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年末、一年の計などない、いつもの挑戦しない自分のこと

 早いもので今年ももう終いである。個人的には特段新年になにか新しい心がけを、とかそういう趣旨のことをしていないし、形式的に年賀状は書くものの(今年はお返事を書くことくらいしか出来ないかもしれない)、日ごろご無沙汰な人々との近況のアップデートという意味合いが強く、SNSなどで遠く離れた人々と日ごろからバーチャルに緊密であり続ける今日この頃に至っては、年賀状というアナログでリアルだけれど、ある意味ではバーチャルな媒体のその効果効用も別のところに求められるようになっているんじゃなかろうか、と考えたりする。もちろん「節目」というものを人間は大事にするし、連綿と続く月日になにがしかのベンチマーク、あるいはマイルストーンを置いていかないと道に迷う、という心理も多分に理解する。それでも一年に一度、というタイミングだからこそなにかを新たにする、という仰々しさは私の中にはあまりない、ということである。ひとなみの感慨や、年末年始の街に漂う恒例の空気や、そういうものを一切感じない、というわけでももちろんないのであるが、この感覚は如何なるものだろうか。 多くの人が、来年は挑戦の年にする、勝負の年にする、と言ったり書いたりしていて、このことをふと考えた。みなひとそれぞれの挑戦があり、勝負があると思うのだが、それでは私にとってこれは挑戦であった、勝負であった、と言える(自分自身に問うてそう思える)ことはあっただろうか。あったとすればそれはいつだっただろうか。過ぎてしまうとなにげなかったというだけで、実際のところは大きなチャレンジだったといえるのかもしれないが、自分は他人よりも過ぎてしまったことに対する気持ちの薄れが早く大きいのだと自覚していて、あれは挑戦だった、勝負だったということを強く思わないのか。あるいは相対的な比較(が意味がないのはわかっているが)で、他者と比べて強度の低い挑戦や勝負しかしてこなかったのかもしれない。(負ける戦はしないという発想)そのいずれも確からしく、どちらもそうでないかもしれない。どちらの思いも自分の中にあるからである。2004年に新卒で勤めた会社からいま勤める会社に転職したときは挑戦だっただろうか。転職なんていまの世の中当たり前なんだから大したことではないという思いと、異分野のそれも異種のさらに自分にとって高度なものを要求される(と思っていた)ところに行こうとしたの

口の中に小鳥を飼っている人たちの話

この物件に越してきて2ヶ月余り、以来ずっと妙なにおいが充満していたセカンドベッドルームについて、いよいよ家主のスティーブとも相談して調査が入った。 本来であればこの部屋は僕のスタディルームとして使用される予定であったが、窓と扉を閉め切ると「かびのような」それでいて「化学薬品のような」においが充満してしまい、とても室内に留まることができない。窓と扉を開放してしばらく、ものの10分もするとにおいは拡散してそれほどの不快感はなくなるのであるが、これから冬場に向かう季節柄、窓を開けっ放しで勉強をするというのは極めて非現実的である。そこで、調査が入った。 一度下見に来たいつもネクタイに黒いセーターを着ているおじさん(以下、ネクタイ+セーター氏)に加えて、ネルシャツにダウンベストのいかにも職人という風体のひょろりとした痩身長躯のおやじさんが現れた。グレーヘアの散切り頭の下にマイナス仰角に出っ張る額はまるでクリフハンガーのようである。 フリークライマーが必死に取り付いてぶら下がる180度の崖下のように深く窪んだ眼窩奥にぎょろりと光る両の眼。出っ張った額のその高さから垂直に降下して獲物を狙う鷲鼻とその下にぶら下がるクライマー出っ歯。いかにもハリーポッターの魔法学校の先生にいそうな、そんな風貌である。その顔が思いのほか高い声でゲラゲラと笑いながら70%くらい分からないジョークをかましつつ床板をベリベリとはがしたり、壁を叩いたり、やりたい放題である。 彼はジムと呼ばれている。ジムは、ハンマーの使い方を見た感じではほぼ9割の確率で自己流と思われる職人技で、しかしながら的確にあらゆるにおいの元の可能性をつぶしていくのである。おおよそ30分の調査の末、ネクタイ+セーター氏とジムの共通見解が発表された。いわく、給湯と暖房を司るガスボイラーの燃焼排気が一旦室外に出た後になんらかの経路を伝って室内に還流しているにおいなのではないか、ということである。ジムは、燃焼排気が、認識されているにおいと良く似たものであるという。家主のスティーブにボイラーの年齢を尋ねたところ、「最低でも」20年選手であるという。即座に選手交代(現役は引退)が決定された。 ジョークをかましつつも作業が思いのほか長く掛かったのであろう、ネクタイ+セーター氏もジムも閑話休題、といって話すべき本題などどこにもないの

不動産屋、銀行、そしてIKEA(留学渡航編③)

あくる朝、9時30分きっかりに不動産屋へ出向く。泥のように眠り、犬のように目覚めた。寝た気が全くしないのは時差ぼけのせいではない。 不動産屋。出発の前日になっても一向に連絡が来ないため、「到着翌日の朝一番で行くがいいか?」とメールしたところ、「10時15分から別のアポがあるから9時30分に来てくれないと、その後は午後よ?」と、しれっとしたメールが来る。しかも即レスに近い速さで。 不動産屋の担当者はLisaというのですが、まあいい加減です。こういう条項を入れてほしい、というか但し書きでもいいから書いておいて、会社の手続きで必要だから、というようなことを言うとOK!やっときます!!などと言いながら、蓋を開けてみたらば最初のドラフトとなにも変わっていないバージョンが机の上に乗っかって僕の万年筆をかじろうとしている。「あの件、どこにも書いてくれてないよね」というと、「え?この中のどこかに書いてあるんじゃないの?私には分からないけど。」とか平気でのたまう。 「いやいや、あなた、事前に確認したときに追加しておいてね、とお願いして、了解!といったでしょう。それはどうしたんですか?できないならできないって前もって言ってくれないと困るんだけど。」とほとほと嫌になりながらももう一度だけ尋ねる。 ほぼスルー。目の前でスルー。ガン無視。もう厚顔無恥とかそういうのをはるかに通り越してすごいよね、ここまで来ると。 仕方がないので不動産屋は外して後ほど大家と直接話すことに。ここで払う仲介手数料って言うのは何のためのお金なんだろう。それでも日本の相場よりはずっと安いから、やる気でないのも分かるけれども。日本の仲介は本当にぼったくりだなぁ、などと考えているうちに鍵だけは出てきた。 さっそく家に向かう。一度下見に来たときに上った三階の物件。上に行くほどに階段が狭くなるヴィクトリア様式の建物。部屋の中は、まあ当たり前だが、すべてのものがなくなってがらんとしている。窓から差し込む、より正確に表現すれば、素手で殴りこんでくるくらい強烈な日差しだけが、フローリングの床をテカテカと照らしている。 早速当社比1.5倍のトランジットをアパートの前に回して、10個を超える段ボール群を運び上げる。死亡寸前。体を鍛えないと真剣にやばい。これはとても家具は運び上げられないな、と自覚。お金を払って

人生で何番目かに長く濃い一日(留学渡航編②)

旅立ちの朝。 ターミナルへ向かうバスがちょうど出るところだったので、荷物を任せて乗り込む。昨日両親が持ってきた段ボール箱がひとつ追加されているので、事前に運搬されているいまだ出会っていない段ボール群と合わせるとすでに二人の手には余る量の荷物である。これから明らかになることだが、家族連れの赴任に際しては専門業者の引越しサービスを使うことを強くお勧めする。手間と費用をケチって受託荷物の範囲内で持っていこうとしたことを猛省するのである。 さて、バスは三階の出発ターミナルに止まる。僕は、事前に業者に預けた荷物は一階のカウンターまで取りに行かないといけないと思い込んでいた。その全部はとても持ちきれないということがあらかじめわかっていたので、前々日にポーターサービスというものを申し込んでいた。三階ターミナルに入ったとたん、左手の JAL ABC のカウンター横に見慣れたスーツケースと、妻の文字が書かれた例の段ボール群が目に入ってきた。 ポーターサービスは一階から三階まで何も言わなくても荷物を上げておいてくれるサービスのことを言うのか! いとも簡単にチェックインカウンターまで 10 個を超える荷物が運ばれた。マイレージステータスに物を言わせ、グローバルクラブのカウンターをふたつ占領し、グランドホステスを 2 名も従えてのチェックイン作業は 20 分にも及んだが、エクセス 15,000 円で済む。すばらしきかな、日本航空。 一息ついていたところに、羽永太朗氏と奥様、ご子息が見送りに来られる。氏には諸々と本当に感謝である。ランデブーポイントのスターバックスでコーヒーを飲んでお別れする。ラウンジで妻の失業保険給付に必要な書類のコピーなど、ぎりぎりまでなにかに追われながら、 12 時間の空の旅へ。 あっという間にヒースローに着く。入国審査官は被り物をした女性であった。つつがなく審査を終えたと思ったそのとき、思わぬことを口にする。 Confirmation of Acceptance for Study (CAS)  のレターを出せ、と。 CAS レターがないとどうにもならない、入国はできない、などとのたまい始める。は?そんなのいま手元にないよ、預けた荷物に入っているけど。そもそもマニラの大使館の領事部のおたくの同僚に CAS を提出したからビ

いよいよ出国(留学渡航編①)

15 日の出発に向けて、朝はやれ荷物の預け入れや何やらで忙しいだろうからと、空港前泊を選んだ。よって今夜は成田に泊まる。成田前泊はJTB新人時代の見送り以来か。あのときはエアポートホテルだった。今回は日航成田。出世したものだ。 両親と祖父が夕方ホテルに来てくれてお茶。正確には、僕以外はみなアイスクリーム。夕飯も同じレストランでとる。 日本を離れる最後の夜というのが、心のどこかに少なからずあって、何かをしたい気持ちになる。ホテルの最上階にバーがある。 24 時まで営業とのことで、 23 時 10 分に上る。ブラントンの馬のマークが目に留まる。バーボンなどしばらくご無沙汰になるだろう英国生活を考えて、一杯目はブラントンソーダ。のどの渇きにあっという間に吸い込まれる。 次を促されるので、ゴッドファーザーを頼む。もうスコッチに流れた・・・。と、目の前のカウンターの内側を通りがかったバーテンダーが「ウィスキーがすきなんですか?」と声をかけてくる。しばし話す。最後に一杯、なにか忘れたがモルトをストレートで飲み干して階下に下がった。明日は出国。

住み慣れた家を引き払おうとする季節に (留学準備編②)

もうあと数日で住み慣れたこの家を引き払わなくてはならない。そんな初夏のある日、我が家の郵便受けに、一通のエアメールが届いた。 海外に友人知人がいないわけでもなく、そのうちの誰かからのものだろうかと思いつつ、今のこの世の中わざわざ手紙をよこしてくるのはアイルランドにいる妹くらいのもので、(彼女は折に触れてカードなどを送ってきてくれる)封筒の、あのエアメール独特の青と赤のストライプと、アルファベットの宛名を郵便受けの中に覗き込みながら手にとって逆さに見た。 違う。妹からの手紙ではない。いや、そもそも宛名が私の名前ではない。住所は確かに私の住むアパートのもので、番地一桁にいたるまで正しい。しかし宛名はまったく違う人物である。横から妻が、「きっと前の人のね。」とそっけなく、続けて「捨てるか、郵便局に言って引き取ってもらって差出人に返したら?」と言う。 「うん、そうだね。そうしようか。」と言いかけて、私は封筒の裏側を確認する。差出人の名前が封筒にない。郵便局とはいえ、差出人が不明では戻しようがない。 前の住人のものだろうか。以前、不動産屋が言っていたことを記憶の片隅からひねり出す。前の住人は父親と息子の二人家族だった。いま私の手元にある封筒の宛名は、おそらく女性の名前である。不動産屋の情報が正しければ、この宛名の人物は少なくとも前の前、あるいはそれ以前の住人ということになる。彼女を発見してこの手紙を渡すことは、途方もない労力だろうし、私にその手間をかける義理も人情も正直なところない。なにより手がかりがない。 いっそ捨ててしまうか。いや、それは忍びない。そんなことがあったことなどすっかり忘れている妻を尻目に、逡巡し決めかめていた私は、さしあたり封筒を下駄箱の上に置いて数日が経った。せめて差出人がわかれば。そう思いながら朝晩下駄箱の上の封筒を見つめた。 あるとき、ふと封筒の封の一部が、少し糊が取れて広がっていることに気がついた。手にとって眺めてみると中に写真らしきものが入っているのが見て取れる。老齢と思しき男性と若い女性が写っているように見える。さすがに封を開けて内容を取り出すことは憚られたが、そのときチラリとメモのようなものが写真に留まった形で目に入った。 どうやら写真に写っている老齢の男性が亡くなり、その妻である差出人

イギリスについて想うこと (留学準備編①)

「海外研究員」としてイギリスに行くのに、あと三ヶ月となった。「研究員」といえば聞こえは良いが、もとはといえば事務方として研究所に勤めてきた人間としては、自分がその必要性を主張し続けてきたことが結実した結果としての人事であるとはいえ、相当のチャレンジであることは間違いがない。待ち受けている勉学はもちろん、研究者の同僚からどう思われているのか。事務方の後輩からどう見えているのか。後に続く人たちに対して不利になるようなことはできない。日頃自分勝手に、他人の目など気にせず唯我独尊で行こうなどと言っている一方で、その一挙手一投足に向けられる評価を人一倍気にする人間であったりする。 そもそもなぜイギリスに行こうというのか。「公式見解」としては Sussex が開発学で有名だからであり、学びたい分野の第一人者がそこで教えているからである。こんな理由で学校を選んだことはこれまで一度もない。自分で言うのもなんだけれど、実にいい選択をしたと思う。 他方で、一歩下がった下心としては受験勉強をさほどしなくても入れるのではないだろうか、というズルイところもあった 。というのは、アメリカの大学院に行くには GMAT やら GRE やら TOEFL 以外にも、しかも数学の試験をしなければならないらしく、かといって予備校などに行く気はさらさらないという元来のナマケモノ気質である。さらにはアメリカの大学院は学費が高く、かつ 2 年間が基本であり、そんなファイナンスを自腹でするのは耐えられない、という実に生臭い理由もある。要するにイギリスに行くことを選んだ内実は、それほど高邁なものではないというのが偽らざる本音であったと思う。 でも本当にそれだけなのだろうか。それだけの理由しかないのであれば、私は本当にどうしようもない人間である気がしてくる。私がイギリスに対して想う何かがあって、どこか心根の深いところに引っかかっているものがあるような気がして、少し想いを巡らせてみくることにした。 私が生涯で初めて「イギリス」という土地を、国を、もう少し正確には「ロンドン」という街のことを自分の感覚として捉え、認識したのはおそらく小学校 4 年生くらいの頃だったと思う。当時、私は担任の先生に通知表に書かれるくらい、外で友人達と遊ばず、学校の図書室に籠もって本ばかり読んでいることを心配される少年

桜と物語

巷は、桜の季節である。 桜は、日本において、ニホンジンにとって、ある意味特別な存在であるといわれる。単に今日的な意味合いだけをとっても、「開花」を心待ちにする「予報」や、全国津々浦々で「花見」という文化がもたらす共通的な認識、理解は、この列島を、生きる人々を大きく包み込んでいる。 歴史的には、「田植桜」「田打ち桜」と呼ばれる、農繁期の始まりを象徴する存在であったことも、いまでは広く知られているし、さらに古く平安の時代よりも前にさかのぼれば、「桜」が今日持つステータスを保持 していたのは「梅」であったことも多くの人に知られていることであろう。 かつて機械化される前の田づくりの仕事は、身体的にとてもとてもつらく厳しかった。大変な仕事をみんなで力を合わせて乗り切ろうと、「花見」という今日的な意味合いではなかったとしても、田楽の囃子にのせて、桜の木の下で茶や弁当をとったかもしれない。時には振る舞い酒も、出たかもしれない。そんな記憶が、今日の「花見」を楽しむ私たちの中に遺っているとしても、不思議ではない。 もちろん私たちの祖先のすべてが土地に縁のある農耕民ではないが、猟民であっても、漁民であっても、狩猟や漁労の行き帰りにふと目を上げた先にあるあざやかな桜の枝ぶりに心が動かされたであろうことは想像に難くない。このように日本において、ニホンジンにとって、桜がある種exclusiveであるかのような認識や言説は、もはや揺るぎのないもののように思える。 *** さて。物語の中で、桜をモチーフにしたストーリーや、桜になにかを投影してコンテクストを描いた作品が多く存在する。いくつもあるそれらの中から、とても印象的で私の好きなものをふたつほど紹介したい。 ひとつは、不朽の名作である「マスターキートン」第15巻第4章「真実の町」である。たかがコミックと侮るなかれ。これはれっきとした「文学作品」である。外国人に、いわゆる日本人的な桜に対する情念を持たせたストーリー、といえなくもないが、きっと外国人も同じような情念を持ちえると思わせるような個人的に大好きな話である。 「マスターキートン」の中では数少ない、日本を舞台にしたチャプターである。長らく考古学者としての就職浪人であるキートンは、日本の大学教員の面接を受けるために一時帰国している。キートンが、空港で何者かに手荷物を取り違えられてしまうところ