『吉田茂』と白洲家の人びと














吉田茂と白洲次郎の関係は広く世に知られているところである。
戦後の占領期から独立期にかけての日本史は、この二人の業績なしには語れない。




昭和26年。サンフランシスコ講和条約が署名され、戦後の日本が主権国家として再び国際社会に復帰しようとしていた年。


東京は芝増上寺の門前。今でいう東京メトロ大江戸線大門駅から増上寺の山門に向かうあたりの路地裏は、大空襲で一面焼け野原であった。戦後、戦地から復員してきた人々や、家を焼け出された人々がバラックと呼ばれるトタンで作った仮の住まいを建てて暮らす景色が広がっていた。


バラック街の一角に、台湾から復員してきた一人の男が妻と生まれたばかりの長女と暮らしていた。陸軍下士官であった男は、満州と朝鮮の国境付近、現在の中国吉林省延吉市から北朝鮮国境にほど近いところに駐営していたが、戦局の悪化に伴い台湾へ配転されていたために、ソ連の参戦による被害や戦後の抑留を受けることはなかった。男の所属していた部隊は「長男部隊」と呼ばれ、内地では各家を相続する「嗣子」ばかりを集めていたため、危険な前線に配置されることなく終戦を迎えたのである。復員後に故郷の幼なじみであった妻と結婚したが、徴兵前から東京に暮らしていたこともあって故郷には戻らず、芝の地に落ち着いていた。



ある夏の暑い日。男のバラックの前に、一台の見慣れない車が止まる。ひどく磨き込まれて黒光りのする高級車である。運転手は車から降りると、男のバラックの引き戸を開けてこう告げる。

『白洲が参りました。』

運転手が家の主の所在を確認したのであろう、視線で合図を受けて車中の人物はゆったりと車から降りてバラックに入る。

『初めまして、白洲次郎です。』

薄暗い屋内で主は勤しんでいた仕事の手を止めて、吹き出す汗を拭いながら小さく会釈をする。



男の名は『吉田茂』。



<続く>

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