住み慣れた家を引き払おうとする季節に (留学準備編②)

もうあと数日で住み慣れたこの家を引き払わなくてはならない。そんな初夏のある日、我が家の郵便受けに、一通のエアメールが届いた。

海外に友人知人がいないわけでもなく、そのうちの誰かからのものだろうかと思いつつ、今のこの世の中わざわざ手紙をよこしてくるのはアイルランドにいる妹くらいのもので、(彼女は折に触れてカードなどを送ってきてくれる)封筒の、あのエアメール独特の青と赤のストライプと、アルファベットの宛名を郵便受けの中に覗き込みながら手にとって逆さに見た。

違う。妹からの手紙ではない。いや、そもそも宛名が私の名前ではない。住所は確かに私の住むアパートのもので、番地一桁にいたるまで正しい。しかし宛名はまったく違う人物である。横から妻が、「きっと前の人のね。」とそっけなく、続けて「捨てるか、郵便局に言って引き取ってもらって差出人に返したら?」と言う。

「うん、そうだね。そうしようか。」と言いかけて、私は封筒の裏側を確認する。差出人の名前が封筒にない。郵便局とはいえ、差出人が不明では戻しようがない。

前の住人のものだろうか。以前、不動産屋が言っていたことを記憶の片隅からひねり出す。前の住人は父親と息子の二人家族だった。いま私の手元にある封筒の宛名は、おそらく女性の名前である。不動産屋の情報が正しければ、この宛名の人物は少なくとも前の前、あるいはそれ以前の住人ということになる。彼女を発見してこの手紙を渡すことは、途方もない労力だろうし、私にその手間をかける義理も人情も正直なところない。なにより手がかりがない。

いっそ捨ててしまうか。いや、それは忍びない。そんなことがあったことなどすっかり忘れている妻を尻目に、逡巡し決めかめていた私は、さしあたり封筒を下駄箱の上に置いて数日が経った。せめて差出人がわかれば。そう思いながら朝晩下駄箱の上の封筒を見つめた。

あるとき、ふと封筒の封の一部が、少し糊が取れて広がっていることに気がついた。手にとって眺めてみると中に写真らしきものが入っているのが見て取れる。老齢と思しき男性と若い女性が写っているように見える。さすがに封を開けて内容を取り出すことは憚られたが、そのときチラリとメモのようなものが写真に留まった形で目に入った。

どうやら写真に写っている老齢の男性が亡くなり、その妻である差出人が宛名の女性にそのことを知らせるとともに、かつて共に写った写真を思い出に送りたい、といった趣旨の手紙ではないか。メモの断片的な記述と封筒に透けて見える写真から私はとっさにそんなことを想像した。これは、なんとしてもどうにかしなくてはならない。

封筒は絶対に開けてはならない。それは人としての信義の問題だ。しかしこの封筒を、差出人か宛名の人物か、いずれかに届けることが、妙な形ではあるがほんの偶然にこの封筒を手にしてしまった私の役割ではないか。どこかに、ヒントはないか。

ふと、封筒の裏側に、なにか文字が印字されていることに気がついた。糊付けされた隙間から文字を読み取ることができた。人の名前と、住所らしきものが見える。差出人の名前と住所ではないか。

オレゴン州の片田舎の街の、姓が同じであることからおそらく写真の老齢の男性の妻であろうご婦人が、この手紙の差出人であった。これで、宛先知らずのこの手紙は少なくとも、送り主の元へ還ることができる。


私は、送り主のご婦人にあてて、簡単な手紙を書いた。

私の手元に偶然あなたの手紙が届いたこと。宛名の人物はすでにこの場所にはおらず、私に彼女を探す術がないこと。封を開けることは憚られたが、なにやら大切なもののような気がして、どうしてもこの手紙の所在を正して差し上げたかったので、あなたの名前と住所を封筒の中に見つけ、こうしてお手元に戻そうとしたこと。そして、そんな私もあと数週間でこの場所を離れてしまい、違う土地に移るので、これ以上の郵便での連絡を受け取ることは難しいこと。

そうして、彼女の元に還る手紙と一緒に一回り大きな封筒につつんだ。


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