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マンボウをホーリーランドから眺めて想うこと

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 今年の3月11日は、マンボウ未だ明けやらぬ日本を、東地中海と死海にはさまれたホーリーランドより遠く眺めながら二日酔いの中過ごしておりました。 11年というのは、いまだテレビや新聞が年一回の特番を組み、人々の記憶を呼び起こす年月の長さであるなぁなどと思っておりました。はたまた阪神大震災から今年で27年ですが、追悼行事やメディアの特番が組まれ、記憶を風化させない取り組みが続いています。では伊勢湾台風はどうでしょうか。63年前です。三河地震や南海地震、鳥取地震はどうでしょうか。およそ77年前です。地元ではいまだになにがしかの戒めの行事やお弔いがあるかもしれませんし、当時を経験した人たちの中には今もって様々の想いがあることは想像に難くありませんが、少なくとも全国ネットの特番は組まれていないように思います。関東大震災はもうすぐ100年です。そもそも9月1日は防災の日として営々と続いておりますし、100周年で特番が組まれるかもしれませんね。帝都を揺るがす直下型地震だったから特別扱いなのかもしれませんが、少なくとも今日の私たちが100年前の出来事を見る目というのは、同じ立場から東北や神戸を振り返る目線とは少なからず異なるまなざしなのではないかなぁとも感じています。 どうしても世代を超えて記憶は薄れていくし、その記憶を伝える土地の風景も変わっていきます。それでも人から人へ語り継ぐこと、亡くなった人、これから生まれてくる人、つまり今の私たちの目の前にはいない人たちに対する記憶や想いをも、折に触れて語り合っていくことの先に長い時間をかけてやがてやってくる未来を想像することも、少なくとも年に一回くらいはあってもいいんじゃないかなと思ったりするわけです。ちょうど桜の季節にそんなことをやったらいいんではないかねと始めた試みももう11年。みんな、元気だろうか。 長い年月といえば、昨今の不安定な国際情勢を語る自称識者が「戦後70数年もの長きにわたって安定してきた国際秩序を乱し…」と声高に叫ぶ姿がネットに転がっていました。はてブレトンウッズ?と思いましたがそこでふと。「安定」していたと思って過ごせていたのは実はほんの一握りの人たちだけで、朝鮮戦争もベトナム戦争も中東戦争もイラン革命もベルファストもフォークランド紛争も中南米のあれやこれやも(関係者の方々すみません、ちょっと多すぎて…)アパルトヘイ

パレスチナとはなにか

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ロシアの「南下」という文脈を、具体的な侵攻というアクションよりもしばらく前から眺めていると、どうしても日露戦争のことを考えてしまう自分がいる。しばし一人暮らしなので仕事が終わると時間がある。「坂の上の雲」の文庫を全巻持ってくることも考えたけれど、NHKオンデマンドでドラマを見ることにする。乃木さんがどうしたという、いわゆる司馬史観については正直なところどうでもよいのだけれど、もっと大きなところで19世紀後半から世紀末に至って世界を覆った民族主義の大潮流というものは、かくも中世以前からの歴史を色濃くして地上に線を引きまくったんだなぁということを、改めて思うわけです。 日本の場合は明治維新をあまり民族主義的運動とは強く定義しないけれど、小邦国家連合から大日本帝国という国民国家をつくって日露戦争にそれが結実した流れは近代「日本民族」を形成した運動だったでしょうし、そうでなくても明治以降にアジア主義の思想が生まれ、その中で日本の民族主義が台頭していく過程からも明治維新が民族主義のトリガーを引いたとは言えるのかなぁなどとつらつら思いつつ、パレスチナへの道を車に揺られていたのでした。 よくクルド人は国土を持たない最大の民族などと言われますが、パレスチナ人も国土があるのかないのか分からない状態でかれこれ数十年過ごしているわけです(クルド人は1,500万人とも言われ、パレスチナ人はパレスチナには500万人程度ですがディアスポラも含めると1,000万人を超えるという試算もあります)。19世紀後半から世紀末にかけての民族主義高揚の時代を英国委任統治下で過ごし、戦後はイスラエル建国によって混乱が続き、ようやくオスロ合意を経て自治政府が出来たけれど、日本が支援してつくられた工業団地にモノを運ぶ専用道路もイスラエルに相談しないと通せない、というのが実際のところのようです。 ヨルダン川渓谷という土地は、有名な死海があるところですが、エルサレムのある山並みとヨルダン国境の山脈にはさまれた南北に細長い盆地を形成しています。直射日光の強さとデーツのプランテーションを割り引けば、初春の少し肌寒い気候も相まって安曇野のような風景とムリに言えなくもありません(その夜エルサレムの山には雪が降ったそうな)。8世紀にウマイヤ朝のカリフが建てた冬の宮殿(壮大な入浴施設付)の跡に、こんなに大きいのは見たことがない一

ラッキーに感謝

 土曜の夜遅くにいまだガラガラの羽田空港を飛び立ち、イスタンブール経由でテルアビブへ。 トルコ航空機内は少し客足が戻ってきたとはいえ、依然として一列一人占有できるゆとり(満席の1/3程度の搭乗率)。 一転してイスタンブール空港は驚愕のカオス。ポストコロナの大移動がすでに始まっていることに加えて、ウクライナショックも重なって欧州-アジア路線が壊滅していることから、動いているトルコ経由がひっ迫していると推測(おそらく同じように動いているドバイ、アブダビ経由も同じような状況ではないかな)。ちなみに実は日本からはANAのブラッセル経由などもあるにはあったのですが、トランジットが18時間と法外で完全に選択肢にはならない状況。 イスタンブール、初めてで知らなかったのですが「すべての国際線乗り継ぎ客が手荷物検査の対象」ということになってるんですね。その人数たるや凄まじく、まずここで40-50分程度の長蛇の列。お年寄りや家族連れからここ数年帰れていなかったんだろうなと思しきお土産を山盛りに持っている東南アジアからの出稼ぎの人たち、動き始めているビジネスを加速しに行くのか香港の携帯電話番号をWi-Fiログインに打ち込んでいる華僑のビジネスマンなどなどでごった煮のカオス。 ようやく抜けたと思っても、イスラエル行きは搭乗ゲートでさらに手荷物検査があります。しかもなんとイスタンブールではX線ではなく、係員が100%手作業で荷物の中身を全部開けて確認している始末。ここでさらに30-40分の列。トランジット120分の中で正味70-90分を列に並ぶという…13時間半のフライトの後にこれは堪える。。。 テルアビブ行きの行列の最後尾ではトルコ人の係員が必要書類の事前チェックをしていて、居並ぶ乗客にどこから来たのか聞いて回っているのですが、何人かウクライナから来たという人の声が聞こえてきました。なぜ聞こえるかというと軒並み書類が整っていないからなんですね。 テルアビブについてイミグレに並んでいた時も、何分ものやり取りの末にカウンターの入国管理官から別室に行くように促された人たちが大勢いましたが、何人かはウクライナのパスポートを持ってイスラエルにたどり着いた人たちでした(ちなみに私の入国審査はいつも10秒くらいで、かつ無質問で終わります)。 PCR検査を終えてようやくビルから出て、予めワッツアップで連絡

江戸城の眺め

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 久方ぶりにパレスホテルから江戸城を眺めていた時にふと思ったこと。 ここはかつて江戸城であり、宮城となり、そして皇居となったところ。 そこで意外にも人生で初めて東御苑に入ってみた。皇居初体験。徳川家が入府した頃に庶民がお参りしていた日枝神社が城域に入ってしまうので、わざわざ外へ移したことなんて知りませんでした。ここから想像できることは、江戸の民は日枝神社は崇拝しても、城の主を拝むことはしていなくて、支配者の住む場所としてのこの場所を御城と呼んでいただけなのかもしれない。 その後この場所が宮城に変わると、宮城遥拝といって拝むようになる。先日亡くなった祖父も講談社で出征式をやった後に同期みんなで二重橋に遥拝に行ったと言っていた。最近日本のニュースで見た、神宮外苑の植樹に日本中から(おそらくみんな自腹で)土地土地の樹木名木が送られてきたエピソードなんかも、この宮城の主への崇拝感をひしひしと感じる。 時代が下って皇居と変わっても、その主を一眼見ようと年始の一般参賀などには万を超える人が集まっているけれど、個人的にはそれは宮城時代の崇拝とは違って、敬意とでもいうような感覚なんだろうなと思う。 そんなふうに時代が変わり、呼び名が変わっても、この場所にあり続けてきたものはなんだろうかなと考えると、なんとなくそれは権威とでもいうものなのかなと思う。人びとに影響を与え、その社会を陰に日向に形作っていくモノというような。ということは権威は時代によって、人びとに移ろいゆくものでもあるということ。 自分が生きている社会はどのように形作られているのかということに、常に思いを致して生きることは大切だなと。 ロシアの上を飛ぶのが危ないというので予定の便が欠航し、1日遅れで少し南寄りの航路で再びイスラエルへ参ります。