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寄らば大樹の陰

寄らば大樹の陰、という言葉がある。お陰様で、というのも同じで、元々は巨木に対する霊性信仰あるいは夏の強い日差しや冬の冷たい北風を遮ってくれる樹木への尊厳から発生している。北の国の和尚さんに教えて頂いた。転じて人間と人間の関係性を表す比喩表現として現代では理解されているが、古来人間は巨木に畏敬の念を抱き、自然を怖がって生きてきたことの名残りがここにある。大樹の陰に寄るのはなにもかっこ悪いことではなかったのだ。 人間は自然に勝ってはいけない。 ある方の師の言葉。 半分腑に落ちて、半分考えが巡り続ける。 人間は自然をできる限り理解しようとした。もっといえば巨大で繊細でなんともつかみどころがないけれど自分の命はまさにそこに担保されている自然になんとか親しくなって欲しかった。彼女となんとかお近づきになりたいとする手段が科学だった。その心には計り知れない自然のメカニズムを前にしたわからないことへの畏れがあった。 人間は科学の力で自然に勝てるのか そもそも問いの立て方が間違っているかもしれない。 いつのころか人間が自然に勝とうと考え始めたのは、自然の時間の流れに必ずしも沿わない形の時間軸で語られる守るべきものを持ってしまったから。被服、家、備蓄した食糧、装飾といったモノから、家族、社会、そして制度、秩序。突き詰めると、人それぞれの快適。その最大公約数がいま私たちが守るべきものとして認識しているなにか。 さて、守るべきものを持つ人間は自然とどう向き合うか、但し勝つというオプションは抜きで。  こんなクラスがあったら最高に学校は楽しい。

身体感覚

日曜の夜東京に着いたとき、体がフワフワするようなえもいわれぬ感覚に包まれた。翌朝になって通勤の人波に紛れてもまだ変わらない。 中尊寺、衣川から峠を越えて陸中松川、門崎。砂鉄川のたおやかな流れがつくる景色に体を浸していたのに、10数時間後に渋谷の雑踏に至ってはどうにも自分の体がフワフワするのは致し方ない。 人間に限らずすべからくイキモノは、生存本能のアンテナを立てて自分のまわりにあるあまねく情報をキャッチしながら、自己と外界の関係を隔てるバリアを水濠のように巡らせている。そのバリアは己を護ることを第一義とするのはもちろん、己の在り処を計る重要な役割を果たしている。つまり英語の「Barrier」=障壁という語義のみならず、である。 外界の状況を把握することがバリアの有様を規定することに影響するのであれば、当然陸中の山中と渋谷の雑踏ではバリアの在り方が異なる。深い緑の森やたおやかな清流に対するものと、多くの人間やコンクリートジャングルに対するものは異なる。恐らく野山にいるときのバリアモードでそのまま渋谷の環境に突入してしまったので外から侵入する情報に対して対応が効かない状況がまさに夜から翌朝にかけて続くフワフワの真相であったらしい。 この身体感覚というシロモノが実は大切であるとかねてから考えている。「人知を超越した自然に対する畏敬・畏怖」バリアの感覚。「数多くの素性を知らない人間への警戒」や「人工物への憧憬」バリアの感覚。この「 自然」と「人間」という軸で身体感覚を論じることは、植物のみならず動物に対する感覚も含めてすでに多く為されているように思う。他方で「人間」対「人間」という場面において、これを特に認識して突き詰める「芸術」の世界を中心に積極的な理解と実践が進んでいることは間違いないが、こと一般社会の人間関係の中においてこの感覚がどのように把握されているかは些か心許ない。 「師匠の背中を見て学ぶ」とか「あいつはなんだか知らないけどセンスがいいよな」といった話にこの感覚を理解できるポイントがあるように思っている。