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観光庁

観光庁長官に溝畑さん。 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091225-OYT1T00385.htm これは期待大です! 溝畑さんは元自治官僚ですが、トリニータをJ1に導いて九石スタジアムを常に一杯にしてきた地域振興の手腕は定評があります。そして「熱い」。確かに平松さんという名知事が大分にいた、ということがあったにせよ、です。県庁にいたのではちゃんと出来ないといって役人を辞めて、チームの経営に献身し、のめり込みすぎて離婚しちゃった、といったエピソードも。泣かせます。 http://doraku.asahi.com/hito/runner2/090818.html 内閣府の木村さんと並んで、地方を変えることができる人が中央の仕事の、それもトップに立つというのは本当に素晴らしいことだと思います。とてもナイスな人事です。 かつて観光業界の末端にいた者として、この世界の出来事にはやはり関心がありますし、日本の観光業界はポテンシャルがすごく高いと思うのでこの先楽しみです。どんなタマが出てくるのか・・・。ワクワクしますね。

最近の読書から

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第二次大戦中にフィリピン戦線に従軍し、「俘虜記」「野火」「レイテ戦記」といった戦記モノで有名な大岡昇平。彼が書いた「ながい旅」という本を最近読みました。戦中に名古屋を中心に本土防衛の軍備と軍需生産を統括していた陸軍中将が、戦後、米軍の降下搭乗員(空襲爆撃機に搭乗していて、撃墜されたりしてパラシュート降下した米軍将兵のこと)に対する処遇を巡って裁かれるB級戦犯裁判を描いたドキュメントです。映画化もされていてそれなりに有名な話なのですが、改めてきちんと読む機会になりました。これも川崎和男さんのブログで紹介されていたおかげです。映画については、主演が藤田まことだったので「なんかイメージが違うなぁ」とそれっきりだった、という話もあるけど・・・。岡田中将、男前です。 http://www.ouzak.co.jp/blog/?p=3543 川崎さんも提起されている「東京裁判とはなんだったのだろうか」という問いかけから、私は改めて「戦争犯罪」とはなんだろうか、と考えはじめました。 今の仕事についてからちょうど一年くらい経ったころに、転職してはじめて海外出張に行くことになりました。行き先はアフリカ。南アとナイジェリアで20日弱くらい、半分修行のようでしたが、このアフリカとの邂逅はとてもとても強烈で、以来しばらく狂ったように「アフリカ熱」に浮かされていたことがありました。在京のアフリカ各国大使が集まるパーティーに顔を出したりもしていました。アフリカと一口に言ってもサブサハラ(サハラ以南のアフリカ)だけでも48の国があり、在京の大使といってもケニアや南ア、ナイジェリアといった「大国」から、ウガンダやルワンダ、エリトリアといった「小国」の大使まで、一堂に会していると実に様々な「人間模様」なわけです。 そんな「大使連中」の中にエミール・ルワマシラボ大使がいました。彼はルワンダの全権大使であり、元々の職業はお医者さん。大学の先生でもあったそうです。94年の虐殺を遠くパリからみて、ルワンダ復興を担うポール・カガメ大統領に請われて大使になった方でした。金銭に清廉で、教育家らしい高潔な人物。日本では虐殺のイメージしかないルワンダを、英国で飛ぶように売れているコーヒー豆の産地であるとか、シルバーバックというとても貴重なゴリラが住む国であるとか、懸命にPRする姿を仲間と一緒に微力ながら応援しました。

TAHITI紀行2

コペンハーゲンで開催されていたCOP15の結末を受けて、温暖化による海面上昇で沈みゆく島嶼国の代表のやるせない表情がニュース番組で盛んに映し出されていました。今に始まったことではなく、前々から言われていることではありますが、ツバルやパラオといった太平洋の独立国は毎年メートル単位の水位上昇により「国土がなくなる」現実に立たされているそうです。仏領ポリネシアではタヒチ島などの枢要な島はみな大きな島で、すぐにどうこうという危機感はないのかもしれませんが、それでも100以上も島があるのですから中には沈没に瀕した有人島があるかもしれません。制限重量一杯の荷物を抱え、大きな体を小さな飛行機の座席に押し込んで、何度も乗り継ぎをしながら渡っていく先の島に住んでいるのであろう人びとと実際にまみえた後では、なんともこの世界規模の会議の行く末も違ったものに見えてくるから不思議です。実際に見ないと想像力が湧かないのでは人間失格ですが、実際に見るのと見ないのとでは大きな違いがあるのも事実です。リゾート地に行ったつもりが、いつものくせで考え事です。 エアタヒチは、前回も少し書きましたが、仏領ポリネシアの域内にある島のうち空港設備がある47の島を結ぶ路線を毎日平均130便運行している航空会社です。所有する機材は全部で(たった)12機。 http://www.airtahiti.aero/articles.php?id=745 これと全く同じ記事が機内誌の記事として掲載されていたものを、離島との往復の間に読んでいました。他の乗客は当然窓の外の景色を見ています。私は悪いくせで考え事が始まったので、碧い海そっちのけで読みふけります。 「晴れている日と雨の日で搭載可能な乗客数が変わる」 「滑走路の端の椰子の木を一本切ると(筆者注:滑走路への進入角度が変わって揚力とか空気抵抗の関係が変わるから?)可能積載数が120㎞増える」 「照明のある滑走路は47路線中10しかないので日没までが離発着の勝負!」 ・・・・ 実に涙ぐましい経営努力に関する記事の数々です。 日本にも離島へのフライトサービスを提供している会社はRACとかORCとかいくつかあります。きっとどこの離島フライトも、離発着回数が多くて機材の整備が大変、赤字運行、悪天候への対処と悩みは似ているのだと思いますが、機内誌やウェブサイトに堂々と書いているのが

TAHITI紀行1

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久しぶりのブログです。 先週土曜日から約一週間、「南太平洋の楽園」タヒチへ旅行しました。 東京からエアタヒチヌイ(タヒチを本拠地とする航空会社  http://www.airtahitinui.co.jp/ ) の直行便で成田からタヒチ本島のパペーテまで約11時間。日付変更線を 超えて、到着するのは現地時間の早朝です。 機内で朝食が出るころには、窓の外は一面の碧い海。直感的に「とんだ ところに来たものだ」と思いましたが、それは当たっていました。 人間を懲らしめるためには、劣悪な環境(極寒の収容所とか劣悪な刑務所 とか)に置いて絶望的な気持ちにさせるのが良いものだと思っていました。 しかし、ここタヒチのように気候は温暖、白い珊瑚の砂浜の下の下まで 透き通るような碧い海、ただひたすら流れる時間と波間にたゆたう我が身、 フランス人の遺した旨い飯と酒、トップレスで泳ぐ隣のコテージの金髪美女・・・ というような環境におかれた方が人間はダメになる、ということを身を もって知りました。 パペーテ到着後、すぐに国内線に乗り換えてさらなる離島へ渡ることに なっていたため、本島の滞在時間がごくごくわずかで黒川先生がブログで 紹介されていたスティーブンソンの灯台は、残念ながら訪れることが 出来ませんでした。 http://www.kiyoshikurokawa.com/en/2009/03/tahiti-4-about.html 敬愛する吉田松陰の縁が、日本から10,000キロも離れた絶海の島にある なんて・・・と思うと、実に残念です。是非またの機会に訪れたいものです。 タヒチはその正式名称をPolynesie Francaise, 仏領ポリネシアといい、 ニューカレドニアなどと並ぶフランスの海外領土のひとつであるポリネシア のいくつかの諸島からなる地域の中心をなす島の名前であり、この地域全体 を指す通称にもなっています。厳密にはタヒチとは仏領ポリネシア「諸島」の 中心にあるひとつの(もっと厳密には大小ふたつの)島ということになります。 仏領ポリネシアを構成する島は、なんと全部で118もあるとか。 国際線であるエアタヒチヌイから、今度は国内線の運行を担うエアタヒチへ 早朝の国内線乗換でアイランドホッピングしまして、到着したのは ボラボラ島。タヒチ島と同じソシエテ諸島に属するリゾートアイラ

Delivered a Speech from "Excellency Made in America"

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先週土曜日にサントリーホールでオバマさんのスピーチを聴きました。 朝8時の開場と案内されていたので、余裕を持って7時45分に集合!ということにしていましたが、時間を読み過ぎて7時25分にはカラヤン広場に到着しました。 そのときすでにエントランス前には100人を超す列が出来ています。 チケットをまだ受け取っていなかったので、一瞬並ぶことを躊躇。でもどんどん列が長くなっていきます。座席は全て自由席ということだし、雨がひどくなってきたらとても外で待てないし・・・。仲間がひとり来た7時30分のタイミングで意を決してノーチケットのまま列に並びます。屈強なSPにチェックされたら、もうそのときはそのときだ。チケット持ってるCさん、早く来て!!! 約束していた7時45分を過ぎるころには列は長蛇と化してカラヤン広場を埋め尽くしました。 ようやくチケットを持ったCさん到着!この頃にはバッチを付けずに会場に入ろうとしたSPが大使館関係者に軽くたしなめられたりしているのを横目で見つつ、だんだん入り口の警備状況も分かってきて緊張感が高まります。 しかし実にいろいろな人が並んでいます。少し見渡した限りでも著名な政治学者である東大のK教授や、元共同通信記者でTBSなどの報道番組でアンカーも務めるG氏など、VIP対応されてもおかしくない人たちが雨に濡れて並んでいます。と思えばやはり学生さんとおぼしき若い人たちがとても多く招待されていて、なるほどと思わされます。 airport-like security checkをくぐり抜けていざ二階席へ。我々「一般招待」者は一階席には入れません。バルコニーの、それもステージを至近に真横から見られる左側の席へ。近い。とても近い。正面の席も捨てがたいけれど、近さに負けます。 そしてこの位置からは一階のVIP席に座る人たちの様子が手に取るように分かってとてもおもしろい。frontrowには現職閣僚もちらほら。9時過ぎにはほぼ着席完了。スピーチの開始予定は10時。あと1時間ちかく居並ぶ大臣たちを含めて政財界の重鎮たちを待たせるって、やはり大統領は別格ということでしょうか。 入場口で配られたロックスターも顔負けの「大統領パンフレット」を読んでいると弦楽四重奏+クラリネットの余興が。しかも演奏は日本フィル。大統領のプロフィールが写真付きで細やかに描かれた20ページにもおよ

情報の近さ、遠さ

44D@バンコクです。 23日から25日まで、車で数時間離れたリゾート地で起こっていた政治のイベントとはまったく関係なく、今日から現地入りをしております。思い切り、社内用務です。 当地の新聞を読んでいて、改めて日本での視点と異なる部分に気がつきます。 サミットの焦点は議長声明などよりもカンボジアのフンセン首相が何をしゃべったか、この報道の取り扱いがとても大きいです。タクシン前タイ首相を経済顧問に招聘するとか国境紛争での強硬姿勢といったタイを刺激する一連の発言はあまり日本では取り上げられていませんが、少なくとも僕が読める英字紙ではこの話題がトップ扱いです。 往路の機内で斜め読みしたFTは、トップにADB黒田総裁がEAS(東アジアサミット=ASEAN+6)で発したアジアの通貨安定に向けたコメントがショーアップされており、これは日本人の読者を強く意識したものかなと思いつつ(日本で刷ってるから)搭乗前にチラ見した日本の新聞でも、ASEAN+3か+6か、といった日本と中国、それにインド、豪州あたりの綱引きを予想するといった「マクロな視点」が多いように思います。もちろん当然なんでしょうが、それにしても日本とどこかの国(々)との関係がどうなるのか、どういうイニシアティブが出たのか、という視点に終始します。それに対して相手国が(首脳のリップサービスばかりでなく事務方も含めて)日本をどう見ているか、あるいは第三国同士の関係性というような視点にはニュースバリューはあまりない、ということでしょうかね。なんというか、非公式でも傍証でもなんでもいいのですが、ひとつのissueに対してそんなニュアンスを求めているときはいろいろな国の、違うリソース(新聞、ネットなどなど)を眺めてでもなにかに気がつきたい感じです。 「マクロな視点」の記事や論考は、読者の世界観を広げる効果があるかもしれない反面、読者の想像力の限界を超えて世界観を伝えてしまう危険性があります。つまり読んだ人は+3とか+6とか、なんとなくわかった気になるんだけど、実際言われていることの寸法というか、それでどうなのよ、というところは実は伝わらないような気がとてもするのです。 これが同じサミットを取り扱ったタイの新聞では、引き続き国民的論議を呼んでいる存在のタクシン元首相のカンボジアを巡る動向や国境紛争(?)など、とかく庶民の目線でイメー

3R

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3Rってよく見聞きする言葉だと思います。 Reduce, Reuse, Recyclingの三つのRをとって3R。 廃棄物を減らし、再利用し、リサイクルするという意味だそうです。 僕は専門家でも何でもないのですが仕事上の行きがかりから、日本やASEAN各国を含めたこの3R政策を研究するプロジェクトのお手伝いをするようになって2年目になります。3Rはもとより環境政策の先進国である日本をはじめ熱心なタイやフィリピン、シンガポール、マレーシア、そしてインドネシア、ベトナムといった国々からの専門家でワーキンググループを作っています。僕はさしずめその事務局といったところです。 廃棄物と一口にいっても、種類は家庭ゴミから産業廃棄物、それもhazardous waste(有害廃棄物)まで実に幅広く、国によって処理の仕方や法規制の有無、整備状況もまちまちです。informal sectorと呼ばれる中小の無認可業者がdumping(不法投棄)をした結果、環境破壊を招く事例も多数起きているようで、日本も過去の苦い経験に則って、如何にinformal sectorをformalizeしていくか、業界の法制化と企業育成のための制度作りに向けた提言をすることもこのプロジェクトの目的になっています。また近年注目が高まっているrare metal(希少金属)資源の再利用についても、大きな課題のひとつです。といってもこのプロジェクトで取り扱うのは、レアメタル回収・再生利用の技術的な側面ではなく、なかなか見ることの出来ない再生可能資源流通やそこに関わるステークホルダーの実態を調査し、どのようなルール作りや支援を行えばいいのかを探ることです。環境問題、それも廃棄物処理の問題については、従来は一国内の問題として各国別に取組が行われてきましたが、廃棄物や再生可能資源の国境を越えた取引がde factoで進む一方で、中には当然ながらilegalなものもあることからその規制が求められる、また枠組やルールを統一化することで市場としての価値が高まり、結果として業界が洗練され3Rの効能が高まるという期待をこめて、国の枠組を超え地域全体としてこの問題に取り組む必要性があるとの認識から多国籍のワーキンググループが組織されています。 先週インドネシア・ジャカルタで開催された第一回の会合では、会議室でのミーティングはもち

八ツ場ダムの是非

八ツ場ダムが揺れています。 57年も前からのダム計画に翻弄されてきた地元と、自民党政治からの決別、一度決めた公共事業は「無駄」でもやってしまう体質からの決別の象徴にしたい民主党政権の対決軸が連日報道されています。 「変革と刷新を目指す新生与党」と「国に翻弄されたかわいそうな地元」の構図はとてもわかりやすくていいのですが、その一面だけを報じて「さてさてどうなることか・・・!」と高みの見物を決め込む報道番組が一番変わっていないんじゃないかとイライラします。 民主党はマニフェストに「八ツ場ダムは中止」と書いているから中止すると言いますが、確かにマニフェストには書いてあるけれど、「中止」と書いてあるだけで、ではなぜ中止なのか、建設を続けた場合と止めた場合のコストベネフィットはどうなっているのかといった話には触れていません。大臣が地元に言って理由をいくつか説明したそうですが、ダムの問題は築かれる地元のみならず治水や利水の関係から下流域の自治体も大きく関わる問題であるはずです。利害関係者になりそうな埼玉県や東京都は、今のところ「国と群馬の問題」として静観しているのだと思いますが、この手の話を「地元」に押し付けてタフネゴシエーションの先鋒をやらせ続けるのもいかがなものかと。この先民主党は折れない(折れることが出来ない)でしょうから、そうなると「群馬の問題」として知事や町長といった首長が建設中止に反対する地元住民を、国を背負って説得し始めるマイナススパイラル交渉のような構図になれば、とてもつらいことだと思います。実弾も飛ぶでしょうし、それではなにも変わらないのに。 57年の間、大規模公共事業をやりたい国とダイレクトな恩恵を受けたい地元に加えて、下流域の自治体にしても「水がめ」のオプションを増やしたいという視線を持っていたであろうことは想像に難くありません。 「このダムをこのまま作り続けること」と「この段階で中止すること」の是非に関する情報を、徹底的にオープンにして、「国と群馬」の問題と矮小化せずに議論をすべきだと思います。そして民主党政権の政策変更の象徴であるこの問題についての対処を有権者がどう判断するか。「政治を国民に取り戻す」のであれば、重要なことです。

日本の教育「改革」?

GRIPSの黒川清先生のブログにこんな記事が掲載されていました。 http://www.kiyoshikurokawa.com/jp/2009/09/donna-scott-257.html 寄稿されたarticleを執筆したのは、黒川先生も書かれていますがおそらくはアメリカのonline schoolという活動もしくは団体を運営しているDonna Scottさんという方。総選挙後の民主党による政権交代が下馬評で極めて濃厚であった先月に、「全国学力・学習状況調査」(=「テスト」)について、民主党が打ち出している現状の全国全校実施方式から一部抽出方式への意向を検討する方針を踏まえて以下のような分析が述べられているものです。 論旨としては、民主党政権になったらこの「テスト」の見直しが濃厚であるということを前提として、①「テスト」の「全国全校実施」から、抽出された学校だけで行う方式への方針変更を民主党が検討しているのはひとえに財源の問題 ②そもそもこの「テスト」が導入された背景には昨今の日本の児童生徒の著しい学力低下が懸念された結果(文中では明示されていないが、2006年の「OECD 生徒の学習到達度調査-PISA-」結果の影響を受けて導入されたと思われる表現) ③(現在検討されている各校別の)成績公表に伴い成績上位と下位の学校の間にある格差(が明らかになること)にどう対処するのかということが懸案であるというようにいくつかの視点からこの「テスト」を眺めています。 改めてこの「テスト」とは何なのかを考えてみようと思います。 まず「テスト」の導入のきっかけになったと言われているPISAとはいったいどんなものなのかを少し調べてみました。以下の記述に際しては文部科学省提供の資料に依りました。 http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/sonota/071205/001.pdf PISA=Programme for International Student AssessmentはOECD=Organization for Economic Co-operation and Development(経済協力開発機構)がOECD加盟国と非加盟国の中から有志の国を合わせて行う「15歳児を対象とする学習到達度を測る問題」を実

固いガム

あれ以来イキパンは何回チャレンジしても全く当たらないので、最初に餌をばらまいといて、同じIPからは二度とヒットしないようにしてるんじゃないか、とか疑心暗鬼になりつつ今日もキシリッシュを買い続けている44Dです。 手持ちキシリッシュが切れたので会社の売店に買いに行ったらそこでも品切れ。買い占めが発生してます。社内のPCからみんなが応募してんじゃないかとまたも疑心暗鬼…。 仕方ないので横のスペースで信じられないくらいの過剰在庫を誇っているクロレッツを買うことにする。 心なしか、気持ちキシリッシュより弾力があり粘着力が高い気がするクロレッツ。たまにはいいかもと思ってカミカミカミ…。 「ガリッ…」 いやいや、いくら弾力があったってね、「ガリッ」はないでしょ。不純物?遺物混入??毒入りガム???やっぱりコンビニまで行ってキシリッシュ買えばよかった、って本来の購入動機と全然変わってきてるし、キシリッシュならセーフだったっていう根拠もゼロだけど、一度回りだしたら止められない思考回路なので仕方なく瞬間的に一周する。 でもクロレッツ、ごめんなさい。濡れ衣です。冤罪です。君が固かったんじゃない。口から出した君は正常そのもの。ただし銀光りする固形物を包み込んでいるけど。 銀歯が取れました。 粘着力の強さが災いしたようです。そうなるとやっぱりクロレッツ有罪?? まぁどうでもいい判決はさておき早く歯医者に行かないと。

追憶の彼方の国境警備と運命の分かれ道

8月18日。終戦の日を少し過ぎた平日に田舎に帰りました。 妹の誕生日、という建前で爺さんが両親の家に来ることになり。 爺さんとは前にも紹介した、白洲次郎の家のソファを作ったあの爺さんです。 ド平日だしちょっと無理かもと最初は思って、行く、行かないの答えを渋っていたのですが爺さんから「戦中の満ソ国境の地図をもってきてくれ」というリクエスト。 僕の会社は旧満鉄調査部を前身とする研究機関で、図書館にはそんな資料がどっさりと眠っています。古い資料はダメージドとして閉架されていますが、地図や統計などは復刻版が出ているものもあり、開架で持ち出しも出来るのです。(職員に限り) ありました。「満州文省地図~地名総覧」(昭和17年刊) 全旧満州帝国の省別地名索引と在現地官庁、企業名リストがついたオールカラーの地図帳。一体誰がこんなものを見るのよ、と思いますがちゃんと需要(?)があるのですね。 さて、軒下の縁台に腰を下ろしておもむろに地図帳(厚さは辞書並です・・・)を開いた爺さん。 「ここだ、間島省。」 今の中国にそんな省は存在しません。「満州国間島省」。現在の吉林省、中朝国境に程近く、延吉という都市が省都だったようです。今日偶然にも同僚が辞令を持って現れて、これからその延吉に赴くとのこと。つくづく面白い会社です。 昭和16年1月。徴兵検査を甲種合格した爺さんは、宇都宮の連隊本部に入営。そのまま新潟へ移動、船に乗せられ釜山経由で現在中朝国境に近い北朝鮮領にある慶源というところに一旦駐屯したそうです。部隊編制の完了を待って陸軍第71師団第87連隊配属となり、中朝国境を越えて現在の中国領、当時満州国間島省、現在の吉林省琿春に置かれた連隊本部勤務となりました。 念のため「帝国陸軍編制総覧」や「日本陸海軍総合辞典」という、これも辞書並の書物にあるデータで確認してみましたが、史実の記録に実に正確に記憶しているようです。寸分たがわぬ記憶で自分の足跡をすべて覚えているのです。 爺さんの所属していた大隊は、国境警備の名目で琿春の連隊本部から東へ約40キロ、満ソ国境から約15キロ程のところにある土門子というところへ前進配備されます。爺さんは大隊砲(歩兵砲=可動式の小型砲)の射手だったので、砲や弾薬を運ぶ軍役馬の飼育も任務のひとつだったそうです。曲射(放物線を描くように発射すること。迫撃砲と同様の運用)を

ageha

庭のデッキでぼけっとしていたら、20センチはあろうかという大きなクロアゲハがゆっくりゆったり飛んでいます。 都心のagehaはクラブだけじゃないんだね~。 つくづくここは自然を感じます。

イキパン

当たっちゃいました。 HOKUSAIの波ドカーンのやつ。(一番左の真ん中) http://www.meiji.co.jp/sweets/candy_gum/xylish/cmp/ikipan2/index2.html サマージャンボ当たらないでこっちがきちゃいました。・・・ はー。なかなかお見せできないのが残念です。

選挙制度について思うこと

選挙の季節です。 投票日当日は外出で投票に行かれないので、期日前投票をしようと思っています。 選挙区は東京7区。前回2005年の選挙でトップ当選した現職自民党松本氏と「小選挙区」は次点で敗れ「比例復活」した民主党ミスター年金長妻氏の事実上一騎打ち区であります。(前回選挙では両候補が10万票以上の得票をしたのに対し三位だった共産党候補はわずか2万票の得票に留まりました。)長妻氏は前々回2003年の選挙では小選挙区で勝利しましたが、前回は「郵政解散選挙」だったので、自民党候補が競り勝ったわけです。 周知のとおり、小選挙区制とは一選挙区から一名の当選者を選ぶ選挙方式のことです。この制度のメリットとデメリットは表裏一体でしょうか。一名しか当選することができないために、得票が拮抗した場合次点候補に投じられた票は全て死票になる反面、たとえば有権者が与党に対して不信任を表明したい場合は最大野党の候補に票を寄せ込むことによってその意志を投票結果に反映しやすい(与党の候補を落とすことができる)点が有権者にとっては利点でしょうか。しかし有権者がその意志をできるだけ政治に反映させたいと思えば思うほど、政権担当党へ票が集中し、少数議席政党は選択されにくいことも考えられ、結果として二大政党制になりやすい、といったことが挙げられます。この流れを是正するために政党名を記して投票し、その得票割合をもって議席を配分する比例代表制を並立させているということでしょう。民主党などがマニフェストに掲げる議員定数削減を狙いとした比例定数の削減に共産党などが反対しているのはこのためです。 さて、そもそも衆議院議員は元貴族院の参議院とは異なり、民意を直接的に反映して国政に携わる役割があるとされているとはいえ、「国会」議員なのですから一地域、一セクターの利害のみを訴求する存在であってはならず、広く国家のことを考え行動すべき立場ではないでしょうか。従って「地盤」とか「地元」という発想が出てくること自体が本来はおかしいのかも、と感じます。 「落下傘候補」。かくいう鳩山民主党代表もそうですが、その選挙区のある土地で生まれ育ったり、地縁血縁のない土地を選んで立候補する候補のことを指します。その理由は様々でしょうが、政治家あるいは政治家になろうとする人は、小選挙区比例代表並立制の選挙制度の中で、どこの選挙区から立候補するか選

サマセット・モーム

大森貝塚を発見した人。 は、ウィリアム・モース。じゃなくて、、、 サマセット・モームの「人間の絆」という本を読んでいます。ゲルナーの「民族とナショナリズム」そしてスミスの「ネイションとソサエティ」というナショナリズム研究の大御所2連発の合間を縫って心を休めるために読み始めました。実に10年ぶりくらいの邂逅です。モームの本は学生時代の英文学の講義でさんざん原文を読まされていたのですが、当時の僕は「くっちゃべる英語」は好きだけど「勉強として読む英語」はどうしても好きになれなかったのです。「勉強」として読むなら断然原文だけど、はっきり言って娯楽として読むのに英語は、元来ドメドメなニッポンジンにとっては正直つらいので翻訳を用意。映画だって字幕ダイスキ。だから語学が上達しない?そう、その通りです。 モームは読みやすい平易な文体と読み手をぐぃーっと引き込んで離さない絶妙なストーリーテリングで有名な作家です。日本の作家でいえば誰だろう。浅田次郎かな。そんな彼が自身の半生を振り返った自叙伝とでもいうべき作品がこの「人間の絆」。 主人公フィリップは生まれつき内半足(足のつま先が大きく内側に曲がって外に曲げられない身体障害)の障害を持ちコンプレックスを抱えています。他人からの視線を常に気にしてびくびく生きる少年の姿。加えて両親をなくしイギリスの片田舎に牧師として暮らす伯父夫婦に引き取られた彼は、孤独感の中で少年時代を過ごします。誰でも多かれ少なかれ物心ついたときから持ち続ける自己と他者との関係におけるコンプレックスの象徴的な姿をフィリップは体現しています。僕の場合は、成長の遅れから背が小さかったこと、そして極度の近視からメガネをかけていたことがコンプレックスだったかな。他人から言わせれば取るに足らない、何をそんなに気にするの?っていうことが気になってしょうがないのがコンプレックス。だから高校生になって背が伸びて、メガネからコンタクトになった瞬間、人生は変わったと真剣に思ったものです。これで女の子と遊びに行ける、と。笑 校庭の隅っこからいつも学校の人気者を羨ましく眺めていた幼き頃のフィリップに自分の小中学校時代の影を重ねているうちに、フィリップも僕も大きくなっていきます。 学校を卒業したフィリップは、自分と同じように聖職者になることを期待する伯父への反発心もあり自らの可能性を探すためにハ

ジャカルタ爆発

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ジャカルタで爆弾テロ 9名死亡 http://www.47news.jp/CN/200907/CN2009071701000256.html とりあえず関係者は皆無事でした。 マリオット、またですか。確かにジャカルタでオフィスを選んだ際に、デベロッパーが繰り返し物件の「防爆」対策の充実を謳ってたのはこういうことかと改めて納得。 K島建設担当者さん曰く、「テロリストが爆弾を積んだ車でゲートに近づいた場合、もちろん警備レベルで発見し確保することが第一ですが、爆発しちゃった場合のことを考えての『防爆』対策をしておかなければなりません。」とのこと。 確かに、『防爆壁』という名の立派な壁がエントランス正面にありました。 『防爆』とは聞き慣れない言葉ですが、どういうことかというとこういうことだそうです。 向かって左手の駐車スペース手前がよくあるガラス張りのエントランス、壁の向こう側に外の道路からつながっているゲートがあり、入場する車両はここで一端止められて爆発物検査を受けます。壁はこちら側から見ると低く見えますが盛り土をして高くしたところを基礎にして駐車場を作ってあるので、あちら側から見ると高さ3mくらいの巨壁に見えます。なので猛スピードで突進されたら別ですが、大抵はセキュリティで停車させられた時に爆発するため、この壁があればエントランスをある程度守れる、ということになるようです。 また1Fエントランスの側壁面は特殊強化ガラス+ガラスが割れたときの飛散を防ぐフィルム加工を施したもので、万が一爆風でガラスが割れても細かく砕けて飛び散らないよう工夫がされているとのこと。 皮肉な話ですが、テロの脅威がセキュリティビジネスを潤わせるんですね。2003年のマリオット以来大きな事件がなかったので、最近のセキュリティチェックはほぼないようなものだったのがまた厳しくなるんでしょう。うっとうしいけど仕方ない。

『吉田茂』と白洲家の人びと 後編

白洲次郎は家に入るなり言う。 『吉田のオヤジと同じ名前の人はあんたですか。』 次郎がオヤジと呼んだ時の宰相吉田茂とバラックの吉田茂は確かに同姓同名。 この時、バラックの茂は大正9年(1920年)生まれの30歳。首相の茂は明治11年(1878年)生まれだからもうとっくに70歳を超えていて年の差は親子以上に離れている。次郎もバラックの茂よりは18歳年長であるから、彼の頓着しない性格を割り引いたとしてもこの物言いは致し方ない。 同姓同名を確認したすぐあとの次郎の言葉はこうである。 『うちにきて椅子張りやってくれないかな。職人が見つからなくて困ってるんだ。』 椅子張りの職人なんてそこらに他にもいるだろうし、なんでわざわざおれのところに。茂は訝しむ。次郎は、なんでも知り合いに聞いたらオヤジの茂と同じ名前の「椅子張り職人」が芝にいるから、というので飛んできたらしい。 茂は困る。復員したての状況で田舎に帰るわけにもいかず、さりとて妻と幼子を抱えて食っていくためにはなにか仕事をしなければならない。戦前にいた講談社からは戻ってこいと言われたけれど、なぜかもうあそこで仕事はしたくない。戦争なんてなければ、おれはフランスに行って絵描きになりたかったのに。活字の校正で月日を終えるのはどうにも辛抱ができない。それじゃあと見渡してみたところ、進駐軍の将校官舎や復興しつつある役所や学校の内装やら椅子張りの仕事が目にとまる。やったことはないけれど手先はそこそこ器用だし、手近な道具で始められるし。好きなわけではないけれどひとつやってみようか。そんな動機で始めた「椅子張り職人」だから全く心許ない。でも手間賃ははずんでくれるかな。はてさてどうしたものか。 逡巡する茂の心の内を知ってか知らずか、次郎は続けざまに都合をまとめようとする。 『道具と体一つで来てくれればいいから。いつなら来られる。場所は鶴川だ。』 仕事場はどうやら鶴川にある白洲家、「武相荘」である。 茂は腹を決めて次郎に言った。それじゃ来週末の休みに伺います。土曜の昼過ぎで良いですか、と。 それから幾度となく茂は鶴川の白洲家に行って、ソファを修理したり、椅子を張り直したり、そんな仕事をしている。茂は回顧する。おれが鶴川に行って仕事をしていると、正子さんがいていつも親切にしてくれた。普段の仕事の合間にやっていたからどうしても休みの日に行くことが多

マクナマラ死去

後編を書く前に・・・ ロバート・マクナマラ死去。 http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20090706NT002Y77006072009.html 映画「フォッグ・オブ・ウォー Fog of War」のロングインタビューが強烈でした。 http://www.sonypictures.jp/movies/fogofwar/site/

『吉田茂』と白洲家の人びと

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吉田茂と白洲次郎の関係は広く世に知られているところである。 戦後の占領期から独立期にかけての日本史は、この二人の業績なしには語れない。 昭和26年。サンフランシスコ講和条約が署名され、戦後の日本が主権国家として再び国際社会に復帰しようとしていた年。 東京は芝増上寺の門前。今でいう東京メトロ大江戸線大門駅から増上寺の山門に向かうあたりの路地裏は、大空襲で一面焼け野原であった。戦後、戦地から復員してきた人々や、家を焼け出された人々がバラックと呼ばれるトタンで作った仮の住まいを建てて暮らす景色が広がっていた。 バラック街の一角に、台湾から復員してきた一人の男が妻と生まれたばかりの長女と暮らしていた。陸軍下士官であった男は、満州と朝鮮の国境付近、現在の中国吉林省延吉市から北朝鮮国境にほど近いところに駐営していたが、戦局の悪化に伴い台湾へ配転されていたために、ソ連の参戦による被害や戦後の抑留を受けることはなかった。男の所属していた部隊は「長男部隊」と呼ばれ、内地では各家を相続する「嗣子」ばかりを集めていたため、危険な前線に配置されることなく終戦を迎えたのである。復員後に故郷の幼なじみであった妻と結婚したが、徴兵前から東京に暮らしていたこともあって故郷には戻らず、芝の地に落ち着いていた。 ある夏の暑い日。男のバラックの前に、一台の見慣れない車が止まる。ひどく磨き込まれて黒光りのする高級車である。運転手は車から降りると、男のバラックの引き戸を開けてこう告げる。 『白洲が参りました。』 運転手が家の主の所在を確認したのであろう、視線で合図を受けて車中の人物はゆったりと車から降りてバラックに入る。 『初めまして、白洲次郎です。』 薄暗い屋内で主は勤しんでいた仕事の手を止めて、吹き出す汗を拭いながら小さく会釈をする。 男の名は『吉田茂』。 <続く>

久しぶりに

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草津へ足を延ばしました。 湯畑の足湯でほっこり。

結婚式

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なんとか無事に終わりました。

留め置かまし大和魂

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頭が痛くなる山積みの本たちと格闘する合間に、少し心を休めたり切り替えたりするための文庫を数冊買いました。そのうちの一冊。吉田松陰については幕末マニアの朋友たちと飲むたびに激論になる中で気になる人物のひとり。 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂 彼が亡くなる前日に書いた松下村塾の門下生に宛てた遺書「留魂録」の冒頭にある句です。 『人の人生とは時間的な長さに関わらず、変わらず四季があるように意味深いものだ。長く生きて世に報いる人もいれば早く死んで後に周囲に影響を残す人もいる。人の生き死にとは、それだけのものだ。」という松陰の死生観がよく顕れているそうです。 でも、どちらかというと「永訣書」という家族に宛てた遺書の中にある次の句の方が、若干30歳、「同級生」の青年らしくて、無性に心に沁みるのです。と同時に、同じ30歳として俺はなにが出来ているんだろう、と忸怩たる思いになるわけです。 親思ふ 心にまさる親ごころ けふの音づれなんときくらん 自らの死を目の前にして超越した死生観を示した松陰と、自らの死を知らされる親の気持ちは如何ばかりか、と悲痛なほどの想いを抱く松陰が同じ一人の人間であることに、とても強い感銘を受けるのです。 別に同じ吉田姓だからってわけじゃないけれど、他にも人間味があって熱くて、時にアホじゃないかと思うくらい突っ走って星になった志士は大勢いるんだけど、でもこの人はなんだかインテリジェンスのかたまりだったくせに、、、、と気になる人なのです。 よく、幕末は傑物が多く出た時代、といわれます。松陰然り、橋本佐内、河井継之助、もちろん明治に入っても活躍する人たちが大勢いるわけです。で、それに比べると今の時代は・・・と論調は続くのですが、果たしてそうだろうか、と思ったりします。 維新の時代は、「幕藩体制」の小国に分かれていた日本をひとつの新しい体制に統合していく過程の中、新しい日本という「ひとつの価値観」を追求する中でクローズアップされそれを成し遂げた人物がいま「偉人」とみなされているのだと思います。翻って現代社会は、いちどひとつの新しい体制になった日本が戦争と戦後の復興を経て、少しずつまた「多様化」「細分化」しつつある時代なのかなと思います。これは価値観の多様化ともいえるし、地方分権化の圧力(必要性を問う圧力)ともとれるし、はたまた「国際化」「グロ

額縁

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先日、名所である鎌倉を敢えて外して、神奈川某所に紫陽花見物に行きました。 ふつう紫陽花というと、モコモコしたシルエットが印象的です。 しかしこの品種は額縁紫陽花というものらしく、小さな花の周りに額縁よろしく大きな花弁が包み込むような形をしています。 男30。 花もいいもんだなぁと思える歳になったということでしょうか。

新渡戸国際塾

国際文化会館(アイハウス)が主催する「次世代の『国際的』リーダー」を育成することを目的とした私塾。 2008年の9月から翌2月までの約半年間、お世話になっていました。 http://www.i-house.or.jp/jp/ProgramActivities/nitobejuku/index.htm 僕たちは第一期。当時は塾の名前も「新渡戸塾」。 旧五千円札のおじさん「新渡戸稲造」の生きかたをひとつの象徴として、私たちひとりひとりが今この時間を生きていくことの意味と意義を考える。そんなとても有意義な時間を全部で15人の同期生と一緒に過ごしました。パブリック、プライベートそれぞれのセクターでみんなプロフェッショナルとして活躍している人たち、その中でも自分は若い方から数えて何番目というポジションなので、良い意味で言いたいことを言いたいように言わせてもらって先輩方に辛抱強く聞いてもらって、甘えさせてもらったなーという感想が実はけっこう大きい。 つい先日第二期の募集・選考が終わりました、と事務局の方からご連絡があったのとほぼ同時に、アイハウスの降籏常務理事から一期生にやってほしいことがある、という話を耳にしました。以前から忘年会やら懇親会やらの席上で「一期が終わって来年は君達に何かやってもらいたい」と抽象的なことをおっしゃっていたのを度々拝聴していたのですが、この方いい意味でとてもお考えが深いというか言い方を変えると何を考えていらっしゃるのかいまひとつつかめない類の方だとそのときは思っていたので、敢えて深く聞かないようにしていたというのが本音でしたが、こういうことでした。 「アイハウスが主催するシンポジウムの企画から運営までを一期生に全部任せたい」 一瞬、正気か?と思いました。と同時に「おっさん、やっぱやるな。スゴイ人だ」とも。そう言われて意気に感じてひと肌もふた肌も脱いじゃう人たちの集合体なんです、新渡戸塾一期って。笑 みんなそれぞれの職場ですごく大きな責任を持ってる人たちばかりで、特に「トニセン」層の人たちはある意味でミドルマネジメントど真ん中のアラフォー世代。超多忙なはずですが、脱いじゃう。それで、きっとすごいものが出来ちゃう。 降籏さんはきっとそれをちゃんと見ていて。 だからスゴイ人だなと。 あ、彼のことを書くのがメインテーマじゃなくて、それで僕たちがゼロからシンポ

ジャケ買い

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しちゃいました。 我が家には、今か今かと読まれるのを待っている本が、待機児童のようにあふれてます。何年か前に自作した木製シェルフはすでに過積載。バングラの人足トラック状態。 そんなわけでIKEAに行くといつも本棚を物色しようとするのですが、嫁さんが目下ワードローブにしか関心を示さず。よってあの本たちの収容はしばらく先の未来になりそうです。 許せ、民たちよ。 さてすでに読んだ方、もしくはサミュエルズの他の本を読んでこういう話だよっていう方、しばらく僕と話さないで下さい。笑

JKSK

18:33海浜幕張発の快速に飛び乗っても新宿に着くのは19:40。 田舎勤務を憂いながら駆け付けたのはJKSK月例会@クリナップ西新宿 ショールームです。 http://www.jksk.jp/j/jksk-report/index.html JKSK(女子教育奨励会)とは、古くは明治の企業家渋沢栄一らが中心 となって「女性の社会参加と国際化」を目指して官民一体となって 設立したものが平成の世にリバイバルしたものだそうです。 主宰者(理事長)はこの方、木全ミツさん。労働省の幹部を務めて 国連公使に。退官後はボディショップジャパンの社長をなさった方。 http://www.jpf.go.jp/jfsc/topics/fr-0606-0075.html 国際文化会館で昨年行った「新渡戸塾」という「次世代のグローバル リーダーを育てる」ことを目的にした私塾に参加させて頂いた時の ご縁でご紹介頂き、先月からお邪魔しています。 新渡戸塾については、たぶん来週くらいに別途書きます。 JKSKの月例会は、理事長である木全ミツさんの手料理で始まります。 毎回招聘して貴重なお話をしてくださる講師のイメージに合わせて? メニューが変わるそう。今回はけっこうピリ辛のものが多かった気が します。といっても2回しか出ていないのですが、今日の講師は確かに ピリ辛だったかも・・・。 講師の西田陽光さんは、東京財団の加藤秀樹さんが主宰する「構想 日本」という政策集団の広報責任者を務めていらっしゃる方。 西田さんのブログはコチラ。 http://blog.livedoor.jp/yohkoh2/ お話の主題は、財政難のわが国において、公共部門にかかる税金と その使途となる事業を見直し、無駄をなくすために構想日本が 自治体や省庁、政党へ働きかけて、「事業仕分け」と呼ばれるプロ ジェクトを行っている、その活動内容を紹介する、というものでした。 ポイントは以下の通り。 ①国・地方に関わらず、行われている事業が公費投入するべきもの なのかどうかを、当事者である自治体・省庁・政党とその事業を分析 出来る実務者・専門家、そして広く一般に開かれた形で点検し クラリファイしていく。 ②予算規模の大きな事業かつ効率性、事業の必要性等を勘案して疑問 がある事業を精査した上で「事業仕分け」を行う。公費支出に値せず と判断

おっちゃん大活躍。

『西村ERIA事務総長 大いに語る』(2009.06.12 ジャカルタ) http://www.jiji.com/jc/zc?key=%EF%BF%BD%C2%BC&k=200906/2009061200632 さて、そろそろ「在日本秘書」の肩書きを返上させて頂けそうです かね。西村さん。

地図の力

子供のころから地図が大好きで、地球儀と世界地図は穴が開いてる。 天気予報とか飛行機の運航状況、最近だとグーグルアース。 「日本列島」の形をあらわす線が青い海の上に引かれた地図を みると、僕たちは「これが自分たちの国の形だ」と自然に思う。 地図って偉大だ。人間は自分の力では空を飛べない。空から陸地の 形を眺めなくても、「測量」という技術によって紙の上に起して その形を「見る」ことができる。 でも、地理的な陸地の形を紙の上に起したものをただ「見る」のと その形を「自分たちの国だ」と認識することには大きな違いがある。 先日、スティーブと酒を飲んだときに、いつもと同じく「日本人は」 とか「日本は」という話になってエキサイトした。スティーブは インドネシアにもオリジンがあるけれど、誰よりも日本人であることに 誇りを持っていると同時に、この国の在り方に憤っている人の一人。 それはとても立派なことで僕にも共感できる部分がすごくある。 (面と向かって言わなくてごめんね) そんなときにいつも僕が考えるのは、「なぜ僕たちは自分たちを 日本人だと思うのか」「なぜここを『日本』だと認識するのか」 そして「なぜあの島の形を見て『日本列島=我々の国』だと思う のか」というような命題。 立ち戻るのはベネディクト・アンダーソンであり、白石隆なのだが 勉強が足りていないので、本を二度読み三度読みするはめになる。 日本の文脈とはまた異なるけれど、東南アジアの「国々」が長い 歴史を経てどうやっていまの「国」「国家」となってきたのか、 ということが大きな視点から分析されている。その上で、いまの 状況を鑑みて、我々が何をなすべきなのかも。 国を愛することや、世界を憂うことはとても大事なことだし、 その熱い気持ちがなければ世の中は決してよくならないと思う。 でも時に矮小なナショナリズムや、あまりに過酷な現実がもたらす恐怖 を克服しようとするための攻撃性が現れそうになったときに、 ふっと息を吐いて、全ての成り立ち」に思いを立ち戻らせるとどうなる のだろうかと考える。 きっと、この試みはすでに数多の先達が挑んで倒れてきているはずで そういう意味ではひょっとしてまだ脆弱なのかもしれないが、歴史を 踏まえた、省みた分析と研究が積み重なり、それを眺めて何かを思う 人の数が徐々に増えて「そういうものの考え方もあるよね」と

ちょっと振り返ると

ここ1ヶ月ほど電車の中やら街角やらで就活中の学生さんやこの春入社の 新人さんをよく見ます。 一度などは公用車で新橋から霞ヶ関に向かう途中、みずほ銀行のビルからゾロ ゾロと出てくるおそろいリクルートの女の子、たぶん1,000人はいたと思う、 の行列を見てちと辟易したものです。 みんな同じに見える。 そのとき隣に乗ってた大ボス(役員)がこうのたまったわけです。 大ボス「君は我が社にきて何年だっけ?」 僕「丸4年半が過ぎました。」 そうか、もう4年半もこの会社にいるのね。ということでそれ以来、 新卒から転職を経て今に至る自分史をふつふつと思い返すようになった わけです。 僕の新卒就活は、今思えば実にいい加減でした。ほんとは 大学院に進んで勉強したかったのだけど、経済的な事情、社会人もいい かなとかいう完全ミーハー根性等々が混ざり合って、ほんと適当に始めた 就職活動。 これといって業界研究なり企業分析なり全くせず、いわんや自己分析なんて 全くゼロ。とりあえずリクナビで有名そうな会社を選んでちょこっとエントリー、 とかそんな感じだったなぁ。 自己分析、というよりは自己暗示?自己設定?自分の守備範囲はこれよ、 というものを論理的にしゃべれるようにロジックばかりを積み上げていた気が とてもします。 小賢しい小僧でした。 バーのバイトでオトナとコミュニケーションをもつノウハウをぎっしり 詰め込んでたから、ある意味天狗になってたのかもしれない。でも根っこの ところで「世のため、人のため、そして世界のために」という、いまに通ずる 部分は持っていたのだと思います。それはまさに当時院に行って勉強したかった ことだし、それはいまもこれからも突き詰めたいことだし。 縁あって気に入ってもらって内定した旅行会社にそのまま就職。 今思えば 給料は安いし労働時間ハンパなく長いしガシガシ数字を求められるし大変な 環境だった。同時多発テロ、SARS、イラク戦争と入社から3年間完全逆風 だったし。 でも人間関係はすばらしかったなぁ。2年目から仕えた課長は、いまでも 最高の上司だったと思えるし。 天狗の鼻をしっかり折ってもらって、 その上で伸ばす方法を学んだのはこの会社のおかげかもしれない。 でも自分の根っこのところが、どうしても末端の企業活動で犠牲になるのが ガマンできなくて、今の会社に転職。結果的には天下