反ユダヤ主義という沼の奥深さについて

 小林賢太郎さんが「反ユダヤ主義」と言われて解任されてしまった件については、一ラーメンズファンとしていろいろと思うところはあります。

そんなユダヤ人の牙城であるイスラエルに住んでいると、そもそも「反ユダヤ主義」ってなんなのよ、もう!という思いに駆られることもしばしば。

たとえばベン&ジェリー。みなさんもよくご存じのアイスクリームメーカーですが、先日「パレスチナにおけるイスラエルの占領地域」ではもうアイスを販売しない、と発表しました。それに対してイスラエルの首相は、「お前らは反ユダヤ主義だ、いずれ相応の報いを受けるぞ」と半ギレ気味に発言、数日後にはアメリカの(社長の名前を見る限りおそらくユダヤ系の)スーパーマーケットチェーンが「そんなん言われたらもうB&J製品を棚から全部下ろしますよ!」という話にまで発展しました(それがB&Jのセールスにどのくらいインパクトがあるのかはわかりませんが)。B&Jの親会社のユニリーバが「いやいや、我々はイスラエルにきちんと残りますよ」とやおら火消しに走ると、B&Jは「お前ら勝手なこと言うなよ、自分たちの会社のことは自分たちで決めていいってM&A契約に書いてあるんだから黙ってろ」と内輪もめになる始末。こういうのを見ていると、この国で商売するのは大変だなーと改めて思うわけです。イスラエル自身がカントリーリスクを助長しているようにも見えるし、企業側も自らリスクを作っているともいえる。

ベン&ジェリーは「占領地でアイスを売らない」のは(人道的に)正しいことだ、商売云々ではないとはっきり言ってしまっているので、イスラエルの首相も売られた喧嘩は買いますよという人なのか知りませんが「お前ら反ユダヤ主義だ!」と言ってしまうのですが、そもそも理由はどうあれ一民間企業がどこで商品を売るかなんてことは、その企業が勝手に決めていいことですよね。それがイスラエル(の占領地)になると途端に「反ユダヤ主義」が首をもたげてくる、というところがなんともなわけです。

ホロコーストを体験した欧州からロシアにかけてのユダヤ人(アシュケナジムといいます)と、彼らが中東に来る前からここに住んでいた中東系のユダヤ人(ミズラヒム)、もともとイベリア半島にいたけれどレコンキスタでアラブ人と一緒に追い出されたスペイン語系のユダヤ人(セファルディム)、ムスリムのアラブ人、ドゥルーズ(少数派のイスラム教徒:かなり変わっている)、クリスチャンのアラブ人、エチオピアやスーダンからの難民、インド系のユダヤ人まで含めると、実はとてもいろいろな人たちが暮らしているのがイスラエルという国の実態なんですが、こういうことが起きた場合に「反ユダヤ主義ダ―」と言って反応することにどのくらいの人が共感しているのかは実はよくわからない。それがグローバルなポリティカルコレクトネスなんだ、という尺度設定と、実際にイスラエルに住んでいるユダヤ人の人たちの感じ方との間にどのくらいの整合性があるのかというのはひとつ気にしておきたい点だと思っています。少なくともSNSでラーメンズが炎上しているということは、たぶんないかなとは思いますが。。。

他方で、イスラエルに住んでいない、イスラエルのゲバルトに守られずに世界のどこかの国に住んでいるユダヤ人にとって「反ユダヤ主義」というのはやはり恐ろしいことで、ユダヤ人だというだけで道を歩いていると棒で殴られたり、学校の友達からSNSでパレスチナの写真を送り付けられて「お前らの国はこんなひどいことをしている」と言われるようなこともあると聞きます(その子どもは、ユダヤ人ですが一度もイスラエルに住んだことのない、その国で生まれ育ったその国の市民です)。

話を元に戻すと、小林賢太郎さんが、20年以上前の10秒のセリフで糾弾されるということについて、文脈を正しく理解しても尚、もし時間を巻き戻せるならば、「やっちゃいけないこと」の例を別のことにしておいたらよかったのかもしれないと思うのです。この問題は、私たちが思う以上にはるかに厄介だということもありますし、20年経ってもこの問題はずっと変わらず世界に残り続けていて、というか過去からずっと引き継がれてきていて、そしてこれからもきっとずっとあり続ける問題だからです。そこまで見通したうえでコミットしたのでないなら、他の話題の方がよかった。そういっている僕でさえ、イスラエルに暮らす前までは実感としてはちっともわかっていなかったですから、偉そうなことは言えないんですがね。だから「もし巻き戻せるならば」という言い方になっちゃう。ちなみにここで「あり続ける」という意味は二重で、ひとつにはこのことで苦しまされるユダヤ人の人たちがい続けるということ、そしてもうひとつは、このことを使って自らの立場を強くしようとする思惑のある人たちがい続けるということです。この両方が相互作用するから、この問題はさらに面倒なのです、きっと。

さて、この「変わらない」ということ、「変わらないと思うこと」が底なし沼なんだなぁ、アートはそこを切り裂けるチカラをもっているんだけどなぁという改めての気付きもあったのですが、長くなったので今日はこのあたりで。

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