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7月, 2009の投稿を表示しています

ジャカルタ爆発

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ジャカルタで爆弾テロ 9名死亡 http://www.47news.jp/CN/200907/CN2009071701000256.html とりあえず関係者は皆無事でした。 マリオット、またですか。確かにジャカルタでオフィスを選んだ際に、デベロッパーが繰り返し物件の「防爆」対策の充実を謳ってたのはこういうことかと改めて納得。 K島建設担当者さん曰く、「テロリストが爆弾を積んだ車でゲートに近づいた場合、もちろん警備レベルで発見し確保することが第一ですが、爆発しちゃった場合のことを考えての『防爆』対策をしておかなければなりません。」とのこと。 確かに、『防爆壁』という名の立派な壁がエントランス正面にありました。 『防爆』とは聞き慣れない言葉ですが、どういうことかというとこういうことだそうです。 向かって左手の駐車スペース手前がよくあるガラス張りのエントランス、壁の向こう側に外の道路からつながっているゲートがあり、入場する車両はここで一端止められて爆発物検査を受けます。壁はこちら側から見ると低く見えますが盛り土をして高くしたところを基礎にして駐車場を作ってあるので、あちら側から見ると高さ3mくらいの巨壁に見えます。なので猛スピードで突進されたら別ですが、大抵はセキュリティで停車させられた時に爆発するため、この壁があればエントランスをある程度守れる、ということになるようです。 また1Fエントランスの側壁面は特殊強化ガラス+ガラスが割れたときの飛散を防ぐフィルム加工を施したもので、万が一爆風でガラスが割れても細かく砕けて飛び散らないよう工夫がされているとのこと。 皮肉な話ですが、テロの脅威がセキュリティビジネスを潤わせるんですね。2003年のマリオット以来大きな事件がなかったので、最近のセキュリティチェックはほぼないようなものだったのがまた厳しくなるんでしょう。うっとうしいけど仕方ない。

『吉田茂』と白洲家の人びと 後編

白洲次郎は家に入るなり言う。 『吉田のオヤジと同じ名前の人はあんたですか。』 次郎がオヤジと呼んだ時の宰相吉田茂とバラックの吉田茂は確かに同姓同名。 この時、バラックの茂は大正9年(1920年)生まれの30歳。首相の茂は明治11年(1878年)生まれだからもうとっくに70歳を超えていて年の差は親子以上に離れている。次郎もバラックの茂よりは18歳年長であるから、彼の頓着しない性格を割り引いたとしてもこの物言いは致し方ない。 同姓同名を確認したすぐあとの次郎の言葉はこうである。 『うちにきて椅子張りやってくれないかな。職人が見つからなくて困ってるんだ。』 椅子張りの職人なんてそこらに他にもいるだろうし、なんでわざわざおれのところに。茂は訝しむ。次郎は、なんでも知り合いに聞いたらオヤジの茂と同じ名前の「椅子張り職人」が芝にいるから、というので飛んできたらしい。 茂は困る。復員したての状況で田舎に帰るわけにもいかず、さりとて妻と幼子を抱えて食っていくためにはなにか仕事をしなければならない。戦前にいた講談社からは戻ってこいと言われたけれど、なぜかもうあそこで仕事はしたくない。戦争なんてなければ、おれはフランスに行って絵描きになりたかったのに。活字の校正で月日を終えるのはどうにも辛抱ができない。それじゃあと見渡してみたところ、進駐軍の将校官舎や復興しつつある役所や学校の内装やら椅子張りの仕事が目にとまる。やったことはないけれど手先はそこそこ器用だし、手近な道具で始められるし。好きなわけではないけれどひとつやってみようか。そんな動機で始めた「椅子張り職人」だから全く心許ない。でも手間賃ははずんでくれるかな。はてさてどうしたものか。 逡巡する茂の心の内を知ってか知らずか、次郎は続けざまに都合をまとめようとする。 『道具と体一つで来てくれればいいから。いつなら来られる。場所は鶴川だ。』 仕事場はどうやら鶴川にある白洲家、「武相荘」である。 茂は腹を決めて次郎に言った。それじゃ来週末の休みに伺います。土曜の昼過ぎで良いですか、と。 それから幾度となく茂は鶴川の白洲家に行って、ソファを修理したり、椅子を張り直したり、そんな仕事をしている。茂は回顧する。おれが鶴川に行って仕事をしていると、正子さんがいていつも親切にしてくれた。普段の仕事の合間にやっていたからどうしても休みの日に行くことが多

マクナマラ死去

後編を書く前に・・・ ロバート・マクナマラ死去。 http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20090706NT002Y77006072009.html 映画「フォッグ・オブ・ウォー Fog of War」のロングインタビューが強烈でした。 http://www.sonypictures.jp/movies/fogofwar/site/

『吉田茂』と白洲家の人びと

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吉田茂と白洲次郎の関係は広く世に知られているところである。 戦後の占領期から独立期にかけての日本史は、この二人の業績なしには語れない。 昭和26年。サンフランシスコ講和条約が署名され、戦後の日本が主権国家として再び国際社会に復帰しようとしていた年。 東京は芝増上寺の門前。今でいう東京メトロ大江戸線大門駅から増上寺の山門に向かうあたりの路地裏は、大空襲で一面焼け野原であった。戦後、戦地から復員してきた人々や、家を焼け出された人々がバラックと呼ばれるトタンで作った仮の住まいを建てて暮らす景色が広がっていた。 バラック街の一角に、台湾から復員してきた一人の男が妻と生まれたばかりの長女と暮らしていた。陸軍下士官であった男は、満州と朝鮮の国境付近、現在の中国吉林省延吉市から北朝鮮国境にほど近いところに駐営していたが、戦局の悪化に伴い台湾へ配転されていたために、ソ連の参戦による被害や戦後の抑留を受けることはなかった。男の所属していた部隊は「長男部隊」と呼ばれ、内地では各家を相続する「嗣子」ばかりを集めていたため、危険な前線に配置されることなく終戦を迎えたのである。復員後に故郷の幼なじみであった妻と結婚したが、徴兵前から東京に暮らしていたこともあって故郷には戻らず、芝の地に落ち着いていた。 ある夏の暑い日。男のバラックの前に、一台の見慣れない車が止まる。ひどく磨き込まれて黒光りのする高級車である。運転手は車から降りると、男のバラックの引き戸を開けてこう告げる。 『白洲が参りました。』 運転手が家の主の所在を確認したのであろう、視線で合図を受けて車中の人物はゆったりと車から降りてバラックに入る。 『初めまして、白洲次郎です。』 薄暗い屋内で主は勤しんでいた仕事の手を止めて、吹き出す汗を拭いながら小さく会釈をする。 男の名は『吉田茂』。 <続く>