「まとまり」に関するノート

人の「まとまり」の単位が大きくなってきたこと。
(冷静に考えてみるとこれはスゴイことなのだと改めて思う)

何十万、何百万、やがて一億を超える数の人々をひとつの単位にまとめること。




人の「まとまり」とは、いわずと知れた、我々が「社会」と呼ぶもののことである。最小は2名以上の人間で構成される単位で、「家族」であり、「近所」であり、「地域・地方」であり、「国家」であり、時に国境を越えた地域ですらある。これらは同時に物理的、地理的な概念であるが、それ以上に人の「まとまり」の単位である。

何度もここに書いてきたし、そもそも先達が繰り返し突き詰めてきたことだから、いまさらなにも新しいことはないのだが、「まとまる」ことと、「まとまり」が大きくなることの背景には一体何があるのか。

人を「まとめ」、形を変えながら次第に「まとまり」を大きくしてきたものはなんだろうか。あるいは、「まとまっている」人々が、自分はそこに「まとまっている」と腑に落ちている状況を創りだすものはいったいなんだろうか。

近いところで考えてみると、坂上田村麻呂は「まとまり」を創っただろうか。
平清盛や源頼朝や足利尊氏や徳川家康は「まとまり」を創っただろうか。
「近代化」や「戦争」や「独立」や「五十五年体制」や「所得倍増」や「日本列島改造」は「まとまり」を創っただろうか。

ちょっと遠くを見てみると、「ローマ」「一神教」「ルネサンス」「宗教改革」「大航海時代」「絶対王政」「市民革命」「基本的人権」「進化論」「産業革命」「資本論」「戦争」「植民地」・・・(ぱっと見、欧州からの目線に見えるけれど、裏返しのアジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカの目線でもあることは、皆さんにはすぐにお分かり頂けることだろうと思います。ただ裏返しといっても世界システム論的な発想でもないのですが。)

みな「まとまり」を創り、壊し、また創ってきたモノやコトである。そしてその中にもちろん人がいる。


「まとまり」を創る人、「まとめられる」人、「まとまり」をうまく使う人。いろいろといる。
(これは違うところできっとestablishmentを巡る話もしないといけない)


人を「まとめる」力を、仮に「フレームワーク」と呼ぶことにすると、「近代化」や「戦争」や「独立」や「五十五年体制」や「所得倍増」や「日本列島改造」は「フレームワーク」である。数千万から一億人を超える数の人間が「まとまる」こと、「まとまってきた」ことの蓋然性、他方でそれを必然として捉えることによって生じる惰性についての議論は別途あるはずだが、プラグマティックに考えた場合は、次に人を「まとめる」力は一体どんな「フレームワーク」か、ということが注目を集める。というよりここ20年くらい集めてきたが、その「フレームワーク」はいまだ明らかでないとされている。少し明らかになってきている、という人もいる。


たくさんの「フレームワーク」を重ね、通ってきた私たちの「まとまり」は、「まとまっている」人間の数が多いし、とても複雑で入り組んでいる。複雑な「まとまり」を「まとめていく」(必要があると仮定して)ためにはどうなっていくことが考えられるか。


ひとつはより大きくなっていく「まとまり」をうまくマネジメントするための、ある程度実は進んでいて、そろそろ顕在的になってくる「社会の工業化」。
もうひとつは「まとまり」をうまくマネジメントできるサイズや量にばらす「社会の還元」。


どちらにもチャンスがありそうで、どちらかだけということでもないような。


(2012年の衆議院議員選挙が終わって)















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