投稿

11月, 2021の投稿を表示しています

ある朝、柔らかで心地の良い声を聞いた時のこと

 朝、オフィスに向かおうと家を出ると、目の前の歩道に置いてあるベンチで、なにやらおじさんが音読している。ヘブライ語でもアラビア語でもない(英語でもフランス語でもない)どこかの言葉で何やら書物を音読している。風体からその言葉を想像するのも失礼極まりないのだけれど、おそらくエチオピアのおじさんで、エチオピアの言葉で読んでいるのだろうと思いながら目の前を通り過ぎる。最初は「音読!?」と瞬時にいぶかしんだのだけれど、聞いているとなんとも柔らかな、これでも少しは肌寒くなった砂漠の国の短い秋の朝の優しい日差しの中に響く心地よい声だった。 彼の故郷(だと思う!)エチオピアも揉めに揉めて首都近郊までティグレの人たちが攻めてきているという話。オフィスの同じ階を共有するエチオピア大使館は表向きいたって平穏なのだけれど、先日エルサレムではエチオピア移民の人たちが、故郷に残された家族や親族、友人の類を呼び寄せさせろとデモをぶちかましていたそうな。 オフィスについてGoogleアラートで送られてくるニュースを読む。現地紙のOpEdのひとつに、イスラエルとパレスチナが今後一国二制度のような方向に進んでいくのでは、と評するものが目に留まる。ここのところの状況を眺めながら、西岸やガザでの大変な生活(基本的な生活インフラが足りない、セットラ―が嫌がらせをしに攻めてくる)を今後も続けていくくらいならば、イスラエルの中で一定の自治を認めてもらうような方向を人びと自らが望むようなことになるのだろうか、そういう人は結構いるかもね、といった話を先日パレスチナのおじさんと話したことを思い出した。 でもふと考えを巻き戻す。確かにイスラエルは専制国家ではないし、言論の自由も封殺されていないし、みんな言いたいことを言い合っている国ではある。だから、生活の保障という意味ではその市民になることで得られるものはあるのだろうと思う。でも、私は何者であるというアイデンティティに封をした中で得られる生活の保障を私たちは取り得るのだろうか(それでも生きるためには、子や孫によりよい生活をと思えば取り得るのかもしれない)と考えると、あまりにも安定した、自分たちのアイデンティティと生活の保障が同時にしかも自動的に担保されていることを疑わないマジョリティの心理に漬かりきって世の中を見ている自分に改めて気が付くのである。 民族自決、国民国家