若い人と話す、恩返しと恩送り

 時々、若い人と話をする。別段今に始まったことではなく、日本にいるときから折に触れて話をしている。それは僕から意図してということではなく、また改まって機会を設けたりするというわけでもない。すれちがったタイミングで、ちょっと話を聞いてもらってもいいですか?話をしてもいいですか?という問いかけから、少しその辺に腰掛けて、というように日常のちょっとした延長くらいの感覚である。もちろん時間や場所などを約束することもあるが、特別に仰々しいわけではない。そして基本的に彼らの申し出を断らない。その理由は簡単で、年嵩の人間に話を聞いてもらいたい何かを抱えていたかつての自分の姿を思い起こしてみればいい。自分の目線からみたらとても忙しくしている大人が、自分のために時間を割いて話を聞いてくれるということ自体が、とてもありがたかったからである。これまで自分が先達から受けてきた恩をお返しするひとつの態度なのだと自覚している。

僕は心理学を本格的に学んだわけでもないし、キャリアコンサルタントでもないし、ましてや心療内科医でもない。だから「面談」をどう仕切るか、どのように話をするか、といった確立された理論やテクニックを持っているわけではない。そういう意味ではずぶの素人である。しかしながらなぜか概ね話をした若い人たちは数十分後、あるいは数時間後話をする前よりもすっきりした顔をして別れて行く。もちろん年を重ねていれば誰もが経験するであろうよしなしごとについて話をすることもあるのだから、一日の長があれば誰でもこのように接することができるかもしれない。時々でかつての自分が悩み苦しんできたことの共有が、いまの彼らを楽にするということもあるかもしれない。努めていることは、「自分の若いころはVS今の若者は」論や「~べき」論に陥らないというくらいのことである。

さて、若い人たちと話をする上で最近になって気が付いたふたつの重要なことがある。そのひとつは彼らの存在そのものに対する敬意を持った認知(acknowledgment)であり、いまひとつは彼らが語っていることを未来に向けて開拓していく手助けをすること(elaboration)である。存在の認知というととても大げさに聞こえるし、相手に対して敬意を持って接するなどということは当たり前ではないか、と思われる向きもあるかもしれない。しかしながら無意識の中で自分よりも経験の少ない人、年齢の若い人に対して不遜な態度を取るという程ではないにしても、応対のどこかに「教えてやろう」とか「諭してやろう」という態度があってしまうのが人情である。それはひとえに彼らの話を聞いているようにみえて実は私たちが自分の話を彼らに聞かせたいという心理が働いているからである。そういう大人を若い人たちは面白いほど見抜いているもので、だから「お説教くさい」おじさんおばさんは嫌われてしまうのである。彼らは私たちが自分の過去の栄光をひけらかし、ちっぽけな虚栄心に浸るために無償で目の前に座らされているわけではない。私たちが今までもこれからも自らの進む道を必死に手繰り寄せて這いずり回りもがきながら生きてきたように、彼らもまた自分自身の人生の物語をそれぞれのステージで必死に紡いでいる。だからその物語には大いに耳を傾ける価値がある。彼らは、私たちなのだ。

根本的なところで、話をする彼らとどう向き合うか、私たちの向き合う心をどう整えて臨むか、ということの先に、彼らの語る物語を未来に向けてより拡げていく過程が見えてくる。(私はあまりしないけれど)「いまこんな問題が目の前にあるんです」という語りに対して即座に「そうか、それは自分もかつて経験したよ。そのときはこうして解決したよ。」といって自分自身の経験から導き出されるアドバイスをするという向きもあるだろう。それは決して悪いことではない。しかしながら上に書いた彼らが彼らの未来を「拓く」そして「拡げていく」手助けが成り立つとすれば、それは私たちが経験上のアドバイスをするだけでは事足りない(誤解のないように補足すれば、全く意味がないとまでは言わない)。私たちの経験則は結局のところは私たちのジブンゴトであり、彼らにとってはどこまでいってもタニンゴトのままだからである。たとえ百歩譲って「いま直面している問題」の解決方法が分かっても、その類の問題は早晩近いうちにまた目の前に現れる。そのうちジブンゴトとして経験則が積み重なってくるからいつまでも誰かのアドバイスを受けなくても自己解決できるようになるかもしれない。でも、それではずっと「問題に対処する」生き方になってしまう。先に問題があってそこに自分が遭遇するという形式の人生になってしまう。未来に向かう物語を拓く、拡げる、という発想は、より生きていることそのものに己を向けることを促す。目下なにかを相談したいと思って話をしている若い人は、子どもの頃の遠足の話だったり、家族の話だったり、先週末のホームパーティーでの珍事だったり、いろいろな話を私とする。けっこう悩んでいたり、しんどかったりする問題を抱えているはずの彼らが、楽しかったり悲しかったり悔しかったりした思い出や、わくわくしたりドキドキしたりげんなりするちょっと先の未来の話を、訥々と語り出す。彼らがいま意識して向き合おうとしている問題の周辺や、ちょっと向こう側、あるいは少し奥のほうにころがっていてあまり関係のなさそうな事象は、しかしながら彼らの人生のすべてなのである。そうこうしているうちに、彼らの中で、人生の物語を紡ぐ糸が、一本につながる瞬間がある。彼らは気が付く。いま目の前にある問題に自分がどう向き合うべきかは、とりたてて私からなにかを教わることなど必要なく、自分の中にすでに答えが見え始めているんじゃないかってことに。そしてしばらく時間が経った後に、彼らはもうひとつ気が付くかもしれない。これまで他人の話は所詮タニンゴトだと思っていたけれど、いま目の前で話している彼や彼女の人生の物語がまさにいま美しく紡がれていくことが、ジブンゴトのように嬉しく感じるってことに。僕が相談事を基本的に断らないのは、なにも先達に対する恩返しだけではないようである。


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