ラッキーに感謝

 土曜の夜遅くにいまだガラガラの羽田空港を飛び立ち、イスタンブール経由でテルアビブへ。

トルコ航空機内は少し客足が戻ってきたとはいえ、依然として一列一人占有できるゆとり(満席の1/3程度の搭乗率)。

一転してイスタンブール空港は驚愕のカオス。ポストコロナの大移動がすでに始まっていることに加えて、ウクライナショックも重なって欧州-アジア路線が壊滅していることから、動いているトルコ経由がひっ迫していると推測(おそらく同じように動いているドバイ、アブダビ経由も同じような状況ではないかな)。ちなみに実は日本からはANAのブラッセル経由などもあるにはあったのですが、トランジットが18時間と法外で完全に選択肢にはならない状況。

イスタンブール、初めてで知らなかったのですが「すべての国際線乗り継ぎ客が手荷物検査の対象」ということになってるんですね。その人数たるや凄まじく、まずここで40-50分程度の長蛇の列。お年寄りや家族連れからここ数年帰れていなかったんだろうなと思しきお土産を山盛りに持っている東南アジアからの出稼ぎの人たち、動き始めているビジネスを加速しに行くのか香港の携帯電話番号をWi-Fiログインに打ち込んでいる華僑のビジネスマンなどなどでごった煮のカオス。

ようやく抜けたと思っても、イスラエル行きは搭乗ゲートでさらに手荷物検査があります。しかもなんとイスタンブールではX線ではなく、係員が100%手作業で荷物の中身を全部開けて確認している始末。ここでさらに30-40分の列。トランジット120分の中で正味70-90分を列に並ぶという…13時間半のフライトの後にこれは堪える。。。

テルアビブ行きの行列の最後尾ではトルコ人の係員が必要書類の事前チェックをしていて、居並ぶ乗客にどこから来たのか聞いて回っているのですが、何人かウクライナから来たという人の声が聞こえてきました。なぜ聞こえるかというと軒並み書類が整っていないからなんですね。

テルアビブについてイミグレに並んでいた時も、何分ものやり取りの末にカウンターの入国管理官から別室に行くように促された人たちが大勢いましたが、何人かはウクライナのパスポートを持ってイスラエルにたどり着いた人たちでした(ちなみに私の入国審査はいつも10秒くらいで、かつ無質問で終わります)。

PCR検査を終えてようやくビルから出て、予めワッツアップで連絡しておいた顔なじみのタクシーに乗り込んで一息。前にもここで紹介したアルメニア人ドライバーのおじさんと久しぶりにしゃべっていたのですが、そういえばおじさんの奥さんはウクライナ出身(イスラエルは旧ソ連系のユダヤ人が多く住んでいます)。

私:そういえばおじさんの奥さんってウクライナ出身ですよね。

お:そうそう、正確にはクリミアなので、もはやウクライナではなくなってしまったんだけどね。いまでもオデッサとキエフ、そしてもう一つの街にも彼女のおばさんや拡大家族が住んでいるので、毎日やり取りしているよ。みんな気が気ではないけれど、いまはできることはあまりないので、落ち着いたら何かしに行こうと思っているけどね。

私:オデッサはウクライナですよね。

お:「今のところは」ね。明日にはどうなるかわからない。

私:イスタンブールでもテルアビブでも、ウクライナの人がけっこういましたね。別室に連れていかれたりしていたけど、よく考えたら彼らはここまで辿り着いたんだからラッキーでしたよね。

お:そうだよね、本当にそうだ。国境を超えられない人もいるからね。ノブルも長旅大変だっただろうが、そういう意味では君は職は保障されているし(わずか10秒でイミグレが通れるパスポートを持っているし)、住むところもあるし、家族もみんな安泰だし、相当ラッキーだよ。

おじさんは国際情勢にも左右された移住と流転の人生を送ってきた人だから、大変なことがあったといっても、いつもそれは人生の「ごく一部」だから、という言い方をする。その出来事の前と後には楽しいことや幸せなこともあっただろう、そうやって人生は続いていくのだよと。おじさんとしゃべっていると、カオスのイスタンブールも、相変わらずのバラガン(めちゃくちゃの意)イスラエル人(ベルトサイン消灯はおろか、着陸直後でまだかなり高速で機体が滑走している段階にも関わらず立ち上がって荷物を取りだそうとしてCAに怒鳴られる輩がたいてい30人くらいいる)も、ふっと脳裏から高速を走るクルマの後ろに消えて飛んでいく。

なるべく早くお金を貯めてリタイヤして、故郷エレバンからそう遠くない山のコテージで民宿をやるんだと未来の話を聞いていたらアパートについた。未来の話ができるということも、ラッキーなのかもしれない。ラッキーに感謝、ですね。

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