追憶の彼方の国境警備と運命の分かれ道

8月18日。終戦の日を少し過ぎた平日に田舎に帰りました。

妹の誕生日、という建前で爺さんが両親の家に来ることになり。
爺さんとは前にも紹介した、白洲次郎の家のソファを作ったあの爺さんです。
ド平日だしちょっと無理かもと最初は思って、行く、行かないの答えを渋っていたのですが爺さんから「戦中の満ソ国境の地図をもってきてくれ」というリクエスト。

僕の会社は旧満鉄調査部を前身とする研究機関で、図書館にはそんな資料がどっさりと眠っています。古い資料はダメージドとして閉架されていますが、地図や統計などは復刻版が出ているものもあり、開架で持ち出しも出来るのです。(職員に限り)

ありました。「満州文省地図~地名総覧」(昭和17年刊)

全旧満州帝国の省別地名索引と在現地官庁、企業名リストがついたオールカラーの地図帳。一体誰がこんなものを見るのよ、と思いますがちゃんと需要(?)があるのですね。


さて、軒下の縁台に腰を下ろしておもむろに地図帳(厚さは辞書並です・・・)を開いた爺さん。

「ここだ、間島省。」

今の中国にそんな省は存在しません。「満州国間島省」。現在の吉林省、中朝国境に程近く、延吉という都市が省都だったようです。今日偶然にも同僚が辞令を持って現れて、これからその延吉に赴くとのこと。つくづく面白い会社です。

昭和16年1月。徴兵検査を甲種合格した爺さんは、宇都宮の連隊本部に入営。そのまま新潟へ移動、船に乗せられ釜山経由で現在中朝国境に近い北朝鮮領にある慶源というところに一旦駐屯したそうです。部隊編制の完了を待って陸軍第71師団第87連隊配属となり、中朝国境を越えて現在の中国領、当時満州国間島省、現在の吉林省琿春に置かれた連隊本部勤務となりました。

念のため「帝国陸軍編制総覧」や「日本陸海軍総合辞典」という、これも辞書並の書物にあるデータで確認してみましたが、史実の記録に実に正確に記憶しているようです。寸分たがわぬ記憶で自分の足跡をすべて覚えているのです。


爺さんの所属していた大隊は、国境警備の名目で琿春の連隊本部から東へ約40キロ、満ソ国境から約15キロ程のところにある土門子というところへ前進配備されます。爺さんは大隊砲(歩兵砲=可動式の小型砲)の射手だったので、砲や弾薬を運ぶ軍役馬の飼育も任務のひとつだったそうです。曲射(放物線を描くように発射すること。迫撃砲と同様の運用)をすると弾速が遅いので歩いて逃げられるというようなシロモノで、発射地点が分かってしまう平地の多い満州ではあまり役に立たなかったようです。

担う国境線は南北数百キロにおよび、一個大隊(600名程度 四個中隊 一個中隊は130~140名)が守れるものではとてもないと思うのですが、どうしていたのかを聞いたところ、

「10キロから20キロおきに丘陵線に沿って小隊をひとつずつ配置して、双眼鏡で東の方を覗くんだ。そうすると晴れた日にはウラジオストックの港を出入りするソ連の船が見えるんだよ。」

昭和16年から17年ごろの満州東部の状況が良くわかる表現だと思います。10~20キロおきに監視のための小隊をぽつんぽつんと置いているのみ。実にのんびりしたものです。一個小隊は多くても40名程度の戦力ですし、部隊間の距離は長いところは20キロも離れているわけですから、本気で越境してこようとする相手をその防衛線で食い止めようという意図からの配備ではまるでないことは確かです。なんでそんな意味のなさそうなことをしていたのと聞いてみたら、

「その当時、自分の行動はどんな意味があるのか、なんてことは考えないようにしていた。考え出したら軍隊は軍隊じゃなくなるからね。ただ言えることは、当時はソ連が攻めてくると本気で考えていた人間は誰もいなかった。訓練はしていたけどね。」



それでも昭和19年に入ると戦局の悪化から、前線部隊の現場指揮官である尉官の戦死率が上がるにつれて、下士官の補充が急務になりました。「志願にあらざる下士官」つまり強制的に下士官を登用すべく、兵の中でも古参であった爺さんは下士官候補生として旅順の下士官学校へお勉強をしに行かされます。間島省から旅順までは軍用列車で丸4日。すべて行動記録が日付入りでメモに残されています。本当はIDカードとでも言うべき軍隊手帳というものがひとりひとりに支給され、配転属や昇進、傷病といった軍隊での経歴を記録するそうなのですが、爺さんたちは誰一人支給されずみな自前でメモをつけていたということ。意外といい加減です。機密漏えいを恐れて個人の日記やメモの類を禁じたという話を聞いたことがありますが、それとこれとは大違い。

晴れて陸軍伍長(最終階級は軍曹)になった爺さんは、原隊復帰を命じられ琿春へ戻るはずでしたが、琿春配備の連隊は、南方転属された部隊の玉突きで黒龍江省の佳木斯(ジャムス)に配転されていました。元来た道を帰ればいいと思っていた爺さんは慌てます。まるで知らない、行ったこともないところまで一人で帰らなければならない・・・再び軍用列車に乗り込んで丸4日。ジャムスで連隊に復帰しました。
当時の軍用列車は、民用列車のダイヤの合間を走るので、余計に時間が掛かったとか。個人での乗車は座席付の客車に乗れますが、部隊運用のときは下士官以下兵はすべて貨物列車に詰め込まれるとのこと。東北部の厳冬期にこれに乗ると、外気の寒さと車両の中のすし詰めの体温の差で、鉄の車両壁に大量結露が発生してとても不快であったと。そんなこと、、、だからこそ良く覚えているのかもしれません。

昭和20年1月。ジャムスの連隊は、「雅号演習」(南方防衛のための航空隊転属作戦)の名目で台湾へ転属されます。歩兵ですが、航空作戦。つまり穴を掘って陣地をつくり、滑走路を守る要員というわけです。「絶対国防圏」死守のために、台湾南部の防衛線を構築するためということでした。しかし元々はジャムスで入れ替わった前任部隊である第10師団が台湾防衛に赴くはずだったところ、ゲリラ掃討などの実戦経験を買われて急遽よりプライオリティが高いと判断されたフィリピン・ルソン島へ転属されたために、爺さんのいた第71師団はまるで実戦経験なく、満州東部でひたすら「寝ていた」ので少し後ろの台湾に落ち着いた、というわけです。しかし米軍は台湾には見向きもせずに沖縄に殺到するのですから、ここがまさに運命の分かれ道・・・。ちなみに例えば同じころにハルビンにあった第24師団などは沖縄戦に投入されていることからも、部隊運用が少し違っていたらひょっとして僕はこの世に生を受けなかったかもしれない、と歴史の機微を感じるのです。


終戦から復員までは手持ちの食糧以外に一切の補給がなく大変だったそうですが、長期の抑留や迫害もなく昭和21年に広島の大竹港に復員した爺さん。そこから郷里の群馬へ戻る道程でおそらく見たであろう、原爆投下からまだ日が浅いヒロシマの情景もきっとその目に焼き付けているのでしょう。多くは語りませんが。


お酒が進むについて歴史はさかのぼり、兵隊に行く前に働いていた講談社時代の思い出がまたポロリポロリと出てきます。昭和11年(1936年)二・二六事件の戒厳令下、都心を自転車で普通に走って日常業務をしていたこととか、昭和13年(1938年)にヒトラーユーゲントが来日したときに横浜港までトラックで迎えに行ったこととか、この変哲もない爺さん一人をとってもまさに歴史の生き証人。そんな爺さんばあさんに語ってもらうことで私たちが得られるものはまだまだ山のようにあるんじゃないかと思うわけです。教科書に載っている出来事が起こったその場所にも多くの人が息をして生きて物事を見ていた、ということ。まぁ、当たり前といえば当たり前なのですが、、、

戒厳令の自転車とヒトラーユーゲントの話はまた別の機会に書きます。

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