サマセット・モーム

大森貝塚を発見した人。
は、ウィリアム・モース。じゃなくて、、、

サマセット・モームの「人間の絆」という本を読んでいます。ゲルナーの「民族とナショナリズム」そしてスミスの「ネイションとソサエティ」というナショナリズム研究の大御所2連発の合間を縫って心を休めるために読み始めました。実に10年ぶりくらいの邂逅です。モームの本は学生時代の英文学の講義でさんざん原文を読まされていたのですが、当時の僕は「くっちゃべる英語」は好きだけど「勉強として読む英語」はどうしても好きになれなかったのです。「勉強」として読むなら断然原文だけど、はっきり言って娯楽として読むのに英語は、元来ドメドメなニッポンジンにとっては正直つらいので翻訳を用意。映画だって字幕ダイスキ。だから語学が上達しない?そう、その通りです。

モームは読みやすい平易な文体と読み手をぐぃーっと引き込んで離さない絶妙なストーリーテリングで有名な作家です。日本の作家でいえば誰だろう。浅田次郎かな。そんな彼が自身の半生を振り返った自叙伝とでもいうべき作品がこの「人間の絆」。

主人公フィリップは生まれつき内半足(足のつま先が大きく内側に曲がって外に曲げられない身体障害)の障害を持ちコンプレックスを抱えています。他人からの視線を常に気にしてびくびく生きる少年の姿。加えて両親をなくしイギリスの片田舎に牧師として暮らす伯父夫婦に引き取られた彼は、孤独感の中で少年時代を過ごします。誰でも多かれ少なかれ物心ついたときから持ち続ける自己と他者との関係におけるコンプレックスの象徴的な姿をフィリップは体現しています。僕の場合は、成長の遅れから背が小さかったこと、そして極度の近視からメガネをかけていたことがコンプレックスだったかな。他人から言わせれば取るに足らない、何をそんなに気にするの?っていうことが気になってしょうがないのがコンプレックス。だから高校生になって背が伸びて、メガネからコンタクトになった瞬間、人生は変わったと真剣に思ったものです。これで女の子と遊びに行ける、と。笑 校庭の隅っこからいつも学校の人気者を羨ましく眺めていた幼き頃のフィリップに自分の小中学校時代の影を重ねているうちに、フィリップも僕も大きくなっていきます。

学校を卒業したフィリップは、自分と同じように聖職者になることを期待する伯父への反発心もあり自らの可能性を探すためにハイデルベルクとパリで遊学を経験してイギリスに戻ります。冷徹な伯父の傍らでいつも影ながら見守ってくれていた優しい伯母が亡くなったからです。海外との接触、様々な階層の人間との邂逅に加え、彼は哲学に触れます。

「大切なのは、自分がどういう人間なのかを発見することであり、それができれば自分なりの哲学体系はみずから考え出せるのだ。発見すべきことは、具体的には(中略)自分と自分の住む世界との関係、自分と周囲の人たちとの関係、そして自分と自分自身との関係-この三つである。」

突き詰めたところ、この三つというのは確かになるほどその通りかもしれない、とまたまたフィリップに共感します。



一方でモームは作中で、クロンショーというパリで厭世的に生きる英国老人の口から「ペルシャ絨毯の比喩」を通じて彼独特の人生観を語ります。

「人間の人生とはペルシャ絨毯のようなものである。一見絢爛豪華な文様が見て取れるが、個々の人間はその縦糸一本一本である。人間が人生を生きるそのこと自体には意味がなく、ただ自分なりの文様を織り上げるように横糸である他者との出会いを経ながら生きていくだけなのだ。そしてその織り上がった文様を自分で眺めて充足すればそれでいいのである。」

ここにはふたつの含意があると思います。ひとつはフィリップが生きる人生は単なる一本の縦糸に過ぎず、その糸が数千、数万と集まり絡み合い(文様を作り出すある種意図的な作用を以って)ひとつの大きな文様を描いていく過程と結果が人生であり、積み重なって社会ひいては世界を形作っている、ということ。ここからモームは社会と個人との関係を次のようにあらわします。「社会は法と良心(倫理)と世論とをもって個人に対峙する。これに対して弱者たる個人は策略をもって対峙する。人間個人は元来、法と良心と世論に反する『罪』を認識しない。社会が人間個人に対峙する過程でこれを与え個人を律しようとするのである。これに個人は表向き従順に、だが従順ならざるように巧く立ち回って巧妙に生き延びようとする。これが『策略』である。」ふたつめの意味はここから派生します。「もしも人間個人の本質として『倫理』や『良心』がないのだとしたら、なぜ人間は生まれてきて、なぜ世界はあるのか。」この問いにフィリップは答えが見出せません。

確かに人間個人が「ひとりきり」であった場合、「倫理」や「良心」といったものの必要性を認識することはあり得ないのかもしれません。他者との関係の中においてのみ存在が認められるものであるし、一方で現実社会の中では存在を認めざるを得ないものであることも確かです。しかしそれでは人間は『倫理』や『良心』を持ちみずからとその生きる社会を充足させるために生まれてきたのか、と問われるとフィリップ同様答えに窮するわけです。

さて青年になったフィリップはパリで絵描きになることを断念し、ロンドンで医学校に通い始めます。亡くなった彼の父親も医者だったので、自立した生活を送るための職業として医者を選ぼうとするのです。
フィリップ青年は果たして、人間が生きる意味と人生の終着点を見出すことができるのか。

大部全3巻におよぶ本作は、いまだ中巻の途中です。願わくば読了までにフィリップが得るであろうペルシャ絨毯に描かれた文様の意味を探るのと同じヒントを僕も感じることができますように。等身大の共感を得ることで爆発的な人気を誇る村上春樹作品ですが、僕はサマセット・モームにも彼に勝るとも劣らない強烈なシンパシーを感じているのです。個人的には村上春樹以上、です。

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