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ではのかみに申し候うること

 少し前に日本のメディアで、イスラエルは「女性活躍社会」、女性起業家や投資家が大活躍(≒日本も見習うべき的出羽守)という趣旨の記事を見ました。 ちょうど、イスラエルのハイテクエコシステムにおける雇用の多様化を目指す取り組みについて数か月にわたって取材をしていて、ようやく先週原稿を書き終えて東京に出したところでした。多様化というのは一義的には男女の話であり、またイスラエル独自の文脈としてのアラブ人やユダヤ教超正統派、エチオピアやスーダンなどアフリカからの移民といった少数派コミュニティの職場での包摂の話でもあります(そのうちウェブに出たらまたご案内します)。 4人の取材対象者に話を聞きました。とても「先進的」な取り組みを主導する人たちなので、当然かもしれませんが、みなさん女性でした。とても素晴らしい人たちだった。でもその彼女たちが口々に言っていたのはハイテク業界を占有し続けるマチズムであり、イスラエル社会に根深く存在する生活慣習として規定された男女の役割でした(例:子どものお迎えは女の人の仕事)。働く人たちの目線に降りてきて話を聞いたのであれば、イスラエルの働くママたちもまた日本のお母さんたちと同じように家庭と仕事の両立に悩んでいるんだという当たり前の姿が見えたはずです。 ところで、彼女たちとは英語で話をしていました。僕がヘブライ語ができないのでしょうがないのですが、取材からしばらく経ってからふと思ったのは、たまたまハイテク産業で働く人たちとは英語できちんとした文脈まで押さえた深さの会話ができるけれど、近所のスーパーでいつも満面の笑顔で肉を切ってくれるロシア系のナタリヤとは言葉を介しては深く彼女のことを理解できないだろうなということでした。一方で、実は言葉を介して理解できたと思っているのは僕だけで、相手が本当に思っていることをそのとおりに言ってくれていたかどうかは定かではないのかもしれません。逆にナタリヤは、言葉は通じないのだけれど、彼女がいる肉売り場に行くとすごく気分がいいので、他の売り場はショボくて買うものがほとんどないのに、肉を買うためだけにいつもナタリヤのいるスーパーに行ってしまうのです。 言語での理解が理性の範疇だとして、笑顔で心が穏やかになることが感情や感覚の範疇だとすると、感情や感覚が人の行動や交流に与える影響というのは言語というある意味ニュートラルに、記