競争を協奏に

格調高く重厚、ときには軽妙で水紋のように無限に広がるハーモニーを奏でるオーケストラ。管弦楽団と邦訳されるとおり、数多くの管楽器奏者、弦楽器奏者、そして打楽器奏者も加えた大所帯です。


美しいシンフォニーを奏でる優美な世界だと思いがちですが、きっと個々のパート、たとえばバイオリン奏者ならバイオリン奏者同士では、とてもシビアな競争があるのでしょう。そもそも奏者になれるかどうか、というところでセレクションがあるでしょうし、嫌が応にも実力のあるものだけが残っていくことのできる厳しい競争社会であろうことは想像に難くありません。ひょっとしたら「どこの学校を出て誰に師事したか」といったことも競争を決する要因として影響するかもしれません。

また楽団自体が財政の問題などで存続できるかどうか、他の楽団との生存競争にもさらされなくてはならないのが現実だと思います。映画「おくりびと」で、東京のオーケストラのチェリストだった主人公が納棺師になるエピソードも、所属していた楽団が解散してしまい職を失う、というものでした。ただいずれにしても良質な競争こそが、クオリティのより高いオーケストラを創る源泉であることには、多くの人が同感するものだろうと思います。


数多くの楽器奏者が集まるオーケストラは、しかしながら全体としてシンフォニーを奏でなくてはなりません。個々のパートでは激しい競争がありながら、あるいは楽団として他の楽団と激しく競争しながら、ひとつのオーケストラとして数多くの異なる楽器を弾く多様な能力と専門性を持った奏者が集まり、ひとつのシンフォニーを響かせているのです。



このことを一般社会におきなおして考えてみるとどうでしょうか。
様々な能力や専門性を持つ職業人が、日々各々の土俵で競争しているのが今の世の中です。八百屋は青果のマーケットで、魚屋は魚のマーケットで、ITサービスを提供する人はITサービスのマーケットで、あらゆるビジネスはすべてそのモノやサービスを商う市場で戦われています。八百屋がバイオリン奏者なら魚屋はトランペット奏者、ITサービスを提供する人はクラリネット奏者という具合に、各々のパートで競争しているのです。元々異業種だった人が他の市場に参入することもあるでしょうが、その人は元は植木屋であったとしてもそのときには「八百屋」であり「魚屋」になるのです。

それではオーケストラは一般社会ではどのようにおきなおせるでしょうか。
なにかセレクションでもして八百屋や魚屋、ITサービスを提供する人を選んで、どこかに「オーケストラ」を組織するのでしょうか。少し違う感じがします。
私は、これは地域社会なのだと思います。



誰もが、能力や専門性を持って貢献する有償無償を問わず職業を通じた社会との結節に加えて、私たちは「地面との結節点」というものを必ず持っています。私たちは必ず「住居」を持ちそこで一定程度の定住生活をしています。ノマドを自称する人もいるにはいますが、それにしても空気中にふわふわ浮いているわけにはいきません。必ずどこかで地面に足が着いています。私たちは「どこかの地面の上で生活する」ことからいまのところ逃れられていません。ニュートンが正しければ、おそらく間違いありません。

この地面の上にはいろいろな音を出す楽器を弾く人たちが肩を並べて生活しています。あたりを見回してみれば、見える範囲に八百屋も魚屋もITサービスを提供する人もきっといるはずです。異なる能力や専門性を有した人々ですから、当然「どのように生活をしたら楽しいか、気分が良いか、自分にとって大切なことはなにか」ということも自ずと多様であるはずです。みな自分の楽器の弾き方にはこだわりがあるのです。

この多様な人たちが同じ地面の上で、味噌汁が冷めない範囲で生活していることを考えた場合、もしも各自が勝手に楽器を弾きならしていたらどこかで音と音がぶつかり合う、うまく響かないことが出てくるであろうことは想像に難くありません。価値観の違い、利害の対立というのは、まさにこういうことの表出に他なりません。多様な生き方、価値観を認めながら、ひとつの地域としてどうやってその地面に接している人々の生活を豊かにしていくのか。



競争を協奏に。これが地域社会というオーケストラが求めるハーモニーなのです。



さて、ひとつ大事なことを忘れている気がします。
そう、オーケストラには楽器を弾かない人がひとりだけいます。
指揮者です。

指揮者は楽器を弾きませんが、楽器がどういうものか、どんな音を出すのか、どうやってあらゆる楽器が奏でる音の調和を取るのか、ということを専門的に学んできたプロフェッショナルです。指揮者になるための専門教育を受けています。

一般社会、地域社会における指揮者は、これまで行政だと思われてきました。その地域に生活する人々が出す音を調和させるルールを作り、それを執行していく仕事は行政が担ってきました。これからも行政が地域社会というオーケストラの指揮者として調和の取れた街作りのために果たしていく役割はけっして小さくないと思います。

ただ、指揮者があまりに面倒見がよかったり、ときには強権的だったりすると、楽器奏者は指揮者のタクトだけをみて楽器を弾くようになります。他の楽器の音を聞くこともなく、ただひたすら自分のパートの楽譜だけをみて、指揮者のタクトに従って弾き続けます。もし指揮者のタクトが間違っていたら。自分の楽譜が破れていたら。嫌気が差して楽器を弾くことを止めてしまうかもしれません。そんなオーケストラのコンサートは、とてもミゼラブルです。

いいオーケストラの楽器奏者は、指揮者のタクトをみながら、他のパートの音をきちんと聴いて協調しつつ、自分のパートを完璧に演奏することが求められます。地域社会のオーケストラでは、自らの役割を責任を持って演奏し続けるのはもちろんのこと、自分たちで指揮者を育てる、あるいは自分たちの中から指揮者を選ぶ、ということもしたって良いかもしれません。

それもこれも自分たちのオーケストラを、より良くするためなのですから。

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