プロテスタンティズムの倫理と・・・

今日twitterで少しつぶやきましたが、ある程度まとめておかないといけないと思ってこんな時間ですがblog書いてます。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20100328-OYT1T00853.htm?from=navlc

読売新聞「編集手帳」3月29日付

Ruth Benedictがいうところの「恥の文化」の「恥」という概念について、単に「世間体が悪い」などという表象的な部分だけをもって、私たちの父祖がその倫理観としてきたわけではないのではないか、ということはtwitterにも書きました。その根本には、共同体への責任感、一個の人間として(世間体などといった狭量な話だけでなく)誰がなんと言おうと守るべきものは守るという倫理観があったのだと思います。

翻って「善悪や神への罪悪感を行動規範とする欧米型の『罪の文化』」と引用された「欧米」の倫理観はなるほど宗教的道徳観によって支えられたものであり、また「絶対神を欠くこの国」にはない「キリスト教圏とイスラム教圏」には「罪の文化」が営々と息づいている(のに対して、日本には「世間体」に変わるものさしが果たして生まれるのか)という説き。

まず「欧米」=キリスト教圏、絶対神=キリスト教圏、イスラームというステレオタイプをどうにかしなければならないのはやまやまですが、100歩譲ってむちゃくちゃですが「欧米」=キリスト教圏とカテゴライズした場合、そこに暮らす彼らは今日現在「キリスト教的絶対神信仰」の元に「罪の文化」を体現して倫理観あふれる生き方をしている、と断言できるのでしょうか。あるいはイスラーム圏についてもまた然り。
ロンドンの地下鉄の駅の壁のみならず車両にまでスプレーで落書きをする若者達は宗教に基づく「倫理観」にあふれているのでしょうか。くわえ煙草で携帯をかけながら公共の往来を闊歩するベールを脱いだインドネシアの女性キャリアパーソンは宗教的「倫理観」を遵守しているでしょうか。彼らにとってもまた宗教的「倫理観」はファーストプライオリティではないのです。

マックス・ウェーバーが論じるところでは、当初資本主義、合理主義を支えたカルヴィニズム行動様式がやがて「近代化」に伴い単なる営利を求める行動へと変貌していく様が分析されていますが、この過程での「近代化」とは「脱宗教的過程」であるという指摘を別の観点からエマニュエル・トッドも行っています。つまり「絶対神・一神教」であるか否か、という論点では宗教的「倫理観」(を是とするか否とするかという議論は脇において)の欠如という問題を測ることは適当ではないということです。
トッドによれば「近代化」とは「識字化」であり、すなわち世界観や価値観の多様化であり、必然的に旧世界を支配していた宗教的束縛からの解放であるとしています。この感覚は、視点は違えどベネディクト・アンダーソンなども指摘しているポイントです。日本も例外にもれず、明治以降の「近代化」の過程においてトッドの指摘するプロセスを経ているわけです。読売新聞のコラムニスト氏が指摘する「倫理観」の欠如(断じて「単なる羞恥心の欠乏」ではないですが・・・)が現実のものだとすれば、それは日本のみならず、グローバルなレベルで起こっているのです。

それではどうすればいいか。
いま私達を取り巻く「近代化」した生活様式や至便を極めさらに追求しようとする環境の中で、単に中世的、前時代的、宗教的倫理観を取り戻すことが是であるとは決して誰も思わないでしょう。是非は脇に置いていま私達が生きる社会を動かしている「資本主義」「民主主義」というシステムの中で、どうしたら私達が「倫理観」を取り戻せるか。
あくまでも個人的な意見ですが、まずなによりも「尊厳を持つ」ことだと思います。プリミティブには自分自身への尊厳。そして家族や友人など近しい人への尊厳。ここで尊厳とは決して「甘やかす」ということではなく「尊重し、認め合う(だからこそ必要なときは厳しく接する)」ということだと思います。この尊厳が地域社会、ひいては日本全体に広がることで、「人が人を大事にする、権利と責任を共有する倫理観」が備わった社会が実現できるのだと思います。この過程では、ときとして「古きもの」に懐古していいところを吸収したり、体系を取り入れることも効果的かもしれません。歴史を学んだり、武道などの古くからある方法を通じてそこに息づく精神を活かし「人を尊厳の対象としてみる人を育てる」ということもいいかもしれません。

最後に読売コラムであっさりと切り取られていた「世代交代」は、確かに必要なアスペクトですが、単純に「交代」するのでは「古い」けれど価値のある感覚や経験が次世代へ継続的に活かされない場面もあるかと思います。ばっさりと団塊の世代にご退場いただく、という思考では必ずしもなく、「世代交流」とでもいうような感覚で緩やかなバトンタッチを実現できればいいのかなと思います。
いみじくもトッドは、昨今のイスラーム世界で起こるブルータルな出来事を「近代化」による「世代間断裂」が引き起こした悲劇であると説いています。日本で言えばこれは直接的には昭和初期に当たるようですし、亀裂の最後は戦後の安保、大学闘争であったようにも思えます。科学技術の進歩や情報伝達の速度はどんどんスピーディーになっていきますが、その中で人と人との関係性というものは、ときにゆったりとしていてもいいのだと思います。

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