ニーツェ

昨晩は(すでにつぶやいてはいますが)図らずも千鳥ヶ淵の花の宴客に巻き込まれながら、ディスカヴァー21の読書会「超訳 ニーチェの言葉」に参加しました。

著者の白取さんから「ニーチェ」はドイツ語の発音では「ニーツェ」に近いよ、と言われ「そうだよなぁ。Z=ツェットだもんなぁ。」と懐かしのドイチェ(これはチェ)発音を思い出しながらお話を伺い、また座席近くの人びとと輪になっていろいろなお話をさせて頂くことが出来ました。

装丁を担当したデザイナーの方や、印刷会社の担当者の方もゲスト参加。たまたま席が近く後半の「輪になる」セッションでご一緒したので、装丁家が何を考えてカバーをデザインするのか、印刷会社の方が出来上がった書物にどれだけ思い入れがあるのかといったことに触れて、改めて「書物」の持つ価値を見つめ直すこととなりました。kindleやipadは確かに世界を変えてしまうかもしれませんが、少なくとも私は「書物」を目にしたときの装丁の美しさ、手に取ったときに感じる「物理的な重み」や「指でページをめくるときの紙のざらつき」といった「触感」を読書の楽しみの重要な要素だと思っている人間なので、紙の書物を創り続けるお仕事の偉大さを改めて確信した次第です。重い洋書を出張先にまで持っていって、それでも読みたいと思い続けられる人間でいたい、というのが偽らざる本音。

さて「輪」のトークで、「この書物に出会い、『難しい』哲学の象徴だったニーツェに対する認識が変わった」と申し上げたのですが、より正確に表現するならばきっと次のようなことを考えていました。

僕は「哲学そのもの」を難しいと思ったことはありません。「難しい」とは「この解釈はかくあるべしと異なる主観から定義されたものを自らのものとして理解せよ、というコンテクストに違和感がある」と翻訳されるべきものだと考えています。では「難しくない」「違和感のない」哲学とはなにかといえば、それはすなわち「自らが創り出す哲学」に他なりません。
自身のおかれた環境とうまく付き合って生存していく上で必然的に見いだされる「価値観」と、自らの実際の行動とその結果得られる知見からにじみ出てくる「おそらくそうであろう、そうに違いないと考える」物事の本質らしきものは、果たして「真理」なのかどうか(もっと平たく言えば「自分は『正しい』方向を向いているのだろうか」ということ)を、真っ当に生きている人ほど確かめたくなります。もう少し言えば、科学に留まらない自然の摂理や、具体的な宗教や定説に留まらない長い人類の歴史の時間が培ってきた「精神力」であったり、「伝統」「しきたり」「文化」というものは大事なものだけれど、必ずしも純粋に従うのではなく、そこから重要なメッセージやエッセンスを取り入れた上で現代に生きる自らの環境に合わせて行うモード選択に基づいた生き方を模索する中で、「何が重要か」という判断材料の一つとしてこの確認行為が求められるのではないかということです。白取さんが指摘された「オーセンティックなものが求められている」という言葉の定義を僕はこのように捉えています。
故にありきたりですが例えば「自己啓発」という言葉ひとつを「自己を啓発する」ではなく「自己で啓発する」と捉えた場合、「(借り物の)誰かの言葉や考えを鵜呑みにすることで自分を啓発した気になる」のではなく、「誰かの言葉や考えから知見を得つつ自ら行動した結果をもって自己を啓発」するというように意味が変化してきます。最後の答えは自分で出すんだ、という部分がとても大事だと思います。

以前のブログ(http://44dgeorge-penguinflipper.blogspot.com/2010/03/blog-post_30.html)にも似たようなことを書きましたが、近代化、古式ゆかしい「価値」の没落と新たな「価値」の多様化、行動の「自由」からもたらされる情報の氾濫にさらされた僕たちが何によって自らの進む道を見いだすのか、という問題に直面する時代だからこそ、「ニーツェの言葉」は27万部も売れるのだと思います。が、しかし「ニーツェの言葉」が、日常を生きる私たちにとってたとえばお茶を飲みながら友人と交わす会話のような存在になると、社会の空気が変わるような気がしてなりません。「ありがたいお言葉」ではなくて「さりげなく自らの立ち居振る舞いを整えるための至言」とでもいいましょうか。白取さんのお付けになったこの書物の原題は「友人ニーツェ」だったそうです。僕はその感覚がとてもよく分かります。

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