パレスチナとはなにか

ロシアの「南下」という文脈を、具体的な侵攻というアクションよりもしばらく前から眺めていると、どうしても日露戦争のことを考えてしまう自分がいる。しばし一人暮らしなので仕事が終わると時間がある。「坂の上の雲」の文庫を全巻持ってくることも考えたけれど、NHKオンデマンドでドラマを見ることにする。乃木さんがどうしたという、いわゆる司馬史観については正直なところどうでもよいのだけれど、もっと大きなところで19世紀後半から世紀末に至って世界を覆った民族主義の大潮流というものは、かくも中世以前からの歴史を色濃くして地上に線を引きまくったんだなぁということを、改めて思うわけです。

日本の場合は明治維新をあまり民族主義的運動とは強く定義しないけれど、小邦国家連合から大日本帝国という国民国家をつくって日露戦争にそれが結実した流れは近代「日本民族」を形成した運動だったでしょうし、そうでなくても明治以降にアジア主義の思想が生まれ、その中で日本の民族主義が台頭していく過程からも明治維新が民族主義のトリガーを引いたとは言えるのかなぁなどとつらつら思いつつ、パレスチナへの道を車に揺られていたのでした。
よくクルド人は国土を持たない最大の民族などと言われますが、パレスチナ人も国土があるのかないのか分からない状態でかれこれ数十年過ごしているわけです(クルド人は1,500万人とも言われ、パレスチナ人はパレスチナには500万人程度ですがディアスポラも含めると1,000万人を超えるという試算もあります)。19世紀後半から世紀末にかけての民族主義高揚の時代を英国委任統治下で過ごし、戦後はイスラエル建国によって混乱が続き、ようやくオスロ合意を経て自治政府が出来たけれど、日本が支援してつくられた工業団地にモノを運ぶ専用道路もイスラエルに相談しないと通せない、というのが実際のところのようです。
ヨルダン川渓谷という土地は、有名な死海があるところですが、エルサレムのある山並みとヨルダン国境の山脈にはさまれた南北に細長い盆地を形成しています。直射日光の強さとデーツのプランテーションを割り引けば、初春の少し肌寒い気候も相まって安曇野のような風景とムリに言えなくもありません(その夜エルサレムの山には雪が降ったそうな)。8世紀にウマイヤ朝のカリフが建てた冬の宮殿(壮大な入浴施設付)の跡に、こんなに大きいのは見たことがない一面のモザイク床装飾が残る遺跡も、中東特有の強烈な日差しと山肌から振り下ろす風からこれを守る大屋根が日本の支援によって作られていました(JICAを通じた私たちの貢献が、世界遺産級の人類の歴史を守っていることを、日本人はもっと世界に誇っていいと思います)。
そんなこんなのパレスチナですが、最近民間主導の議論の中から、西岸のユダヤ人入植者とパレスチナ人が土地を巡って反目し合う構造(お互いにお互いを追い出そうとする構造)から、国家連合を作ってお互いの住民にお互いの市民権を認め合おうじゃないか(お互いがお互いを内包し合う)という構想が出てきました。そんなことできるの?とは思うものの、もし実現すれば土地と人とをアイデンティティとともに結びつけることによってずーっと続いてきた歴史の連鎖が、少し変わる出来事になるかもしれません。少なくないパレスチナ人にとっては、職場がユダヤ人入植地、ユダヤ人入植者にとってはパレスチナ人が仕事の担い手という状況になっていることもあり、イスラエルによる西岸の占領、ヨルダンによる干渉中止から数十年経っていまやどちらかを追い出せばよいというレベルではない空間になってきつつあるということも、一つの側面としてあるのかもしれません。もちろんその方向性が良いのかどうか、ということについては、イスラエルとパレスチナの人々が、公正に成り立った民主主義の制度の下で、議論しながら決めていくべきことであることは、言うまでもありません。






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