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あなたは裏切られたらどうする?

「あなたのこと信じてたのに!!」 「裏切るなんて最低っ!!!」 「君の事を裏切るつもりはなかったんだ!」(もしくは) 「騙されるやつが悪いのさ・・・」 火曜サスペンスか金曜ロードショーか(古い??)いずれにしてもドラマチックな台詞回しです。 信じていた恋人に二股かけられていた。ビジネスパートナーに有り金全部持って夜逃げされた。尊敬していた上司が実は自分の昇進を阻んでいた。才能を買っていた部下に手をかまれた・・・。 現実の世界でもあらゆるパターンが考えられます。誰でも一度はあんな経験、こんな体験があるのではないでしょうか。 怒り、悲しみ、焦燥、絶望、、、 「裏切り」という言葉にはこの世でもっともネガティブな意味が込められているといっても、そうじゃないよという人にはあまりお目にかかりません。感情的になるな、というほうが無理、深い人間関係で結ばれていたと思えば思うほど、悔しさやつらさは募るばかりです。なんともやるせない、ひどい話。 ・・・いきおいひどい話なのですが、ほんの一度だけ息を大きく吸い込んで、一度だけ深く吐いて、苦しくてつらいけどこう考えることにします。 「なぜあの人は僕を裏切ったのか」 「最初から体目当てだったのね(ちょっと主語が「僕」だと誤解を生むけど・・・)」「共同出資した金を持ち逃げするのが狙いだったのか」「同期と天秤にかけられて忠誠心を図られていたんだ」「おれの顔色ばかりを伺っていたんだな」 おそらくそうでしょう。僕を裏切った人はそのどれかに当てはまるようなことを考えていたかもしれません。いやきっとそうだったに違いない。もしくはもっとひどいことを考えていたかも。僕はまだ運がよくそれだけの傷で済んだのかも。 ふと、ため息をついたその次の瞬間にひらめいたことがあります。 「裏切られた理由は本当は『どこ』にあるのか」 「僕には裏切られる理由はない、と断言できるか」 「深い信頼で結ばれた人間関係をあの人と本当に築けていたのか」 自分で納得するまでこの問いに向かい合い続けた僕は、人に裏切られることが少し怖くなくなりました。 takeから始まる人間関係では、裏切られることが怖い。 giveから始まる人間関係なら、裏切られることにリスクはない。 あなたは信じたあの人に裏切られたとき、どうしますか?

君のストーリーを描こう。

OB訪問の季節です。 職業柄(?)まじめで「堅い」学生さんが多い。 学生時代はたくさん勉強してきた。 ボランティアやNGOの活動を通じて貴重な経験をしてきた。 勉強や社会活動の経験を活かしてどこどこの部署できっと自分は 活躍できるはずだ。 僕らが就活してたときに、こんな真っ当なこと言ってるやつ いただろうかというくらいまっすぐまじめな子だらけ。 でも逆にちょっと気になるのは、みんな同じように見えるという こと。学部・修士程度(といってワタシは行ってませんが・・・) の学問で「専門」とか言われても蛇の道は蛇だから、いくらでも 上には上がいる。NGOの代表やってましたって、いまそういう 人は珍しくない時代。本人たちは一生懸命やっているのだと思う から、もったいなく感じる。一生懸命だから輝いて見えるのだけど 飛び抜けて見えないのはなぜだろうと考えたら、やっぱり「リベラル アーツ」が足んないんじゃないかという仮説に至った。 勉強もボランティアも「ツール」になっちゃってる感じがすごく 強い。「手段の目的化」というか。同じ大学生でも自分で 団体作って休学して現地に住み込んでプロジェクトを立ち上げて っていうところまでコミットを持っている人はやっぱり飛び抜けて いる。「リベラルアーツ」とは必ずしも哲学とか宗教とか芸術とか そのものをスペシフィックに学ぶだけじゃなくて、スピリット というか彼ないし彼女がその行動を起こす原点になるような魂の 揺さぶり、原体験をどう経験し、それをどう自分の中でconceptualize して「熱源」として収めているか、というようなことでもあると 個人的には思う。学問としてのリベラルアーツは、その「熱源」を 安全に管理・運用するためのやっぱりツールなんじゃないかと。 学問をすることそれ自体が熱を生み出すということではなくて、 熱はなんで熱いのか、そもそもなんで人間は熱を持ってるんだ、 という万象を学問をすることで説明できるようになる、というのが 本当のところではないか。 (熱源がない、というのが別の問題としてあって、コレのほうが いまおそらくマジョリティーの問題だろうけど、別途考えることに します) このconceptualizeの営みが実に大事であって、そこから生まれる ストーリーが彼ないし彼女の今までとこれからの人生を語ってくれる。 そこに「今何がで

新渡戸国際塾第三期募集開始!

第一期でお世話になった新渡戸塾ですが、第三期の募集が始まりました。 ***** (タイトル) ≪新渡戸国際塾:第三期生募集≫ 国際文化会館は、日本ならびに日本人の国際的な存在感が希薄になっている現状に鑑み、次世代を担うリーダー育成のために「新渡戸国際塾」を2008年に開校しました。 異なる文化や価値観が共存する、平和で豊かな社会を実現するために、私たちはどのような貢献ができるのか。講師と塾生が問題意識を共有し、互いに切磋琢磨しあう「知的共同体」での研鑽を通して、広い視野と 公益の精神をもって、さまざまな問題の理解と解決にあたるために必要な「実践力」と「応用力」を養います。 第三期「新渡戸国際塾」では、アジアの知的リーダーや留学生をはじめとする外国人など多様な背景をもつ人々との対話の場をこれまで以上に増やします。 第三期生募集の願書締切は、5月28日(金)です。 * 期 間:2010年7月~2010年12月。 全12回および3回の英語コミュニケーション・スキル養成講座。 原則として土曜日午後1時半~5時半。 * 対 象:国際的な視野からの社会貢献に関心をもち、企業、非営利団体、官公庁、研究機関などで最低3~5年の実務経験がある、40歳までの方。ある程度英語での講義を理解し、英語で議論する意欲のある方。職種ならびに国籍は問いません。 * 定 員:15名程度(書類選考および面接により選考します) * 参加費:70,000円(京都フィールドスタディーなどの実費としていただきます) 講師陣・カリキュラム・募集要項などの詳細はこちらからご覧下さい。 http://www.i-house.or.jp/jp/ProgramActivities/nitobejuku/index.htm 【応募・選考に関するお問い合わせ】 財団法人 国際文化会館 企画部(担当:笹沼、上原) 106-0032 東京都 港区六本木5-11-16 電話 03-3470-3211(祝祭日を除く月曜~金曜 午前9時~午後5時) FAX 03-3470-3170  電子メール:program@i-house.or.jp 新渡戸国際塾ウェブサイト: http://www.i-house.or.jp/jp/ProgramActivities/nitobejuku/index.htm *****

ニーツェ

昨晩は(すでにつぶやいてはいますが)図らずも千鳥ヶ淵の花の宴客に巻き込まれながら、ディスカヴァー21の読書会「超訳 ニーチェの言葉」に参加しました。 著者の白取さんから「ニーチェ」はドイツ語の発音では「ニーツェ」に近いよ、と言われ「そうだよなぁ。Z=ツェットだもんなぁ。」と懐かしのドイチェ(これはチェ)発音を思い出しながらお話を伺い、また座席近くの人びとと輪になっていろいろなお話をさせて頂くことが出来ました。 装丁を担当したデザイナーの方や、印刷会社の担当者の方もゲスト参加。たまたま席が近く後半の「輪になる」セッションでご一緒したので、装丁家が何を考えてカバーをデザインするのか、印刷会社の方が出来上がった書物にどれだけ思い入れがあるのかといったことに触れて、改めて「書物」の持つ価値を見つめ直すこととなりました。kindleやipadは確かに世界を変えてしまうかもしれませんが、少なくとも私は「書物」を目にしたときの装丁の美しさ、手に取ったときに感じる「物理的な重み」や「指でページをめくるときの紙のざらつき」といった「触感」を読書の楽しみの重要な要素だと思っている人間なので、紙の書物を創り続けるお仕事の偉大さを改めて確信した次第です。重い洋書を出張先にまで持っていって、それでも読みたいと思い続けられる人間でいたい、というのが偽らざる本音。 さて「輪」のトークで、「この書物に出会い、『難しい』哲学の象徴だったニーツェに対する認識が変わった」と申し上げたのですが、より正確に表現するならばきっと次のようなことを考えていました。 僕は「哲学そのもの」を難しいと思ったことはありません。「難しい」とは「この解釈はかくあるべしと異なる主観から定義されたものを自らのものとして理解せよ、というコンテクストに違和感がある」と翻訳されるべきものだと考えています。では「難しくない」「違和感のない」哲学とはなにかといえば、それはすなわち「自らが創り出す哲学」に他なりません。 自身のおかれた環境とうまく付き合って生存していく上で必然的に見いだされる「価値観」と、自らの実際の行動とその結果得られる知見からにじみ出てくる「おそらくそうであろう、そうに違いないと考える」物事の本質らしきものは、果たして「真理」なのかどうか(もっと平たく言えば「自分は『正しい』方向を向いているのだろうか」ということ)を、真