「規制の虜」はどこから来たのか:「底なし沼」と「気違い部落」と

フェイスブックを眺めていたら、かつて仲間とお世話になった黒川清さんが白石隆さんと一緒に笑っている写真が出てきた。

ふと少し前に買ったまま積んであった黒川さんの本を思い出した。国会原発事故調を率いた経験を踏まえて書かれた「規制の虜」という本。踏まえて、と書いたのは、たしかに事故調の立ち上げから大変なプロセス、報告という舞台裏ストーリーを読む面白さはもちろんあるのだけれど、そのことを踏み台にして黒川さんが言いたいことを書いているからである。

いまから10年くらい前に、仲間とあるシンポジウムを企画した。そのときに黒川さんを知っていた仲間の一人が出演を頼みに行き、快諾していただいた。時代の閉塞感を打ち破るために必要なものはなにか、という問いに対して企画者の一人だったわたしが当時出した答えは、100人いたら100通りのリーダーシップ、というものだった。つまり誰か偉い人に率いられて付いていく、その偉い人がもっているひとつのリーダーシップということではなく、誰もが自らを導き、駆り立てることができること、あるいはそうすることそのものがその人にとってのリーダーシップ、ということ。この文脈でリーダーシップの語意を訳せば、「自律性」とでも言っただろうか。そのときの答えは間違っていなかったと思うし、いまでもそう信じている。

黒川さんの本は嘆いている。原発事故という象徴的な出来事をベースに、この国ではあらゆることに対して、責任ある立場のエリートの人たちが、都合が悪くなるとほっかむりをしてトンズラしようとする、と。日本はこのままではダメになる、なんとか矜持を持った、誰がなんと言おうと自分が正しいと思うことをする強力な「個」をもった人びとが世の中を引っ張っていくべきだ、というのが黒川さんの主張だろうと思う。これも10年前にシンポジウムでしゃべってもらったときから変わっていない。当然だろう。黒川さんは僕らに出会うずっと前からぶれていない。朝河貫一の「日本の禍機」を引いて力説しておられる。朝河貫一は二本松の人である。私の父方の祖父も二本松なので、それじゃわたしも四分の一は二本松だ、というような理由で誰かを勝手に近しく思う、判官びいきのようなのもどうだろうかと思う。こういうメンタリティが後に述べる諸々にもつながるところもあるんだろうとは思いつつ、好きなので隠さない。そして「日本の禍機」はとても良い本なのでお勧めします。

脱線した。さて、それじゃ10年後のわたしがそこにいくばくかの違和感を感じるのはなぜだろうか。いつも「じゃあどうしたらいいの?」というソリューションに話は向かう。人にフォーカスする人は教育を変えねばならないというかもしれないし、集団を見る人は組織改革が肝要というかもしれない。国際関係だの何だのを言う人は、新しい国際協調枠組みを作って云々。それに本の中で黒川さんも再三言っていることは、歴史に学べ、ということで、これも多くの人が頷くだろう。先の戦争へと国を導いた「失敗の本質」はなんだったのかと。

なにが問題なのか。黒川さんにも、失敗の本質の著者たちにも共通する見方は、同質性の高い単線エリートたちが、左右を様子見しながら責任をとらされにくい仕組みの中で迷走して行ったというところだろう。ではなぜ歴史に学べないのか。学ぶ以前の問題である可能性はないか、というのがわたしの違和感の根っこかもしれない。

遠藤周作が「沈黙」で強調した「底なし沼」。きだみのるが喝破した「気違い部落」への賛歌。このふたつに共通するのは、わたしたちが(あえていえば)盲目的に信じようとしてきた「未開性」「後進性」というものが、本当に「地方の封建的で閉鎖的な社会」にのみ存在するのか、という問いである。もうひとつは、表面的には同質性がつよいとおもわれるそうした共同体において(あるいは問いのひとつめが非であるならば他の社会においても)、共同体利益よりももっともミクロな部分最適(つまり自己利益のみの最大化)を目指す個の存在をはたして認知するか、という問いである。とても古典的。

もしもこの問いへの答えが、①否、地方にのみ存在するものではなく、②たしかに存在するという場合、黒川さんの言う「エリートの失敗」は、たどりたどれば「気違い部落」のはずれにある「底なし沼」が口をあけて待っているところに根を張っているのではないかという思いが胸をよぎる。もしそうならば、エリートのみならず黒川さんが開眼を訴える相手である「国民」とは、「気違い部落」のはずれにある「底なし沼」のほとりの住民である可能性がとても高い。

「気違い部落」の「底なし沼」が怖いのではない。わたしもそんな「部落」から出て、憧憬の比較的真ん中あたりに「底なし沼」を抱えている。そのことに気が付くことができたのは、黒川さんとのシンポジウムの数年後、大きな地震が起きたそのすぐ後に畏友と走り始めた「桜onプロジェクト」があったから。「底なし沼」が延々と広がる「部落」を歩きながら、なぜか心が躍った。畏れつつも、心が惹かれた。それは「めんどくさいことを、とにかく丁寧にやりきろう」というのが唯一にして最高のポリシーだったから。

そうこうしているうちに、人が人と生きる社会のあり方をちゃんと考え、なおかつその場所で愚直に生きてみたいと明確に思うようになった。だから誰かの失敗をなんなんとするよりも、自分の失敗を反省して活かす生き方のほうがいい。それがわたしが10年前にかんがえた、自分自身に対するリーダーシップを実感を伴って発揮することなんだろうなと。


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