なりわいをいとなむことをたのしむ時代になるのか、という妄想

経済産業省の若手と次官が一緒に議論するというこのプロジェクトの話はけっこう前から聞いていましたが、このたび報告書が出たようです。すでに相当出回っていますし、検索ですぐ出てきますが、いちおうリンクを。

不安な個人、立ちすくむ国家~モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか~
http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf 

私のまわりのネット界隈ではおおむね好意的な反応が多い気がします。私個人としては、なにか新しいことを言った、というよりは、霞ヶ関の人たちがこういうことを組織の名前を出して言った、次官が名前だけでなくコミットした、ということに注目しています。中身の質がどうの、というのは、じゃあお前激務の間に書いてみろよ、というブーメランが返ってくるというのもありますし、完璧な答えなんかないと書かれているとおりどこにもそんなものはありませんので、そもそも期待してはいけません。忙しい中で中心になった補佐クラスの人は早ければ10年しないうちに本省の課長になる人たちでしょうから、まさに政策立案の中心です。もちろん経産省だけですべての政策が作れるわけではないですし、同年代で国を左右する政策を書くプレッシャーに直面しているのに世の中は揚げ足取りの野次馬だらけ、という状況ではなかなかにツラいものもあるでしょう。ですので、こうした組織の中にいる有志が、きちんと声を出せる、ということが大事ですし、願わくばその声を出す力を偉くなっても失わないでほしいなとも思います。

他方で、いろいろな批判もあるようです。
これもネット界隈から流れてきたもののひとつですが、ちょっと(悪い意味で)おもしろかったのでリンクをつけておきます。

「時代遅れのエリートが作ったゴミ」発言者に訊く!若手経産官僚のペーパーに感じた違和感とは。
http://youth-democracy.org/topic/interview170520

この主張を支えるのは、アメリカ保守本流のひとつが言いそうないわゆる「小さな政府」の論理でしょう。インタビューに答えている人の経歴から見ても、きっとそんな感じです。政府はどうせろくなことをやらないのに税金ばかり吸い上げているのだから、その分の資源を政府からとりあげて民間主導でやったほうが物事がうまくいく、というような話です。確かに意味のない規制をつくったり、省利省益の優先、縦割り行政、、、と非効率な政府を批判したくなる気持ちは分かります。ただ、余談ではありますが、日本の場合、規制緩和が進まないのは政府のせいだけではなく、むしろ既得権益を持った業界がガンなんじゃないか、とも思ったりしますし、この手の批判もまた突っ込みどころ満載ではあります。

僕個人の考え方は、政府は大きいほうがいいか、小さいほうがいいか、という二元論ではもはや話にならない、というものです。たとえば、言われて久しい地方創生は、大きな政府ではきっとうまくいかないでしょう。総務省(マクロ)か、都道府県(メゾ)か、それとも市区町村(ミクロ)かを問わず、補助金ありきで政府が丸抱えしているままでは健全で適度な「地方市場」は成立しない。この間も某市の会議を眺めていたら、総務省から出向してきた幹部がやりたい放題やっていて目を覆いました。現場の市職員はマジメに、愚直に働いているがゆえに、マネジメントの質の重要性を痛感します。他方で、外に目を向ければ世界はすでに国家資本主義の時代に(再)突入して久しく、政府のイニシアティブなき経済外交(マクロ)などあり得ない状況でしょう。もちろん企業単体(ミクロ)で、跳梁跋扈の新興国市場に突撃していく猛者もいるにはいますが、多くはJICAさんあたりの調査支援などを受けていることもまた事実です。国内で汲々していると、ほとんど関係のない話に見えるのですが、国をまたがる話に際して、政府にしかできないこと(あるいは政府がやったほうが効果が高いこと)というのは実際多くあります。国内と海外で矛盾しているようにも思えますが、それは実は二項対立の矛盾ではなく、一概に大きいほうがいいか、小さいほうがいいか、という議論はそれこそ時代遅れで、条件設定が異なれば、政府の役割もまた変わる、柔軟に変わるべきだ、というのが常識になっていくのだろうと思います(少なくとも学問の世界ではすでに常識でしょう)。

経産省の報告書が訴えていることの大きな趣旨は「多様な価値観、不確実な世界の中で私たちはどう生きたらいいのか」そして「そのことを政府は制度でどうやって支えられるだろうか」ということだろうと思います。その点をとらまえて批判者は、「そもそも生き方が多様化しているなんて今に始まったことじゃない、お上がようやく気がついただけだ=時代遅れな官僚の作文!」とこき下ろしているわけですが、正直なところなにをもって時代遅れとするのか、は難しいと思います。なんでも「エリート」を「上から目線、意識高い系」と斜めに揶揄していればいいという態度は、中学校二年生くらいまでにしておいたほうがいいでしょう。

たとえば、「個人が収入源の多様化を図る」ということが時代遅れかどうか。ひとつの会社にしがみつかないで・・・という経産省に対して、掛け持ちで収入を得ていた人なんて昔からいた、その発想は時代遅れだ!というのが批判者の主張でしょう。ここで、そういう人がいたのかいなかったのかとか、どのくらいいたかとかいうのは水掛け論になるのであまり意味はありません。その働き方が当事者にとってどんなものなのか、というところを考えるのが、本当の意味で働き方を考える、ということなのだと思います。

かつて複数の収入源を持つ人は、ひとつの仕事から得られる収入では十分ではないから掛け持ちをする、という発想ではなかったかと想像します。私の祖父なども終戦後のある時期はそうだったみたいです。とにかくなんでもやらざるを得ない。あるいは個人のみならず、家計で収入源が多様であるということも重要です。夫は家業や雇われ仕事で稼ぎ、妻は家業や内職あるいは近くの誰かの商売の手伝い、くわえて農作業で食糧は自給、子どもは・・・という具合です。途上国などでもごく普通にみられる家計の多様な収入源というやつです(Poor Economicsの世界)。ひとつがこけてもいいように複数やる、という発想もあるにはあるでしょうが、やむにやまれずひとつじゃ足りないからいろいろやらないといけない、というところが本当なんだろうと思います。ひとつで十分食えるなら、いろいろやらなくてもいいや、なんなら奥さんはもう専業主婦で!というのが日本の戦後モデルでしょう(肯定も否定もしません、念のため。どうするかはその人たちの自由なので)。他方で農村の男性は、農閑期になると都市へ出稼ぎへ出て行ったわけで、これは収入源の多様化のひとつですから、そういう人もいた、といえます。しかしながら行きたくて出稼ぎに行っていた人がどのくらいいるのか、と問えば、答えはそれほど難しくない。地元で十分に稼げたらそのほうがよいに決まっている、という人がそれほど少なかったとは思えません。

大企業の社員や国家公務員などの、批判者がいうところのいわゆるエリートのみならず、多くの中小企業の社員であっても、町工場の工員であっても、いわゆる高度経済成長の時代は、ひとつの収入源であってもそう食いっぱぐれはしなかった。農村からの出稼ぎおじさんたちはその例外のひとつです。ほかにもそういう境遇の人たちは実際にいろいろなところにいたし、いまもたしかにいるのですが、その人たちの世界は「マジョリティ(と自分たちが思っていた人たち)」にとってはやがて見えない世界に追いやられていったのだろうと僕は思います。確かにそういう社会はエリートがデザインしたものかもしれないけれど、多くの大衆はその流れに乗って、見えない世界をいっしょにつくってきたのだと言う点では、確かに一億総中流は一時代の実態ではあったのでしょう。

この文脈でいつも思い出すのは、古代から中世に時代が変わるちょうどそのころに、社会から追い出されていった「殺生を生業とする人たち」や「芸能を生業とする人たち」、「よろずのものづくり、商いをする人たち」のことです。先日、ふと頭に浮かんだので網野善彦の「蒙古襲来」を久しぶりに読んでいたら、またそんなことを考えました。生業の特性上、交通の要衝を自由に往来することが許され、天皇や「権門勢家」(この言葉の初出は黒田俊雄氏)ともつながりの深かったこれらの人びとが、やがて被差別民となっていく過程で、「マジョリティ」としてだんだん土地に定着していった「農民」は、彼らのことが見えていたのだろうか、なんてことを妄想したりします。もちろんそれは古代から中世へと社会が大きく激動する過程で、それまでの利権体質が抑えてきた社会的矛盾がぶつかり合い噴出する中でのことなわけですが、そうしたターニングポイントというのは、時代の渦中にいるとなかなか当事者は気がつかず、後世の人たちがあとから指さししていうものです。ただ当時、必死にその社会的な地殻変動をコントロールしようとしていた政治指導者たちの行動や、宗教者など時代の変化に鋭敏な人たちが同時代的に主張したような警句を現代に置き換えたらどんなものになるのだろうか、などということも、思いふけるわけです。

最近、小商いという言葉が流行っているようです。僕の両親が暮らす千葉の房総のある場所では、小商い人口が多いらしく、こんな本まで出ています。小商いという言葉には、なんとなく上で書いた「やむにやまれぬ収入源の多様化」「片手間の副業」といったイメージがあったということをこの本の著者も書いていますが、ここに出てくる小商いの人たちは、みな生業として真正面から小商いをしている人たちのようです。少しでも多く稼がないと、といった悲壮感はあまり感じません。サラリーマンからみると、不思議な雰囲気です。決して社会のマジョリティではないというのもそうなのですが、小商いとしていきいきと業(なりわい)を営む人たちを見ていると、来し方の時代を感じたりもするのは果たしてどういうことでしょうか。

つくづく、おもしろい時代におもしろい場所にいられるようにしたいものです。





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