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今日の三人目

ジャカルタから帰国する直行便は夜しかないので、毎回夕方に市内を出て空港に向かいます。 ラッシュアワーは渋滞がひどいのでいつもかなり早めに出ます。前回は南ジャカルタのクニンガンというところで晩飯を食べてから空港に向かうというアレンジにしたのですが、少々調子に乗りすぎ10時前のフライトに対して7時30分に出発したら到着が9時半近くになりけっこうしびれたので今日は6時にはオフィスを出ました。 ジャカルタ中心部の幹線道路には、朝晩の通勤時間帯に「3 in 1」という規制があります。文字通り1台の車に3人以上乗ってないと違反でとっ捕まえるよ、という意味です。タクシーは例外です。 道端に人差し指を伸ばして手を挙げた老若男女(老男はあまりいません。子供と子連れの女性が多い)が立っていて運転手だけ、もしくは運転手を含めて二人しか乗っていない車に乗って規制をクリアさせてあげる代わりに小銭を稼ぐのです。 ご多分にもれずこちらの会社の社用車だったので運転手と僕しかおらず、今日も「三人目」を乗せました。今日の三人目は小学生くらいの男の子でした。運転手は規制のある幹線道路を走って高速道路の料金所で彼を下ろしました。 運転手が彼に渡した小銭は日本円で数十円程度でしょうか。見ず知らずの人間の車に乗って、規制の途切れる郊外まで連れて行かれ、帰り道は運よく戻る車に乗せられれば良し、運が悪ければひたすら歩いて帰るのです。 激しい渋滞の原因は都市計画上、道路網の設計がひどくまずいところに想定以上の車が流れ込むからです。すべての道路が一箇所のロータリーに集まる、右左折が簡単にできずUターンをしないと逆側にいけない、などなどで頻繁に合流が発生しそのせいで渋滞します。 この合流ポイントには、にわか交通整理係が登場します。交差地点に立って直進の車を止めて、合流の車を列に流し込み、車窓から渡されるこれまた小銭を稼ぎます。やはり一台につき日本円で数十円です。数円かもしれない。 今日は土砂降りの雨でした。同乗する車を人差し指を掲げて待つ人たちも、クラクションが鳴り響く合流をさばく男たちも、ぬれねずみになりながら小銭を稼ぎます。

「鎖国の始まりと終わり」 

昨夜は某私大の副学長と某メガバンクの元役員の方と会食をしました。 新卒のころから面倒を見ていた後輩の人脈です。若いのに立派な人間です。別に僕が育てたわけではないのですが、、、 インフォーマルかつ気軽な懇親会ということで、とてもリーズナブルで感じのいいお店でした。 tete a tete http://homepage2.nifty.com/tete-a-tete/index.html 副学長はタイの歴史がご専門、会食には僕のラオス人の同僚も同席していたので、話題は意識せずとも東南アジアに関する話が中心になりました。ラオスの観光振興の話からカンボジアとの対比、アンコールワットを遺したクメール王朝とタイのアユタヤ王朝の話へと移りました。 そこから日本と東南アジアの関係へと発展しまして、話の主役は山田長政に。彼に代表される近世に生きた日本人には進取の気質があり、彼らの多くが「浪人」(傭兵)と「貿易商」という組み合わせであり、当時同様に東南アジアに進出していたポルトガル人と同じ構造であったそうです。 日本人町では、日本人と混血した末裔が暮らしていたことから、おそらく人びとの顔立ちは「日本人」ではなかったでしょうし、言語もだんだんと現地化していたかもしれませんが、しかし衣服だけは日本の服装を守っていた、と。興味深い点です。 江戸幕府が鎖国政策を導入した動機としては各諸侯(藩)が独断で対外交易をして幕府に対応し得る財政を築くことを抑止するために、一般の日本人の対外渡航を禁じオランダ・中国・朝鮮・アイヌに限って所定の藩を経由して交易を行う管理貿易体制を敷くことで幕府の統治体制を安定化させることなどにあったそうですが、鎖国体制を持続するためには、国内で自給自足の食糧生産が確保され、諸産業が完結し経済が自立していることが前提になるため、以後200年以上続いたことからもこの前提は達成されていたのではないか、とも。「内向き」でもやっていける状況だったということでしょうか。なんとなく今の日本に雰囲気が似ているかも。別に鎖国をしているわけではないですし貿易も活発にしているのですが、国内社会の仕組みや少なからず人びとのマインドは「鎖国状態」に近いのではないだろうかと個人的には思います。 昨今、「鎖国」をやめて「開国」し西洋文明に「開化」していく幕末・明治の時代がクローズアップされ人気です。(昨

4回目の田植え

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両親が千葉県はいすみ市榎沢に就農して4年目。 先週の土曜日に4回目の田植えをしました。 一昨年、昨年は荒天で冷たい風と指先を凍えさせる田の水との戦いでしたが、今年は一転して好天に恵まれて田の水も温み、まるでさながら温水プールの中でホット泥パックをしながら田植えをしている気分でした。 緑のあぜ道に縁取られた田んぼは冬の間湛水されていたため保温され生き物が逃げず滋養たっぷり。カエル(全長30㎝もあるウシガエルを筆頭に・・・)ザリガニ、ドジョウ、ヒル、アメンボ、、、名前も分からない大小様々な両生類や昆虫たち。抜けるような青空とのコントラストが実に気持ちよく、労働の疲れを癒してくれます。 友人を中心に10名近い方々に集まって頂いたおかげで順調に作業は進み、無事に目標としていた田んぼ一枚(25m×40mくらいの広さ)を植え終えることができました。田んぼは全部で5枚あり、我が家だけなら米の自給率は400%を超えます。そのため後述するトラストへの賛同者に還元したり、小ロットながら自主流通する販路を模索しています。 両親のファームでは、完全無農薬で出来る限り自然の理に適った農を実践するための土地保全を目指しています。どうやら田んぼの生き物たちのうち「捕食」をする肉食獣たちは常に田んぼにいるわけではなく、ときどき「山」から出てきて、あるいは空から飛んできて「田んぼレストラン」で食事をするようです。そのため田畑だけではなく後背地である「山」も含めて保全管理したい、そんな土地を求めて移住しました。この山の急斜面から大空に飛び出すように作られた「ブランコ」があります。自然との共存の中に人間らしい楽しみ方を合わせて寄り添っていく生き方です。 先述した「冬期湛水」はその手法のひとつです。ふつうの田んぼは冬場に水を抜いて地肌が露出した状態であるため生き物は田んぼから姿を消すか、地面深く潜ってしまいます。春になって苗を植えるときには田んぼの地表はある程度柔らかくないといけませんので、冬の間にがっちり硬く締まった表土を柔らかくするために鋤起こして撹拌し、水を入れた後に地表を平らにする代掻きという工程を経ます。この工程で機械をいれて土を引っかき回すのでますます生き物が死に、あるいは逃げてしまいます。しかし田んぼに水が張っていることで地表の温度が下がらないため、翌年の春から稲が根を張るであろう深さの地表