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スコットランド紀行②

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満点の星空の下に広がる漆黒の闇の中に浮かび上がる深緑のラフロイグの倉庫とその向こうに驚くほどの静寂に沈む海を望む部屋で、とてもおだやかな夜を過ごしたあくる朝。キャロルに見送られて宿を発とうとしていると、オランダ人のご一行は夕べ遅かったのか「今起きました」という風体で朝ごはんのトーストを物色している。彼らはまだ今日もこの島にいるのだ。問題はない。僕は、朝一番の船に乗って島を離れ、もと来た半島へ戻らねばならない。悲しいかな、ニッポンジンの旅はいつもせわしないのである。 ラフロイグビュー。いい宿でした。 朝靄が柔らかくたなびくゆるやかな丘陵が海に届く際にはりつくように伸びている道を港に向けて走る。出航時間までにはまだ余裕があるが、すでに何台かの車が並んでいる。来るときに乗った船よりも少し大きい感じがする。船が港を出る。「 Port Ellen」 と白地に黒ペンキで書かれた壁がどんどん小さくなっていく。また、この島に来ることがあるだろうか。いつも初めての土地を訪れたときに思うことであるが、この場所についてのこれまでの想いが尋常ではなかったがゆえにそう思う気持ちの強さもまた格別である。 サヨウナラ、ポートエレン そうして戻ったケナクレイグの港は、前日のまだ夜明け切らぬ時間の記憶しかない僕にとっては、未知の世界にも似た景色であった。なんのことはない、チケットオフィスの建屋を中心とした港湾施設があるだけなのだけれど、港の後ろに見え隠れする丘陵や木々の姿は新鮮である。港から幹線道路に出ると右に曲がる。さらにキンタイヤ半島を南下し、キャンベルタウンへ向かうルートである。 細長い半島の西側を海岸に沿って定規で引いたようにほぼ一直線に延びるこの道を走る。ただ、ひたすらに右手にみえる波の満ち干き、左手に出ては隠れ、隠れては出る草の生い茂る丘の起伏を両目の端に捉えながら走る。 雨が降る。キャンベルタウンでは、いまひとつの憧れであったスプリングバンク蒸留所を訪れる。ツアーの仲間はスウェーデン人数人とオーストラリア人数人。全員おっさん+でかい。狭い建屋の中を2メートル近い大男の集団にひとりだけ比較的小柄なニッポンジンがちょこちょことくっついて歩くというなんともシュールな構図である。おっさんたちはすでにどこかで飲んできてい

スコットランド紀行①

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初めて「スコットランド」に出会ったのは19歳の時。 働き始めたばかりの店で、当時チーフバーテンダーだったチバさんが「お前、これ飲んだことあるか?」と薦めてくれたのが、アイラ島産のラフロイグというシングルモルトウィスキーだった。シングルモルトとの電撃的な出会いは、その後の人生をけっこう大きく変えた。その翌年にロンドンへ留学した際に、学生の貧乏旅行でスコットランドへ行ってみたのがそもそもの始まり(その時の記録は コチラ )。 そんな「スコットランド」との出会いから15年。当時と比べれば時間とお金に若干の余裕を持たせた大人の旅行はしかしながら正味二日でアイラ島とキャンベルタウンにある蒸留所を片っ端から回る、ということを目的にしていた。特に一日で佐渡島ほどの大きさの島に点在する八つの蒸留所を制覇するという行程はえげつなかったが、いつか行きたいと思っていたところに行かれるということがこれほど幸せなことなのか、とかつて旅を仕事にしていた人間とは思えないほどに改めて思うのである。 初日はグラスゴー空港から車を走らせ、ターバートという港町に泊まった。西ハイランドのアーガイル地方からキンタイヤ半島へと抜ける道程にある拠点のひとつである。 タ―バートの街 翌早朝、ケナクレイグという船着場へ行く。まだあたりは真っ暗な中、車と一緒に船の腹に飲み込まれる。一日2往復のカーフェリー。風速35mを超えたら欠航。天候リスクが大きい旅程である。ちなみに前日は時化で欠航している。乗り込んだ船内はガラガラで、僕は昔のカラオケスナックによくあるような曲線のソファに転がって寝ていた。 船の切符 運転席でじっと待つ 暗闇に佇むカーフェリー ポートエレン遠景 2時間後、船はポートエレンに着く。セントアンドリュークロスが舳先になびいている。ここから八つの蒸留所をどうやって回っていくか。何度も思考シミュレーションを繰り返していた。あとはただプランを実行するのみである。 まずなにはともあれラフロイグに行く。僕の世界を変えたウィスキーが作られている場所である。どうし

美容室という場所について

昨日、久しぶりに髪を切った。イギリスに来て2回目である。一年で2回?そう、とても少ない。 去年の夏、こちらに来る直前に10年来通い続けている表参道の美容室で切ってもらっていたから、最初の数ヶ月はある意味で除外できるとしても残りの8~9ヶ月あまりを2回の散髪で乗り切るというのは尋常でない。といって日本にいるときも年に4~5回の散髪であったことを考えればそれほどの数字でもないかもしれないけれど。 とにかく人生最大級の長髪だったのだ。それも慣れるとそれほど悪くないと思い込むのが弱い人間の常であるが、髪を切りたい欲求というのはある日突然やってくる。昨日の昼前に思い至って、午後3時には近所の美容室にいた。前回切ってもらったところと同じである。 言葉でスタイルを説明するのがややこしいし、微妙な表現がうまくできないのであらかじめ携帯で調べておいた「こんな感じ」というネット上の写真を見せてみる。20年ちかく前にロンドンやパリで散髪にトライしたころはまだインターネットというものもさほど普及しておらず、そんなことは考えもしなかった。代わりに店の中のポスターを指差す、というアナログっぷりであった。そういうわけで、美容師にはこちらの要求がビジュアルに伝わり、ほぼほぼ思うとおりの姿かたちに出来上がる。 もともと僕は美容室でたくさん話さない人間である。というより一般的にそれほど話さない。3歳児の頃には「口から生まれてきた」と揶揄されるほどの口達者であったことを考えると、長じてからの、特に直近数年の無口ぶりはなんとしたものだろうか。人間生涯で発することのできるワード数が決まっているのかもしれない。いや、他ではけっこう話す。とみに美容室で話さないのだ。 もちろん美容師は話しかけてくる。特に見習いが会話の練習とでもいわんばかりに洗髪中の僕に向かって住まいや職業や婚姻関係を聞いてくるのはもはや毎回のことである。それ、けっこう順位の高い個人情報だよね?という感じのする類のきわどい質問もある。当然それらを一切無視して終始無言を貫いているわけではない。個人情報保護ガイドラインの説明など受けていないけれど最小限の受け答えはする。情報流出が怖いから話さないわけでもない。 10年通う美容室のオーナーはそういう空気をきっちり見極める人なのかどうか、ふわふわしていてつかめない人なのだけ

ハイジの国あるいはバーニーズマウンテンドッグの国のこと

少し時間が空いてしまったが、先週初めてスイスという国に行くことが出来た。 これまで何度も欧州に足を運んでいながらなぜか訪れることのなかったスイス。学生時代にドイツやオーストリアを周遊していたときに、ふらりと国境を越えても良さそうなものであったスイス。ハイジの国スイス。バチカンで観たスイスガーズの故郷スイス。 往路の機内で地図を見ながら、改めてこの国が、山がちな国土の四方を強大な国々に囲まれていることに思いを馳せる。 ドイツ、フランス、イタリアの三強が北西南を押さえ、さらにかつてのハプスブルク大帝国の旗艦であったオーストリアが東側の山向こうに控えている地形は、さながら四面楚歌である。 チューリッヒの空港に降り立ち、車窓から国土を眺める。線路のすぐ間近まで迫った山肌が限られた平地を切り取って聳え立つ景色は、なるほどこれまで物の本で得た知識そのもののようではある。 四つの大国に囲まれながらスイスが独立を保ってこられたのは、ひとえにこの山ばかりの国土に誰も関心を持たなかったのだ、という説は、この景色を見ているとなるほどそうかもしれないと頷ける。 他方で中に立ち入ってみるとそこは各地域の自治が非常に強い連邦国家であり、地域によって話される言語が違う。言語が違うということの意味は、駅に滑り込む電車の車窓に見える建物の景観が街ごとに違うということであり、そこに住まう人びとのアイデンティティが異なるということであり、その違いの分だけひとつの連邦国家の中に多様性を内包しているということである。 僕はスイスの歴史にまったく明るくなかったので、いくつかの情報を参照する程度で旅に出かけたのであってその奥深いところまで見知ったとはとてもいえない。言えないのだけれど、旅先で人びとと言葉を交わしているうちに、ふと気が付いたことがひとつある。 かつてかじったドイツ語は、タクシーで行き先を告げたりレストランでウェイターと話をしたりする程度の語学力である。たまには使ってみようとドイツ語で話しかけると、彼らはドイツ語で返事をしてくる。少し込み入った話になると生半可なドイツ語はまったく役に立たないのでおのずと英語に切り替わる。そうすると彼らは英語で応対してくる。となりのテーブルはフランス人、あるいはフランス語圏から来たお客だろうか。僕とドイツ語+英語で話をしていたウェイ

チャリティフットボール

先週から毎週木曜日の昼間はAlbionのチャリティーフットボールに参加している。地元のプロサッカーチームBrighton and Hove AlbionのコーチであるChrisがチームのコミュニティ活動(Albion in the community)として展開しているもので、失業中であったりメンタルヘルスに課題を抱えたりしている若者にフットボールを通じて楽しみを持ってもらおうとする取り組みである。 コトの始まりは昨年の11月頃だった。フットボールができる環境を探してインターネットサーフィンをしていたら、偶然家の近所の公園で水曜日のお昼に集まっているフレンドリーのサークルが目に付いた。さっそくMeet upという当地のこうした市民活動やサークル活動に使われているSNSから連絡を取ると主催者のChrisから「来て差し支えない」という返事があった。 それからほぼ毎週、春学期は水曜に講義が入ってしまったので数週間ご無沙汰したが、水曜日のHove parkで大学と家庭との往復では知り合えない地域のおじさんたちと一緒にボールを蹴ることは楽しかった。言葉は三割くらいしか分からないけれど、フットボールのルールは同じで、いいプレイをすれば褒め合い、ゴールを決めればハイタッチをする。どんな人でも受け容れられる。人種、年齢、立場は一切関係ない。僕(アジア人、みんなよりちょっと若い、学生、英語はあまりしゃべれない)が良い証明だ。スポーツの持つ力の大きさを実感していた。 3月に入り、Chrisが新しい提案をメンバー宛のSMSに送ってきた。それが冒頭に書いたチャリティーフットボールの企画への参加を求める内容だった。どうやら秋からHove parkに人を集めてプレイしていたのは、この企画に賛同してサポートしてくれる地域のオトナを発掘するためのデモだったのではないかと気が付いたのはこのときである。前々から大学の外に広がるブライトンの一般社会、それもなにがしかのサポートを必要としているところに自分が少しでも貢献することで地域に入っていくきっかけを探していた僕は、矢も盾もなくこの提案に飛びついた。僕が時間に融通の効く学生であることを彼が知っているからかもしれないが、そんな話を前に少しだけChrisにしていたからか、おそらく積極的に関わる気のある人間だと判断されたのだと思う。 そ

生き方を語るのは意外と難しい

今週水曜から来週の水曜までの一週間、一時帰国する。もともとは畏友の結婚式が来週の日曜に予定されていて、なんとかそれに出席するための一時帰国であった。これを機に今後のことについて上司とも話しをしなければならないし、諸々の用事もあったので、思い切って学期の途中に帰国することにした。 途中とはいっても、もうコースワークはあと二週間を残すのみである。4月11日にすべての講義が終わり、5月15日までに春学期のペーパーを提出し、6月2日までに修士論文の概要を提出し、そのあとはひたすら論文執筆の世界である。縁あって出会った同級生たちとも、過ごせる時間はあとわずかである。 昨日はバングラデシュ人のイクバルに誘われてふたりで延々と酒を飲んだ。いろいろなことを話した。まさかイギリスでバングラデシュ人にサムライの、「武士道」の話をするとは思わなかった。 そもそも私の祖先は厳密な定義でのサムライではない。農民と武士の間のような郷士であった父方と農民と商人の間のような生糸仲買の母方との間から昭和の後半になって生まれてきた私が、外国人に対して「武士道」とはなんぞやと語ることもあるいはおこがましいのかもしれない。 幸運にも基礎的な教育とその後の機会に恵まれて、「武士道」を知識として知っているということはあれど、そもそも私は伝統や権力を背景としてもつエスタブリッシュメントではないし、エリートでもないという確固たる自覚がある。そうであったら、という羨望にも似た気持ちがなかったか、と問われれば、かつて「選良」に対する憧れがあったことは否定できない。 しかしながらそれは明確な権力への欲求とは異なり、知的好奇心が長じた賢者への純粋な憧れ、と表現したほうが正しいと思う。他方で、庶民の子供として生まれ、小さな世界でのみ少々かしこいといわれて育ってきた少年にとって「選良」は憧れる対象ではあっても、真の意味でそうなれるものでは決してない、ということも歳を経るごとに心の底から分かってきた。 いくつのころからか、そうしたある種の幻想への憧れと言うものは不思議と消え去り、己の足元と、そこに続いてきた道と、そこから続いていく道が、とても納得のいく形で見えるようになった。それは他人の目からすれば、しごく控えめで野心的でなく、悪く言えば挑戦的でなく、したがってややもすると怠惰で、厭世的にさえ

鉄道で映画のススメ

週末にロンドンへ向かう列車に映画を持っていって観た。 乗り物の中で映画を見る、というと私の世代は真っ先に飛行機を思い浮かべるだろう。それも個人用モニター、さらにはオンデマンドチャンネルなどというものはここ10年くらいの出来事である。 思い起こせば初めて乗った欧州線では、はるか前方の大きなスクリーンを機体最後部にわずかに残った喫煙席からくゆる紫煙の向こうに眺めていたのだから。それだってもちろん「南回り」や「北周り」の諸先輩方にはかなわない。それはなぜ日本赤軍にハイジャックされたパリ発の日航機がダッカに着陸したのか、という一昔前の時代の話である。ともかくかつては「列車の中で映画」なんて言ってみたら頭がおかしいのか、そんなふうに思われてもおかしくなかった。時代は変わるものである。 この日はブライトンからロンドンへ向かう列車が片道二時間掛かるということだった。通常であれば北に向かってまっすぐ延びる線路を走るところが、週末をかけて保線工事をするとかで、私の乗る上京列車はウォーシングやリトルハンプトンといった海岸沿いの街々へ大きく西に迂回してから、一転北上してロンドンに向かう経路を辿った。 あらかじめ二時間という行程を知ったので、のんびりと車窓を楽しむだけではもてあますと考えた私は、この日列車の旅に映画を持っていくことにした。 カトリーヌ・ドヌーブ主演の「インドシナ」を観た。初めて観たのはいつのころだろうか。何度目かの「インドシナ」である。何度も観るほど良い映画かといわれると胸を張ってそういえる自信はなく、正直なところ微妙な部分も少なくない作品なのであるが、この日はなぜかこれが観たくなった。理由は分からない。 簡単に話をひもとく。植民地インドシナに生まれ育ちフランス本国を知らないドヌーブ演じるフランス人女性とその養女である両親を事故で失ったベトナム人皇族の少女がひとりの若きフランス海軍大尉を愛してしまう。少女はハロン湾に転勤した彼を追ってサイゴンから北へ、革命前夜のインドシナを旅する中で、植民地支配下で抑圧され貧困にあえぐ人々と交流する中から、巨大なゴムプランテーションを営む支配者階層である養母と離れて共産主義革命へと身を投じていく。 「インドシナ」はメロディに母と娘がひとりの男性を愛するというある種の禁忌を奏で、インドシナ植民地をまさにい

鈍な機械にも五分の魂

一週間ほど前に大家のスティーブがボイラーの交換を決めた。 あさっての火曜日の朝にガス屋が見に来て交換作業の詳細を決めることになった。 最低でも16年かそれ以上の年齢を重ねたボイラー。比較的近い風呂場や洗面は比較的安定的にお湯が出るし、暖房も問題ないのだが、台所の流しはたまにいつまでたっても水しか出ないことがあった。なによりガスの燃焼効率が悪いのか目玉が飛び出るような請求が来たりしていて、これは替えてもらわないと、という状況だった。 それが、交換が決まった途端に、パフォーマンスが良くなったのだ。この一週間と言うもの、ボイラー氏は極めて安定的な給湯を続けている。念のためガスメーターも日々確認しているのだが、(まさに人間スマートメーターである)、ガスを使わなかった日をベースラインとして、そこそこ使った日と比較をしても極端に効率が悪いとは言えない状況である。 交換が決まる前までは、それこそ目玉の飛び出る請求の元となるメーターリードを生み出した元凶のボイラー氏は、自分の寿命が残りわずかであると悟ったいま、現役最後のご奉公と思ってか空前絶後のハイパーパフォーマンスを見せているのである。 いや、冷静に考えれば安定的に低燃費で動く、というのが当たり前なのかもしれないけれど、イギリスに来てからというものすべからく期待値レベルが下がっているので、こんなことでも驚き喜んでしまう。 そして、これは子供のころからつとに感じていたことなのであるが、機械などが交換されることが決まると急に調子が良くなるという記憶がある。機械にも心のあることなのかもしれないなどと思う私はナイーブだろうか。それでもいいと思っている。

ピナ・バウシュに救われる

この間、階下のリノベーションに入っている工事屋がヘマをして、粉塵が階上の私の部屋に降り注いだり、どうも中だるみというか学問に身が入らない日々が少し続いていて体と気持ちが疲れていた。 気に障ること、心に不安があると決まって不調をきたすので、随時主張する痛みとの戦いも体力を消耗させる。結果として体調を崩すわけにはいかないので睡眠時間を長く取るように心がけると、活動時間はおのずと短くなる。二月のほとんどの時間はそうして過ぎている。 そんな中で先週の日曜日にロンドンでピナバウシュのTanztheaterを初めて観た。ドイツのなにがしかをかじった身としては、一度は観てみたいと思っていた集団のパフォーマンスをこうした形で観ることができたのは奇遇としか言いようがない。 今回の演目は舞踏よりも演劇要素の強いもので、セリフも多くストーリー性もあるものだった。しっかり人間と言うものの禍々しさや清清しさを掘り下げてくれる作品だったので、一緒に見に行った人たちとも良い話ができた。 一流のアートに触れるべき理由のひとつは、そこから新しい発想が生まれ、対話が生まれ、そして人々の中にそれぞれに解釈されて定着していくことなのだろうと前々から思っていたことを、図らずもこの機会に改めて実感した。ひとりひとりが受け取ってそれぞれの中で咀嚼して腹の中に沈める、というのもいいのでしょうが、その時間、空間を共有した幾人かの対話からそれぞれの価値が変容され、リフレクトされ、そして互いに増幅されていく過程も含めてアートの価値として考えてみると、その接し方、慈しみ方をますます心に置いておけるようになるのではないかなと思う。 そんな昨日、三回目のロンドンフィル。どうもなにかを感じられない。それは一流の音楽家がさらりと涼やかに演奏しているからそう感じさせない、ということではない。曲目が濃淡の少ない、起伏の少ないものであったからということでもない。そんなことを言ったらいつもワーグナーばかり聞いていなくてはならない。好きだけれど。 迫り来るもの、ひきこまれるような圧力、うねり。それは単に音の強弱によって生み出されるものではなく、そのライブの空間を支配する目に見えない力によって押し出されてくるもの。前の回には感じたもの、ピナバウシュでもこの身を鷲づかみにされたあの圧倒的なもの、Royal

若い人と話す、恩返しと恩送り

 時々、若い人と話をする。別段今に始まったことではなく、日本にいるときから折に触れて話をしている。それは僕から意図してということではなく、また改まって機会を設けたりするというわけでもない。すれちがったタイミングで、ちょっと話を聞いてもらってもいいですか?話をしてもいいですか?という問いかけから、少しその辺に腰掛けて、というように日常のちょっとした延長くらいの感覚である。もちろん時間や場所などを約束することもあるが、特別に仰々しいわけではない。そして基本的に彼らの申し出を断らない。その理由は簡単で、年嵩の人間に話を聞いてもらいたい何かを抱えていたかつての自分の姿を思い起こしてみればいい。自分の目線からみたらとても忙しくしている大人が、自分のために時間を割いて話を聞いてくれるということ自体が、とてもありがたかったからである。これまで自分が先達から受けてきた恩をお返しするひとつの態度なのだと自覚している。 僕は心理学を本格的に学んだわけでもないし、キャリアコンサルタントでもないし、ましてや心療内科医でもない。だから「面談」をどう仕切るか、どのように話をするか、といった確立された理論やテクニックを持っているわけではない。そういう意味ではずぶの素人である。しかしながらなぜか概ね話をした若い人たちは数十分後、あるいは数時間後話をする前よりもすっきりした顔をして別れて行く。もちろん年を重ねていれば誰もが経験するであろうよしなしごとについて話をすることもあるのだから、一日の長があれば誰でもこのように接することができるかもしれない。時々でかつての自分が悩み苦しんできたことの共有が、いまの彼らを楽にするということもあるかもしれない。努めていることは、「自分の若いころはVS今の若者は」論や「~べき」論に陥らないというくらいのことである。 さて、若い人たちと話をする上で最近になって気が付いたふたつの重要なことがある。そのひとつは彼らの存在そのものに対する敬意を持った認知(acknowledgment)であり、いまひとつは彼らが語っていることを未来に向けて開拓していく手助けをすること(elaboration)である。存在の認知というととても大げさに聞こえるし、相手に対して敬意を持って接するなどということは当たり前ではないか、と思われる向きもあるかもしれない。しかしながら無意識の中で自分よりも

犬の糞、下肥、ぼっとん便所

 イギリスに来て半年が過ぎ、夏から秋、そして冬と三つ目の季節を迎えているわけだが、この間ずっと、正確には外出するときはいつも気にかけないと危険で仕方がないことがある。ドアが自動ロックなので鍵を持ってでないと締め出される。その通り。雨が頻繁に降ったり止んだりするので、濡れては困る衣服をめったに着られない。その通り。否、その危険はいつも足元にある。家の前の歩道から海沿いのプロムナード、公園の芝生、商店街の通路。それはありとあらゆる場所にポトリと落ちていて、油断している人の足元を地雷のように脅かしている。犬のフンである。 この国で、多くの犬は非常によく訓練されていて、リードをつけないままでも飼い主の指示をよく守り、人や他の動物に危害を与えることなく整然と歩いている。(もちろん少ないながら例外もいる)しかしながら当たり前のことながらどんなに訓練された犬であっても「出るものは出る」。そしてどんなに訓練された犬でも「いまここではフンをするな、家まで我慢しろ」という指示はおそらく通じない。従って犬は思い思いの場所でフンをする。あちらこちらに「犬のフンは持ち帰るように」と書かれた看板が掲げられ、「Dog Waste」と書かれたそれ専用のゴミ箱が置かれている。しかしながら、それにも関わらず多くの飼い主は犬のフンを拾って持ち帰ったり、わざわざ専用にあつらえられたゴミ箱に捨てたりしない。おのずと、道端から公園から遊歩道から芝生に至るまで街中は犬のフンを踏んづけるリスクに常に晒されている。 ふと、ここのところdog wasteならぬhuman wasteなるものをDevelopmentの文脈で散見する。要するに開発途上国における人糞の農業肥料使用に関するテーマであるが、適切に処理されていない人糞を肥料に使用することによる消化器系の病気や伝染病の蔓延といった衛生上の問題がある一方で、肥料が購入できない貧困層にとって農業収穫量を上げ食糧供給を担保し得るひとつの手段として人糞使用を考えるべきとするポジティブな見解もある。「適切な処理」を実現するためには、おそらくなんらかの装置や設備を用意し、人為的にバクテリアなどの分解者を混入して正常発酵を促すような科学的に管理された手法を中心とする開発事業として、人糞を適切、安全かつ異臭、汚水などの公害を発生させないプロセスをもって「無害化」した上で肥料として

空港に妻を送る、デビルズダイクで転ぶ

 年が開け、秋学期の課題であった三本の小論文も無事に提出がなり、松の内も開ける1月7日に妻が一時帰国する予定であったので、自動車を借りてヒースロー空港まで送っていくことにしていた。二人分の片道バス賃に私ひとり分の戻りのバス賃を加えても自動車を借りて燃料費を加えた費用にはわずかに及ばないのであるが、半年間慣れない土地でじっと頑張ってくれた妻に対するささやかな御礼のつもりであった。フォルクスワーゲンのゴルフを借りたつもりなのに、または同等クラスの記載も勿論知っていたが、まさかFIATが出てくるとは思わなかったが。やはりイタリアの車はいまいちである。なぜ職人の国であったであろうイタリアの自動車は細部に魂が宿っていないように感じるのであろうか。単にユーザビリティの違いや、メンテナンスの良し悪しではないような気がするのは私だけだろうか。 車の話は本筋ではなかった。妻を空港まで送っていったのだ。せっかく自由になる足があって、かつこの日は珍しく日中天気が安定していたので、景色の良いところを見てから空港に向かおうということになった。Devil’s Dykeというブライトン北方郊外の小高い丘の上に街から海まで見渡せる展望地があるということを学友から聞いていたので、そこへ向かってみることにした。我が家から車を飛ばせばわずか15分の距離である。道々、真冬であるのにも関わらず青々と茂った牧草を食む白黒の点々が丘陵を覆うように広がる景色は、いつ見ても心が和むものである。またこの展望地の頂上付近には馬を飼う牧場があるようで、自らが今年の干支であることなど知る由もないような顔をして黙々と飼い葉を食べる素直な大きく丸い眼がよっつむっつ並んで、じっとこちらを眺めている。 Devil’s Dykeの頂上付近は明け方まで降っていた雨の影響でひどくぬかるんでいた。ナショナルトラストの管理地であることを示す「駐車料金を払わないと50ポンドの罰金」という看板を横目に、そのぬかるみが目立つ斜面の入り口に差し掛かった私は、あろうことか両足をそのぬかるみに取られてすぐさま2~3mほど滑落し、尻餅をついて転がって、あげく両手を付いてやっとのことで自らの体を重力に逆らわせた。瞬間的にはっと振り返った背後では妻が何ともいえない表情でじっと私を眺めている。次の瞬間には大きな笑い声が聞こえたのであるが、こちらは冷たい泥の中で

イングランドと海、ノルマンディを想う

 クリスマス前から続いた年末年始の休暇も本格的に終了し、今日から世の中は動き始めている。こう書くと休暇中は物事がすべからく止まってしまっていたような気がするが、根元からぶった切られた哀れなもみの木や一度に数百、数千という数で屠殺されて商品棚に並んでいく鶏や七面鳥の消費はむしろ加速し、帰省や観光に向かう人々の交通機関への殺到も日ごろよりも高まるのがこの休暇の期間である。休暇開けに「世の中」が動き始める、という表現もある意味で一面的であるという自覚を13年目にして会社勤めという「世の中」のルーティンのひとつから解き放たれたいま改めて持つのである。 世の中が休暇中であったこの数週間、私は毎朝決まった時間にオフィスに出勤するという十数続いた「世の中」の義務を免除される代わりに、日々一単語、一センテンス、一パラグラフを積み重ねていく作業を地道に続けていたのであった。もとより会社勤めが日常であったときから「一年の計は元旦にあり」といったある種の「年末年始リセット主義」からはいささか縁遠かった私は、しかしながら「計」を一切持ち合わせずに生きることではなく、都度、日常の中で「計」を立て、「実行」し、そして「推敲」するというルーティンを回してきたのかもしれない。 さて、毎朝窓から見える海である。夏の間は妻と毎夕のように海岸の遊歩道を散歩し、眺めてきた海はここのところ荒れることも多く、白波を立てた大きなうねりがドドーンと打ち寄せる日も珍しくない。この英国南部の海岸線にある街に暮らし始めてから、この海岸線というものに英国人(イングランド人)が寄せるセンチメントに度々触れる機会があった。例を挙げれば「イングランド人と海」というタイトルのドキュメンタリーシリーズがBBCによって制作され放映されるほどである。 多くの人が既知のように、いまイングランドと呼ばれるこの地はその歴史の中で繰り返し南東の大陸や北方からの侵略を受けてきた。一面的なものの見方を排除するために本筋とは外れるが敢えて付言すれば、そのイングランドと呼ばれる地に住まっていた人々も度々他者を侵略してきた経験を持っているのではあるが、ともあれ、空高く旗幟を掲げたノルマン人のロングシップがこの海岸線を埋め尽くし、櫂の音を合わせて湾を進んでくる情景は、時に穏やかに輝く銀鏡のように、時に浜を激しく叩きつける神鎚のように今日私たちの目の前に在