空海とベネディクト


空海展をみた。

前から行こうと思いつつなかなか時間を作れなくて、あやうく梅棹忠夫展の二の舞になるところだったが、コアな友人の一人と別件で電話していたら「行かないとやばいぞ、お前」と言われてむりやり行った。ありがとう。

この現代ニッポンのどこにこれほど「宗教美術」を愛でる人がいるのか、というくらい金曜夕方の国立博物館は激戦の様相。「宗教がない」と言われる現代ニッポンにおいて、彼らは何を求めて空海展を訪れるのだろうか。彼らにとっての「宗教」とは一体何だろうか。

9世紀から今日まで残され、語られ、手渡されてきた書。そして多くの密教儀式に使用される道具と、崇拝の対象であった仏像たち。展示の終盤、東寺講堂を再現した仏像曼荼羅を会場の隅っこの壁に体を預けてかれこれ1時間ほど眺めていたが、ついぞ人々が何を求めてこの場に集うのかを理解することは適わなかった。

元々、そのものがあるべき場所にあってはじめて価値があると思う。各地から「国宝」「重文」が集結と言われ、集められてきた品々が、あるべきところでない場所に鎮座していることに些かの違和感を感じる。通常非公開のものが見られるから人々は集うのか。「絶対見られない」「絶対に触れることができない」ということそのものだからこそ絶対的価値があるのではないのか。見ることができたら、触れることができたら、そこに果たして価値はあるのか。

そんな天の邪鬼な僕が、なんで前から行こうと思っていたのか、空海展に。
それはかつての「偉大な宗教」を単に現代の日本人として対等なスタンスで見る、理解しようとするというある種不遜な態度ではなく、「宗教がどうやって時代を記録してきたのか」という装置としての機能にフォーカスする視点で空海展を見たかったから。このモチベーションはローマ帝国以降、ルネサンスまでのヨーロッパキリスト教世界。ベネディクトに代表される修道院はキリスト教の「教え」を引き継ぐことを、修道士たちの生活そのものに根ざした形で、まさに時代の価値観を記録するものとしてつないできた。

「宗教」が形として残り続ける現代世界において、翻って「世俗」の空間もまた同様に広がり続けていく中で、私たちはこれからの未来に「いまこの時代」をどう記録し伝えていくべきか。その装置とはなにか。「宗教」が唯一の記録装置であった中世までの世界と、活字を一般庶民が駆使できるようになって以降の近現代。中世以降宗教に加えて「モノ」や「マネー」も記録装置になっていった(それを支えるイデオロギーも)とすれば、ここから先私たちはなににどうやって記録を綴っていけばいいのか。

桜on三陸プロジェクトは、実はそんな記録装置を創造することに挑戦しようとしているのです。

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