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年末、一年の計などない、いつもの挑戦しない自分のこと

 早いもので今年ももう終いである。個人的には特段新年になにか新しい心がけを、とかそういう趣旨のことをしていないし、形式的に年賀状は書くものの(今年はお返事を書くことくらいしか出来ないかもしれない)、日ごろご無沙汰な人々との近況のアップデートという意味合いが強く、SNSなどで遠く離れた人々と日ごろからバーチャルに緊密であり続ける今日この頃に至っては、年賀状というアナログでリアルだけれど、ある意味ではバーチャルな媒体のその効果効用も別のところに求められるようになっているんじゃなかろうか、と考えたりする。もちろん「節目」というものを人間は大事にするし、連綿と続く月日になにがしかのベンチマーク、あるいはマイルストーンを置いていかないと道に迷う、という心理も多分に理解する。それでも一年に一度、というタイミングだからこそなにかを新たにする、という仰々しさは私の中にはあまりない、ということである。ひとなみの感慨や、年末年始の街に漂う恒例の空気や、そういうものを一切感じない、というわけでももちろんないのであるが、この感覚は如何なるものだろうか。 多くの人が、来年は挑戦の年にする、勝負の年にする、と言ったり書いたりしていて、このことをふと考えた。みなひとそれぞれの挑戦があり、勝負があると思うのだが、それでは私にとってこれは挑戦であった、勝負であった、と言える(自分自身に問うてそう思える)ことはあっただろうか。あったとすればそれはいつだっただろうか。過ぎてしまうとなにげなかったというだけで、実際のところは大きなチャレンジだったといえるのかもしれないが、自分は他人よりも過ぎてしまったことに対する気持ちの薄れが早く大きいのだと自覚していて、あれは挑戦だった、勝負だったということを強く思わないのか。あるいは相対的な比較(が意味がないのはわかっているが)で、他者と比べて強度の低い挑戦や勝負しかしてこなかったのかもしれない。(負ける戦はしないという発想)そのいずれも確からしく、どちらもそうでないかもしれない。どちらの思いも自分の中にあるからである。2004年に新卒で勤めた会社からいま勤める会社に転職したときは挑戦だっただろうか。転職なんていまの世の中当たり前なんだから大したことではないという思いと、異分野のそれも異種のさらに自分にとって高度なものを要求される(と思っていた)ところに行こうとしたの