イギリスについて想うこと (留学準備編①)

「海外研究員」としてイギリスに行くのに、あと三ヶ月となった。「研究員」といえば聞こえは良いが、もとはといえば事務方として研究所に勤めてきた人間としては、自分がその必要性を主張し続けてきたことが結実した結果としての人事であるとはいえ、相当のチャレンジであることは間違いがない。待ち受けている勉学はもちろん、研究者の同僚からどう思われているのか。事務方の後輩からどう見えているのか。後に続く人たちに対して不利になるようなことはできない。日頃自分勝手に、他人の目など気にせず唯我独尊で行こうなどと言っている一方で、その一挙手一投足に向けられる評価を人一倍気にする人間であったりする。

そもそもなぜイギリスに行こうというのか。「公式見解」としてはSussexが開発学で有名だからであり、学びたい分野の第一人者がそこで教えているからである。こんな理由で学校を選んだことはこれまで一度もない。自分で言うのもなんだけれど、実にいい選択をしたと思う。他方で、一歩下がった下心としては受験勉強をさほどしなくても入れるのではないだろうか、というズルイところもあった。というのは、アメリカの大学院に行くにはGMATやらGREやらTOEFL以外にも、しかも数学の試験をしなければならないらしく、かといって予備校などに行く気はさらさらないという元来のナマケモノ気質である。さらにはアメリカの大学院は学費が高く、かつ2年間が基本であり、そんなファイナンスを自腹でするのは耐えられない、という実に生臭い理由もある。要するにイギリスに行くことを選んだ内実は、それほど高邁なものではないというのが偽らざる本音であったと思う。

でも本当にそれだけなのだろうか。それだけの理由しかないのであれば、私は本当にどうしようもない人間である気がしてくる。私がイギリスに対して想う何かがあって、どこか心根の深いところに引っかかっているものがあるような気がして、少し想いを巡らせてみくることにした。

私が生涯で初めて「イギリス」という土地を、国を、もう少し正確には「ロンドン」という街のことを自分の感覚として捉え、認識したのはおそらく小学校4年生くらいの頃だったと思う。当時、私は担任の先生に通知表に書かれるくらい、外で友人達と遊ばず、学校の図書室に籠もって本ばかり読んでいることを心配される少年だった。といっても運動が苦手だったわけではなく、少年野球ではレギュラーだったし、体育の成績も良かったスポーツ少年だったのだが、ある時期しばらく図書室に籠もることに心底熱中した。

そこにはなにがあったのか。
もちろん本なのだが、まず初めに魅せられたのは江戸川乱歩の名探偵明智小五郎シリーズだった。たかが小説?と思うなかれ。怪人二十面相が出てくると人が死なない(逆に殺人事件が起こったならば二十面相はけっして出てこない)という、ミステリーとしてはありえないほど異色の哲学に支配された世界観にひきつけられた。なにより冒頭で人が死ぬと、もう二十面相は出てこないのでその回は飛ばし読みするほど、二十面相と明智探偵の対決に夢中になったのだ。江戸川乱歩とイギリス?まだ結びつかない。

江戸川乱歩を完全読破した私は、その棚の続きに並んだコナン・ドイルに渉猟の目を移した。言わずと知れたベーカーストリートの(ダーク)ヒーロー、シャーロック・ホームズである。当時は存在すら知らず、その後オトナになってからドラマで知ったアガサ・クリスティのエルキュール・ポアロの脳細胞が灰色ならば、ホームズの場合はシーンがすべていつも灰色にみえた。ワトソンに一見意味不明のつぶやきをぶつける「事務所」の壁紙や床。煤煙るどんより空のロンドンの街。シャバシャバと降る雨や窓から投げ落とされるバケツの水の下を、コートの襟を立てながら濡れそぼって歩く人々。当然実際には色はついているのだが、私の記憶にあるホームズが生きたロンドンの色は、グレー一色であった。

そして、そのイメージをさらに増幅したのは、乱歩とドイルの向かいの棚の一番右の上の隅に追いやられていたチャールズ・ディケンズのオスカー・ワイルドであった。ダークグレーのシーンの中に、子供である主人公に合わせてさらに細分化され、小さく、低く設定された視線から見る薄暗い、小汚い、ロンドン・・・。

翻って、テレビや写真で見る現代のロンドンの画の中には、バッキンガム宮殿の衛兵の手に輝くピカピカのサーベルや、ビッグベンの黄金に輝く文字盤が光っている。オックスフォードストリートを行き交う人びともカラフルな衣服を見にまとい、夏の日差しを楽しんでいる。こんなふうに幼き日の私とロンドンとの出会いは、グレーとゴールドの不可思議なコントラストがないまぜになった記憶とともに時間の軸を運ばれていったのである。

ほぼ同じ時期に、イギリスに対して知的な、もっといえば学問的な対象としての好奇心を抱かせたものは、マスターキートンである。ハリソン・フォードのインディ・ジョーンズを下敷きに、平賀・タイチ・キートンによって「考古学」という学問の存在を知った私は、小学校の卒業文集に「将来の夢」として「考古学者になりたい」と書くほど、見事にこの世界にハマった。学校の裏山に露出している地層を何も知らないくせにただほじくり返して出てきた石ころを大切に磨いて持っていたり、岩宿遺跡で旧石器を発見した相沢忠洋氏の伝記を読みふけったりと、当時の私の頭の中には古代人の世界が渦巻いていた。アンモナイトやシーラカンスにはあまり関心がなく、とにかく人の営み、人間の足跡に関心があった。思うに、私の学問的なものへの興味、学問を通じた世界との邂逅への関心、なかんずく社会科学への好奇心は、間違いなくこのころを原点としている。「考古学」の、そしてキートンが生きる失われた謎のケルト文化の世界が点在するヨーロッパの島国に大きく引き寄せられていく。

それから10年近い月日が流れて、人間とはとかく移ろい行くものであって、15歳の時に初めて日本の外の土を踏んだのはニューヨークで、高校を出た後、サービスの仕事が面白くなって初めてのヨーロッパ訪問にはフランスを選び、ようやく現実の地として初めてロンドンに降り立ったころには私は20歳になっていた。しかも考古学を学ぶ学生にはなっておらず、ケルト文化にもまったく詳しくない、一人の単なるツーリストとしてロンドンに立っていた。

その時に、ダークグレーとゴールドの、あのないまぜになった情景が頭の中にあったかどうかは定かではない。はっきり覚えているのは、ヒースローからバスに揺られてロンドン市内の北西、ウェストハムステッドの寄宿先に辿り着くまでの間、私の目の前に広がっていた色はダークブルーであった。2月の短い陽が沈んだ後を名残惜しむように尾を引くオレンジ色が空の限りなく黒に近い濃くて深いブルーと溶け合って醸し出すディープパープルの帯が消えた後、夜の闇に向かうレンガの街並みをバスのヘッドライトが引き裂いて進んでいく。


夜が明けて。目覚めた私は早速出かけた。トラファルガー広場で、ハイドパークで、私を迎えてくれたのは、抜けるようなスカイブルーのロンドンだった。それからまた10年以上の月日が流れて、何度かの訪問を経て、何度目かのイギリスに会いに行く。今度はしばらく長い付き合いになるのだが、海の見える町ブライトンはどんな色で私を迎えてくれるだろうか。

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