『吉田茂』と白洲家の人びと 後編

白洲次郎は家に入るなり言う。

『吉田のオヤジと同じ名前の人はあんたですか。』

次郎がオヤジと呼んだ時の宰相吉田茂とバラックの吉田茂は確かに同姓同名。
この時、バラックの茂は大正9年(1920年)生まれの30歳。首相の茂は明治11年(1878年)生まれだからもうとっくに70歳を超えていて年の差は親子以上に離れている。次郎もバラックの茂よりは18歳年長であるから、彼の頓着しない性格を割り引いたとしてもこの物言いは致し方ない。


同姓同名を確認したすぐあとの次郎の言葉はこうである。

『うちにきて椅子張りやってくれないかな。職人が見つからなくて困ってるんだ。』

椅子張りの職人なんてそこらに他にもいるだろうし、なんでわざわざおれのところに。茂は訝しむ。次郎は、なんでも知り合いに聞いたらオヤジの茂と同じ名前の「椅子張り職人」が芝にいるから、というので飛んできたらしい。

茂は困る。復員したての状況で田舎に帰るわけにもいかず、さりとて妻と幼子を抱えて食っていくためにはなにか仕事をしなければならない。戦前にいた講談社からは戻ってこいと言われたけれど、なぜかもうあそこで仕事はしたくない。戦争なんてなければ、おれはフランスに行って絵描きになりたかったのに。活字の校正で月日を終えるのはどうにも辛抱ができない。それじゃあと見渡してみたところ、進駐軍の将校官舎や復興しつつある役所や学校の内装やら椅子張りの仕事が目にとまる。やったことはないけれど手先はそこそこ器用だし、手近な道具で始められるし。好きなわけではないけれどひとつやってみようか。そんな動機で始めた「椅子張り職人」だから全く心許ない。でも手間賃ははずんでくれるかな。はてさてどうしたものか。

逡巡する茂の心の内を知ってか知らずか、次郎は続けざまに都合をまとめようとする。

『道具と体一つで来てくれればいいから。いつなら来られる。場所は鶴川だ。』


仕事場はどうやら鶴川にある白洲家、「武相荘」である。
茂は腹を決めて次郎に言った。それじゃ来週末の休みに伺います。土曜の昼過ぎで良いですか、と。


それから幾度となく茂は鶴川の白洲家に行って、ソファを修理したり、椅子を張り直したり、そんな仕事をしている。茂は回顧する。おれが鶴川に行って仕事をしていると、正子さんがいていつも親切にしてくれた。普段の仕事の合間にやっていたからどうしても休みの日に行くことが多くて、おやすみなのにごめんなさいね、と。

茂は、自分がどこを直して何を作ったかなんて、完全に覚えているけど話さないから詳しく分からないけど、今も武相荘に残っている家具のどれかは茂の手によるものだろう。引退するまでずっと椅子張りなんて好きじゃないんだ、おれは絵描きになりたいんだなんて言っていたけど、ちゃんと仕事をして子どもを育てて、奥さんとも最後まで仲良しで。



ところでそんな僕の爺さん茂が、僕の名前をつけるときに「次郎はだめだ」と言ったとか言わないとかいうのは一体どういうわけだろうか・・・。御年89の茂翁。まだまだ明晰な頭の中に、どれだけのものを詰め込んでいるのだろうか。いやはや実にもったいない。



<終わり>

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