEAN各国から出席し、かつ日本からの我々がオーガナイザーなのでどうしても行く必要があったのです。 翌月曜日はハノイ近郊の某省へ。近郊の町や村の人々がリサイクルを生業にしていて、それが産業として集積しているところを見に行きました。前後でベトナム・グルメもちゃんとフォローしていますがそれはまた別の機会に・・・。 おなじみの現場は、他に違わず放射線こそ出ていないと思いますがダイオキシンやらメタンガスやらなにやらが満載の模様。 写真だと見づらいですが、ヘドロが堆積してガスがぶすぶす出ている池。 かわいい仔犬やお子さまの未来のためにも少しずつきれいにしていかれるといいですね。 村ではおばちゃんたちが往来でなにやら綱引きをしている最中。 セコハンの電線を引き伸ばしているところ。被覆を取って中身の銅線を出してまとめて売るんです。 街中にはこのように御殿が林立しております。リサイクル、特に資源系を値段が上がったときに売れると大変儲かる模様。車もレクサスやアウディがゴロゴロ。 変わったところではこんなものが・・・(いつからころがっているのか・・・) ジェットエンジン。MIG、かな。 なんかもうAKIRAの世界。(続く)

この一週間で考えたこと(1)

思えば先週の金曜日、地震が起こったその日の真夜中に5時間ドライブ(私はナビだけど・・・)して強行帰宅してから今日まで、怒涛の一週間でした。 金曜日。 23時半に会社を出て先輩の運転するBMWで発進。このまま朝になっても動くかどうか分からない電車を待って会社にとどまるのは羊の群れのやることだ、と勇猛果敢に突撃を開始しました。 南船橋まではなんとか工場地帯を縫うようにして抜けたのですが、船橋方面に行く途中でスタック。ここで2時間かけて100mも進めない、というまるで203高地かソンムかという状況に。主要幹線道路はその先の渡河地点で足止めされていてピクリとも動かず、かといってこのあたりは側道がない上に住宅地の道路は迷路級に細かく進入不可能。25時までいたずらに時間を浪費し体力も消耗してしまいました。 このままではいかんとナビ担当の私は大きな賭けに出ます。 「津田沼から鎌ヶ谷まで北上し、そこから西進して東松戸へ出ると対岸が葛飾区です。とにかく東京都へ入りましょう!」 もはやドゴール率いるパリ進軍の気分。 賭けは大当たりで、このルートはガラガラ。 水元の手前で54号葛飾橋を渡って無事に都内進入に成功。 ちなみにすぐとなりに架かる298号葛飾大橋は大混雑・・・。カーナビとグーグルマップのGPS機能をダブルで使うと抜群の効果を発揮することが分かりました。 都内に入ったはいいものの東京都に最も北東部から進入した私たち。お互い自宅は南西方面にあるため直線で行けば都心を抜けなければいけませんが、案の定「真っ赤」・・・。時間はすでに27時を回っています。都内進入の目標時を29時に設定していましたので2時間のアドバンテージを持っていましたがそれでもこの「真っ赤」な都心に突撃する勇気はありません。船橋の悪夢が蘇ります。 ナビ担当はまたしてもバクチを打ちました。 「環七を逆に、西へ向かってください!」 葛飾から環七を走るとなると南西方面には外回りを使って南下するのが定石ですが、海沿いの幹線道路がいずれも壊滅しているのは承知していたところ、内回りを使って西進し練馬、中野あたりから山手通りもしくは中野通りに転ずる道が見えたのです。距離はかかりますがカーナビはオールグリーン。行くしかありません。 江古田から中野通りを選択し、新井薬師、中野、笹塚へ。このあたりは勝手知っ

木と戯れ煙と遊ぶ

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年末、実家に戻って冬の「仕事」を楽しんできました。 まずは木と戯れてみます。 ジェイソンばりのチェーンソー。 スティールというドイツ製。パワーが違います。   ゴーグルは必需品。 このような丸太を・・・ ばっさばっさと真っ二つにしていきます。 積み上げてみるとこんな感じに♪ そして、ばかでかい斧で豪快に割ります。 基本4等分にするのに4発。ちょっとしたコツなのですが 「省エネ技術」を追求しないと体力的に保ちません。 ころあいの大きさになったら猫に載せて運びます。 薪小屋に格納。 薪ボイラー。お風呂のお湯は薪で。肌触りの柔らかいお湯が沸きます。 巨大薪ストーブ。屋内の暖房はこれひとつ。煙突のおかげで2階まで暖々。 こうみえて「ハイテク」でして、燃焼効率を極限まで高めた設計になっているので ほとんど煙が出ず薪は完全燃焼します。意外なほど灰が出ません。 さて今度は「煙」と遊びます。 まず手斧の登場です。 「煙」を出すのは桜の木。 こいつを手斧で削り、チップを作ります。 実際に煙と遊ぶのはこの子たち。 サーモンとイカ。 塩コショウで下ごしらえばっちり! 水気もなるべく切ります。 「煙」を出します。モクモクモク・・・・ お手軽「段ボール燻製機」 モクモクしはじめてから約4時間。 ひたすら待ちます。開けたくなる気持ちをぐっと押さえて忍の一字。 ちょっと煙の温度が高すぎたようで、しっかり火が入ってしまい