日本の教育「改革」?

GRIPSの黒川清先生のブログにこんな記事が掲載されていました。

http://www.kiyoshikurokawa.com/jp/2009/09/donna-scott-257.html

寄稿されたarticleを執筆したのは、黒川先生も書かれていますがおそらくはアメリカのonline schoolという活動もしくは団体を運営しているDonna Scottさんという方。総選挙後の民主党による政権交代が下馬評で極めて濃厚であった先月に、「全国学力・学習状況調査」(=「テスト」)について、民主党が打ち出している現状の全国全校実施方式から一部抽出方式への意向を検討する方針を踏まえて以下のような分析が述べられているものです。

論旨としては、民主党政権になったらこの「テスト」の見直しが濃厚であるということを前提として、①「テスト」の「全国全校実施」から、抽出された学校だけで行う方式への方針変更を民主党が検討しているのはひとえに財源の問題 ②そもそもこの「テスト」が導入された背景には昨今の日本の児童生徒の著しい学力低下が懸念された結果(文中では明示されていないが、2006年の「OECD 生徒の学習到達度調査-PISA-」結果の影響を受けて導入されたと思われる表現) ③(現在検討されている各校別の)成績公表に伴い成績上位と下位の学校の間にある格差(が明らかになること)にどう対処するのかということが懸案であるというようにいくつかの視点からこの「テスト」を眺めています。

改めてこの「テスト」とは何なのかを考えてみようと思います。

まず「テスト」の導入のきっかけになったと言われているPISAとはいったいどんなものなのかを少し調べてみました。以下の記述に際しては文部科学省提供の資料に依りました。

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/sonota/071205/001.pdf

PISA=Programme for International Student AssessmentはOECD=Organization for Economic Co-operation and Development(経済協力開発機構)がOECD加盟国と非加盟国の中から有志の国を合わせて行う「15歳児を対象とする学習到達度を測る問題」を実施するプログラムです。同プログラムは「参加国が共同して国際的な開発された」「義務教育終了段階の15歳児が持っている知識や技能を、実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかを評価」するものであり「特定の学校カリキュラムがどれだけ習得されているかをみるものではない」と定義されています。日本は「15歳児」を「高等学校本科の全日制学科、定時制学科、中等教育学校後期課程、高等専門学校の1年生、約120万人」と定義しています。つまり調査の対象は平たく言えば「高校1年生」ということになります。
またPISAは生徒への問題に加えて学校、保護者への質問票も設定して回答を統計化しています。「生徒の学習水準を高めることに対する保護者の期待」について「圧力を常に多くの保護者から受けている」と回答した学校に在籍する生徒の割合が2006年の調査では全体の4番目に高いという統計が出ているなど、「興味深い」部分があります。

個別の問題、質問票はこちらを参照。
http://pisa2006.acer.edu.au/downloads.php

PISAは大きく3つの調査項目すなわち1.科学的リテラシー、2.読解力、3.数学的リテラシーから成り、実施した各年でそれぞれを中心分野として調査を実施しています。(2000年=読解力、2003年=数学的リテラシー、2006年=科学的リテラシー)
細かな統計数値が上掲の資料に網羅されていますが、「テスト」導入の背景にある「日本の子どもの学力低下」を表していると言われる得点結果の国別順位は次の通りです。

2000年度 科学的リテラシー 2位 読解力 8位 数学的リテラシー 1位
2003年度 科学的リテラシー 2位 読解力 14位 数学的リテラシー 3位
2006年度 科学的リテラシー 6位 読解力 15位 数学的リテラシー 10位

つまり全ての項目で「得点順位が下がっている」ということが見えます。



次にPISAの結果を受けて日本が導入した「全国学力・学習状況調査」=(「テスト」)について調べてみました。以下の記述に際しては文部科学省提供の資料に依りました。

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/index.htm

マスコミ報道などでは一般に「全国学力テスト」と呼ばれる同調査は、「小学校第6学年(特別支援学校小学部第6学年を含む)」および「中学校第3学年(中等教育学校第3学年、特別支援学校中学部第3学年を含む)」を対象としています。PISAに対応した国内の調査が高校1年生を対象にしていたことと異なる対象の設定であることが分かります。

調査の目的は大きく三つであり、①全国的な義務教育の機会均等と水準の維持向上のための現状把握 ②各教育委員会や学校が、全国的な状況との関係において自らの現状把握 ③各学校が各児童生徒の学力や学習状況を把握 して改善につなげる、となっています。
調査の内容は大きく分けて2項目(国語と算数・数学に関して)「主として『知識』に関する問題」と「主として『活用』に関する問題」から構成されています。


具体的に対象者が受験した得点審査対象の問題内容についてPISAも「テスト」も照会することをしていないので、内容の適否について意見することは出来ません。しかしまず一つの側面として共通して言えることは、両者共になんらかの規定によって定義された一定の若年被験者層の「学力水準」を把握するための「統計データ」を作成するために行われた政策的取り組みであるということです。そしてその目的は統計的に集計したデータを解析することで、学習到達度を把握し現行の教育システムへの改善的反映を図ることだと思われます。

他方、PISAと「テスト」では異なる点もいくつかあります。対象となる若年被験者層をPISAについては日本は「高校1年生」としていますが、「テスト」を独自の政策として行うに当たっては「小学校6年生」と「中学校3年生」が対象になっています。なぜこのような設定になったのかは、文科省のお役人にお会いしたときにでも伺おうと思いますが、先のairticleの筆者が述べている「国際比較の場で相対的に学力水準が低下していることが懸念された」のが「高校1年生」の層であったので、その前段階であり学齢的区切りの良い「小学校6年生」と「中学校3年生」を対象に現状把握のための統計調査を行うことにした、ということなのでしょうか。



ある程度PISAと「テスト」の存在そしてお互いの関係性について整理できたところで本題の「テスト」の今後について私見を含めてまとめます。

まず、「テスト」の後年度負担を含めた継続実施の価値について。
客観的な指標の整備としてあるいは現状の把握という統計整備として行うという本来実施者が唱えている趣旨の元に行うことに限って言えば、今後も行う価値はあるのだと考えます。もちろんその結果をどのように政策に反映していくのか、というアフタープロセスを厳密に精査した上で調査項目や問題内容が検討されることは言うまでもありませんし、毎年必要なのか、という点で財源的な議論も出来るのだと思います。

第二に、サンプル的な実施の是非について。
実施者の唱える趣旨目的が、全国水準と自己レベルとの比較を言うのであれば、そこを変えずして一部のみを抽出して行うことはナンセンスだと言えます。一方で、政策実施のための統計整備として行うことがメインになるのであれば、ある程度のサンプル化はあり得るのだと思います。現にPISAの国内での調査は層化二段階抽出法で対象層からサンプリングした被験者に対して実施されています。その場合本件に関して文科省が「全国的な義務教育の機会均等」といった平等主義の看板を下ろすことが出来るかどうかが鍵でしょう。義務教育の機会は均等に与えられるべきものと思いますが、統計の作成に関して言えばサンプリングがメソッドとして「妥当・公正」であれば問題はなく、全国全校規模での実施が必ずしも必要とは言えません。

第三に、調査結果の公表の是非について。
「公表」の程度がどこまでかにも依ります。現行制度のままでも理念上「全国的な状況との関係で」自らの現状把握をするためには、少なくとも各学校関係者までの情報公開は必須です。また各学校内での個別指導の改善に資するよう活用すると言うことであれば、各児童生徒の結果も学校関係者には公開されなくては情報として使えません。一方で客観的な「統計」としての活用が求められる場合は、広く一般への情報公開が望まれる一方で、個別の学校単位や個人レベルの結果を公開することに抵抗感があることは事実だと思います。それは個人情報保護といった観点もあるのでしょうが、むしろ結果が低い学校の関係者が結果が公表されることによって(悪)評価されることを懸念するからに他なりません。単に統計として公開するのであれば、あくまでもその結果は「一次的な情報」として取り扱わなくてはならず、これをもって「評価」の指標とすることはそぐわないのではないかと個人的には思います。


最後に理想と空想を交えて。
PISAの結果が回を追うごとに「悪くなる」という理解を日本政府(および教育関係者)がしたとしても、確かに数値上デクラインしているのは事実で、「その価値観」に沿って見ればそれは否定されないものだと思います。たとえば2006年の調査結果をもう少し紐解くと、北欧の科学技術立国で環境先進国でもあると言われて久しいスウェーデンは3つの項目全てが比較対象全57カ国中20位前後。また諸々の問題は言われますが、これまで世界の金融、経済、技術を牽引してきたことは紛れもないアメリカは、全ての項目において20位台後半から30位台の位置にあります。PISAの調査は「15歳児」(日本では「高校1年生」)の学習到達度を現状把握する目的で行われるものであることは前述しましたが、この調査結果(ランキング)の上下とその子どもたちが生まれ育った「国」やその国の企業が(国際)社会に与えるパフォーマンスのクオリティは必ずしも一致していないことが分かります。PISAの結果が、ひとつの国に全国規模のテストを導入させてしまうほどその国のパフォーマンスと正の相関関係がある重大問題だとすれば、なぜスウェーデンやアメリカはPISAの結果(平均点)がそれほど立派ではないにも関わらずハイパフォーマンスを達成するような国であり、企業を生むのでしょうか。たとえばアメリカでは「高等教育=大学以上の教育機会において優秀な留学生を世界から集め、企業にも各国から優秀な技術者が集まり云々」あるいは「出来る子どもを集中的にトレーニングするエリート教育(=日本的な平等教育ではない)を施して云々」という言説があると思いますが、国を「富ませて」グローバルレベルでのイニシアティブを取る、という目的があった場合に、それを達成する手段はなにも完全機会平等を原則とした「自国民」だけの純粋培養だけではない、ということかもしれません。誤解を恐れずに言えばそういうチョイスもアリだということでしょう。
さて、それでは我が国日本はどうするのか。この国をどうしたいのか、どの方向に持っていきたいのか。教育は教育、経済は経済、外交は外交とやっていると見るべきものが見えないまま「見えない自由を探して」盲目の政策トレインが突っ走ることになるのだと思います。
そもそもPISA調査は「3年おきに『同じ学年』を対象に」行われるものです。つまり「同じ人間がどう育つか、育ったか」を経年的にフォローするものではないということです。これは「テスト」も同じ設定です。つまり一人の人間をある一定の長い時間を掛けてどう育てるか、という観点はない、ということで、やはりこれは統計なのです。国をこうしたい、だから子どもたちをこう育てる、という方針があって初めて教育政策は意味があるし、他国の子どものその瞬間のテストの点数より高い低いをとらまえた価値基準に従って物事を決めることが、どれだけ徒労であることかが分かれば、統計の結果に一喜一憂するよりもぶれない目標を設定してそれに向かって人間を育て続けるということへのフォローがより重要であることは言うまでもないことに気がつけるはずです。たとえばよく言われる「日本は技術立国、コンテンツ立国」という言説に依るのであれば、PISAの順位がひとつふたつ上がり下がりすることよりも、どうやったら「ものづくり」がココロから楽しめて技術に関心が芽生えるプログラムを学校で作れるかとか、目の前の数字を足したり引いたりすることよりも(もちろんそれも大事ですが)書物に書かれた文脈から自らの立ち位置を把握し、自らを取り巻く世界に思いをはせる想像力をどうやったら育てられるのか、とか。子どもと先生がともにワクワクできるプログラムを生み出せることが教育現場においては立派な評価基準になり得るし、他者との比較だけが唯一の指標なんて、ココロが貧しくなるだけだと。子どもと先生が学校を心底楽しめれば、親や地域社会も巻き込んで人間の底上げが出来る、そして心底生きることを楽しむことを教える学校を増やすことに、機会均等の力点を置くべきだと。

また昨今つとに言われる「愛国心」ですが、「愛国心を育てるために道徳の時間を復活」なんてちゃんちゃらおかしいと思います。教室の中に座っているだけで「国を愛する心」なんて全く育つわけがありません。国とは何から形作られるのか、といえば教科書の国際法の定義でも明らかなように「国土」「国民」そして「主権」です。「国土」を本当の意味で自らのイメージに納めるためには実際に日本の「里山」や「離島」までを観てみる必要がありますし、「国民」をイメージするためには実際にいろいろな「日本人」と出会わなくてはなりません。そして「主権」をイメージするためには日本の外に出て、、、という具合です。つまりは「道徳」というアーティフィシャルな教科だけでは、自分と自分を取り巻く社会・環境の本質に対して深く進んでいく感覚は芽生えることはないということです。

新渡戸塾の公開シンポジウムでは、こんなことも話せるといいなと思います。杓子定規ではなく本質を探る試み。11月7日。

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