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故地について想うこと(続)

鈴木四郎が生まれた二本松・鈴石の家は、かつての豪農だった。言い伝えによれば、鎌倉末期から室町初期に相模国あたりから国替えで安達地方へ来た主についてきた家来だったとか、戦国時代の終わりに備前国あたりから来た主についてきたとか、はたまた関が原の後に肥後の人吉あたりからやってきたとか、いくつかの説がある。いずれにしても、主たる領主がいて、はじめはその家来として鈴石の地を与えられ、いつのころからか帰農して、都合何百年と領地経営を担ってきた一族であるらしい。 実際には、江戸時代に菩提寺の火災によって過去帳が焼失したため、資料的には縁起が定かではない。中世から近世にかけてのいくつかの事柄は、村の名を冠した鈴石神社の縁起に書かれていることなので、おそらくどこかの段階で誰かがそれなりに調べたことを記したのだろう。しかし、ご他聞に漏れず偽証文の類も少なからずあっただろうから、なにが事実なのかは誰も知らないことである。 民博が公開している旧高旧領取調帳(データベース)によれば、幕末期の鈴石の石高は約1500石。二本松丹羽家の石高が同じ統計によれば約13万石あまりだったことからすると、全体から見ればわずか1%程度のとても小さな領地である。祖先のような豪農の類が管理・経営する土地とそこで働く人たちが寄り集まって「大名」と呼ばれた大領主の領地が成り立ち、ひいてはその大小の大名領が寄り集まって出来上がっていたのが近代化前のニッポンなんだな、ということがふと脳裏に浮かぶ。 戊辰戦争で二本松は会津とともに徹底的にやられた。23万石の会津が、松平容保が守護職に就いた時、京都に約1000名の軍隊を送ったという。国許にも半数を残していたとしても総勢2000。10万石あまりの二本松はかき集めても1000名程度だっただろうが、この戦争では300名以上の戦死者を出している。 丹羽の殿様が持つ領地のうち、1%程度のちっぽけなところにしがみついていた祖先が、そこになにか役割を担っていたとかそういう記録は少なくとも私たちには伝わっていない。ただ、明治以降に河野広中などが中心となった福島の自由民権運動に私財を投じ、それが元で零落したということなので、戊辰のころも、領地経営の末端にあって、お達しに従って様々の資金やら物資やらのやり繰りに努めていたのだろうと思われる。以前、釜石に行ったときに、幕末期に南部

故地について想うこと

先日、何年越しかで、父方の祖先が生きた二本松の鈴石(すずいし)というところを訪ねた。前から二本松がかつての田舎だということは知っていたけれど、実際に行ってみようという気になるわけではなかった。けれども、震災後に 桜onプロジェクト で東北に関わるようになり、行く度に通過する福島の、安達太良山の風景を眺めているうちに、いつか二本松に行ってみたいという気持ちが強くなった。住んだことも、訪れたこともない二本松の、安達太良山の風景が心にしみたから、僕も自分の中にある東北のDNAを感じたのかと言えば格好が良く聞こえるけれど、実のところその間に十分に歳をとったということなんだろうと思う。実際に行ってみたら、とにかくたくさんの感情があふれてきて、とても一度には受け止めきれなかったのだけれど、いまの気持ちを記しておくべきだと思って、まとまりのない文章を書くことにした。申し訳ないけれど長くなるので、何回かに分けて書こうと思う。 父方の祖父は鈴木四郎といって、東京の深川(いまは清澄白河というと分かりやすい)で時計屋を営んでいた。最近でこそ小洒落たカフェだの雑貨屋だのが跋扈しているが、ほんの少し前までは銭湯に鼻水たらして通った下町情緒もはなはだしいところだった。そんな私が子どもの頃は、まだ祖父は健在で、自宅の1階に構えた店には所狭しと大小の時計が並んでいたことを思い出す。歌にある「大きな古時計」は、別に時計屋のおじいさんではなく、単にふつうのおじいさんの古時計が主題なのだが、妙にあの歌を聴くと、感傷的に祖父を思い出したものである。逆に言えば、祖父の思い出は時計以外にはさほどなく、祖父の家に行く途中にいつも眺めた 隅田川の記憶 のほうがむしろ強いくらいである。 四郎さんは、謎の人だった。少し大きくなって物心がついてくると、母方の祖父である 吉田茂 がさかんに昔話をしてくれるようになったのとは対照的に。茂さんは、親戚中の誰も聞こうとしない彼の昔話を、僕が面白がって聞くので、喜んで話してくれた(いまもそれは変わらない)。なぜかはいまだに良く分からないけれど、祖父の話は僕にとっては面白かった。大河ロマンのかけらもないリアリティしかない庶民の歴史なんだけれど、目の前の人が何十年も生きてきた軌跡、その前の人がこれまた何十年・・・とそれだけで都合200年くらいのタイムスリップをしている感じが、