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読書記録 当たり前が当たり前でなくなること

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 盛夏の川村美術館。長谷川等伯が前澤何某に買われてなくなってしまったことを知らなかった。いつでもそこに行けば名作に会えるというのは、当たり前のことではないという事実。 半年くらい前にたまたま目について、扉を開いてしまった途端に一気読みした 末松さんの本 。少し前にプリゴジンの乱を二二六に類して評していた識者がいたけれど、そういうところに馬脚が現れる。 往時、戦没した兵の遺骨が故郷に帰ると、親兄弟親類縁者が部隊兵営に勢揃いしているからてっきりかわいい息子やら甥っ子やらを弔おうと集まってきたのかと思ったら、戦死した兵一人にいくらということで出される弔慰金目当てにそれをむしり取ろうと集まった輩たちだった。兵たちが戦地に送られる時、親兄弟親類縁者は「生きて帰るな。お国のためじゃなく、弔慰金のために。お前一人が死ねば家族が生きる」といって送り出した。自分たち青年将校が多くは中隊の責任者としてその遺族対応の矢面に立って見ていたのは、一見あり得ないほどさもしく、しかしながらそうまでせざるを得ないほどの貧しさだった、という下りが印象に残る。 ワグネルにも生活のために働いていた傭兵が少なからずいるだろうが(少なくない米兵がまたそうであるように)、プリゴジンがそうしたやむに止まれぬ兵たちのための義憤にかられて起ったとはとても思えない(少なくともそういうことを言っている識者を私は知らないが、もしそうなら大した人物である)。今の日本に一族の男子を戦地に送って死なせ、その弔慰金を取って生きようというまでの底抜けの貧しさがあるとは(まだ)思いたくないけれど、かつてそうしたことの重なりを動機の一つとして起きたのがあの事件だったということは、終戦の日を前にして想いを致すべきことのように思う。