桜on三陸プロジェクト 第1回東北視察報告③

野蒜で初めて津波被害の実態を目の当たりにした田中と吉田は、青年のナビゲーションで国道45号線に戻り、石巻市へ入りました。途中東松島の航空自衛隊の基地が見えます。戦闘機は地震発生後にすぐ上空へ待避したものの、練習機などは後手に回って間に合わず、多くが流される映像がテレビでも放映されたところです。

基地の遠景を右手に見ながら国道を進むと、石巻港と港に隣接する工業地帯が視界に入ってきます。日本製紙の大工場をはじめ、背の高いプラントが整然と並んでいます。高いところを見ているだけではなにも変わったようには見えないのですが、建て込んだ建屋の陰を抜けて堤防に通じる道路に出た途端、何があったのかがみえる光景に出会いました。固い鉄で覆われていたはずの工場の建屋には数メートルもある大きな穴が空き、横倒しになったフォークリフトやブルドーザーがちらほら。

工業地帯を抜けると、今度は水産加工業者が集まる地区に入ります。大小様々、加工工程も様々の企業、工場が建ち並んでいますが、ほぼ全てが津波の被害によって操業停止。日曜日であったこともあるでしょうが、あたりにはカモメしかいません。青年の実家・兼工場だったところも被災。家は傾き、工場の建屋はすでに撤去してもらったとか。どこをどう流され、なににつかまって体を水から脱し安全地帯へ逃れたのか。その場の空気が弱い雨で柔らかくなっていたにも関わらず、張り詰めたものが一向に消し飛ばない。砂にまみれたままの設備がとにかく悲しい。100年は続いてきたという家業の成れの果てに、父親を失い再建の道筋も見えない。それでも自分は生きて行かなくてはならない。彼を、彼のような多くの人々を応援できなかったら、僕たちの存在価値はなにか。

青年が最後に案内してくれたのは女川でした。建物が残る石巻とは打って変わって「なにも残らなかった」町。本当に一部の鉄筋コンクリートの残骸を残して、焦土といって違和感がない景色。港のすぐ横には小高い丘(といっても目の前の五階建てのビルよりも高いのですが)の上に病院があり、万が一の時にはそこに至る数十段の階段を駆け上がれば難を逃れられると言われていました。実際には想定を超えて、病院の一階部分まで波が来た、ということでしたが。

金曜日の午後。地震発生から津波到来までわずか20分足らず。港の水産加工場で働いていたお母さんは、学校が終わって家にいるはずのお子さんを連れて逃げるために一旦自宅へ向かったかもしれません。工場を出るまでに5分。自宅へ着くまでに5分。子どもを連れて港の横の高台に通じる階段へ辿り着くのに5分。階段を上りきるのに・・・。多くの命と物語がここでも流されました。「流された」ということが分かりすぎるくらい分かってしまう、そんな光景。この土地に今後も人間が住み続けることが妥当かどうか。住みたいと思えるか。

今回、僕たちは仙台に始まり宮城県の沿岸地域の、ほんの一部を見てきたに過ぎません。出会った人の数もほんの数人であったに過ぎません。しかし僕たちは「桜on三陸」プロジェクトが何を目指すべきかについて、自分たちが信じていることが間違っていないということを確証しました。

絶望の淵に立たされた人がいる。死の淵から必死に生きようとした人がいる。それでもなんとか明日を、未来を生きようとしている人が確かにいる。そしてそんな彼らを応援したい人がきっといる。そのひとりひとりの物語を「桜」を通じて紡ぎ、遠い未来にまでつなげていくことの意義は確かにある。そう確証したのです。

未来を信じているから明日を生きられる。

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