ピナ・バウシュに救われる

この間、階下のリノベーションに入っている工事屋がヘマをして、粉塵が階上の私の部屋に降り注いだり、どうも中だるみというか学問に身が入らない日々が少し続いていて体と気持ちが疲れていた。


気に障ること、心に不安があると決まって不調をきたすので、随時主張する痛みとの戦いも体力を消耗させる。結果として体調を崩すわけにはいかないので睡眠時間を長く取るように心がけると、活動時間はおのずと短くなる。二月のほとんどの時間はそうして過ぎている。


そんな中で先週の日曜日にロンドンでピナバウシュのTanztheaterを初めて観た。ドイツのなにがしかをかじった身としては、一度は観てみたいと思っていた集団のパフォーマンスをこうした形で観ることができたのは奇遇としか言いようがない。


今回の演目は舞踏よりも演劇要素の強いもので、セリフも多くストーリー性もあるものだった。しっかり人間と言うものの禍々しさや清清しさを掘り下げてくれる作品だったので、一緒に見に行った人たちとも良い話ができた。


一流のアートに触れるべき理由のひとつは、そこから新しい発想が生まれ、対話が生まれ、そして人々の中にそれぞれに解釈されて定着していくことなのだろうと前々から思っていたことを、図らずもこの機会に改めて実感した。ひとりひとりが受け取ってそれぞれの中で咀嚼して腹の中に沈める、というのもいいのでしょうが、その時間、空間を共有した幾人かの対話からそれぞれの価値が変容され、リフレクトされ、そして互いに増幅されていく過程も含めてアートの価値として考えてみると、その接し方、慈しみ方をますます心に置いておけるようになるのではないかなと思う。


そんな昨日、三回目のロンドンフィル。どうもなにかを感じられない。それは一流の音楽家がさらりと涼やかに演奏しているからそう感じさせない、ということではない。曲目が濃淡の少ない、起伏の少ないものであったからということでもない。そんなことを言ったらいつもワーグナーばかり聞いていなくてはならない。好きだけれど。


迫り来るもの、ひきこまれるような圧力、うねり。それは単に音の強弱によって生み出されるものではなく、そのライブの空間を支配する目に見えない力によって押し出されてくるもの。前の回には感じたもの、ピナバウシュでもこの身を鷲づかみにされたあの圧倒的なもの、Royal Academy of ArtsでいまやっているSensing Spaceというインスタレーションの空間に立ったときにはからずも心を棒立ちにさせたもの、スポーンと真に入ってくる、芯を震わす、そういうものをなぜか今回の公演では感じることが出来なかった。

そう、録音を聞いているというと言い過ぎだけれどなんだかライブ感がなかったのだ。演奏は完璧なのだ。メンバーも見た顔が多く、従って人が違うからここまでの感覚の違いが出ているということではおそらくない。違うのは指揮者であるから、これは指揮者の違いかもしれない。なにを偉そうに?天下のロンドンフィルに問題があるわけがない?そう、僕の体調のせいかもしれない。風邪を引いたら味覚がおかしくなる、そういうことかもしれない。しかしやけにティンパニの渋い響きが耳に残る公演であった。ティンパニだけは、良かったのだ。

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