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5年後の春に

六本木の居酒屋で,有象無象の衆がとっちらかる酒宴の席の片隅で,ふと知り合った酔狂な男がいました。人を一切寄せ付けない振りをして,寂しさを満開にした革ジャンの背中の向こうからクルッと向き直った顔には,鋭く人を刺しそうで,それでいて人の心をつかんで離さない,底なしの優しさを持った目が,酒に酔ってちょこんとすわっていました。 生い立ちも,職業も,女の好みもまるで違う二人でしたが,なにか信ずるものがつながったというか,『けっきょく大事なところはそういうことなんだよね』というところで膝を打てるというか。 半年後に,日本が揺れました。一月あまりが経ち,彼と会いました。彼の奥さんと僕の妻も一緒でした。この一月にお互いの身に起こったこと,考えたこと,とりとめもなく話をしました。フツフツと湯気を立てて煮えるモツ鍋が半分くらいなくなったときに,ふと彼は言いました。 『吉田さんさ,俺,東北に桜をね,植えたらどうかと思うんだ。あれからずっとずっと考えていたんだけど。なにをすべきなのか,なにができるのかって。で,俺は花屋だから。植物の持っている力をどうにかして,人びとの元気につなげられないかと思い至ったのね。たくさんの物語が流されてしまったところで傷ついたけれど,また頑張ろうとしている人たちと一緒にさ,これから未来に向かって育つ樹を植えたらどうかな。どう思う?吉田さん』 モノもカネも情報も,そのときに必要なものがいくらでもあったと思います。まちがいなくそのひとつひとつが尊かった。みんな今日を,明日を生き抜くのに一生懸命だった。未来??桜?それで明日の飯が食えるのか?そんな時代だった。でも僕の目の前には,未来を,人間ひとりの寿命よりもはるかに長い時間を生きて,しかも生きた人間の想いを,ひとりひとりの生きた証である「物語」を,託すことのできる樹木という媒体を活かして未来を見ようとしている男がいました。 樹を植える,樹が育つ,大きく大きく育っていく。10年,20年,50年,100年,彼と,いま彼が話している僕が死んだ後,遥か先の未来にまで届く。ただ,そこには重い重い責任が伴うことも,彼は承知していました。あのときの,初めて会ったときのあの目で,そう言っていました。 『うん,やろう。それはやるべきだ』 5分後くらいに,僕はそう答えていました