「家族」の話


お盆

高速道路を埋めるマイカーの縦列。夜遅くまでホタルの行進のように赤いテールランプが続く様子はもう何十年もおなじみの光景。またごった返す東京駅のホームや羽田空港の出発ロビーの映像は、もはや風物詩ですらある。

 みな、どこへ行くのだろうか。「旅行」という人も多いだろう。円高につられて海外旅行に行く人もかなりの数だそうだ。そうでなければ帰省だろうか。なにも混雑のピークにわざわざ帰省する必要もないだろうに、と思うのは「田舎」のない東京者のひがみであって、長く(とはいっても1週間弱という人が多いだろうか)休みが取れる時に「田舎」へ帰ろうという人の列は毎年切れ目がないほど長く続く。

 なぜ、人は「田舎」に帰るのだろうか。自然が豊かだから?否、都市に「田舎」がある人もいるだろう。普段暮らしているところを離れた非日常があるから?否、それならば「旅行」に行くのとどう違うのだろう。「帰省」という言葉、「田舎に帰る」という言葉が行く先には何が待っているのだろうか。
 
そこにはきっと「人」が待っている。「田舎」とは、「港町」や「よく通った近所の駄菓子屋」「小学校の低い鉄棒」というような具体的な場所のイメージに表される場所であると同時に、帰る人と帰りを待っているであろう「人」とが織りなす実態と想像が折混ざった景色がある場所のことである。

帰る人を待っている「人」は、誰よりも「家族」であろう。両親や祖父母をはじめとして親戚や隣近所、果ては幼馴染みや同級生、恩師といった人々も「家族」同然であるかもしれない。帰る人は、帰る先に待っている「人」を想い浮かべる。「家族」の在り様に想いを馳せる。「人」の向こう側に広がる景色を仰ぎ見て、自分と「人」とが登場するシーンを想像しながら、混雑する交通に耐えて「田舎」を目指すのである。

「田舎」を思い描きながら帰省の途に就く人は、きっと幸せである。彼の脳裏に浮かぶ「家族」への想いが、景色やシーンを創出して彼を幸せにする。その時彼は、実は景色やシーンではなく、自分の思い描く「家族」のイメージによって幸せになる。「田舎」に帰る人は、「家族」に帰るのである。



 オバマ・リベラル

先日オバマ大統領が、現職の米国大統領として歴史上初めて「同性愛結婚の合法化容認」を打ち出したと報じられた。就任当初、大統領は共和党の独占状態になっていた宗教票を奪回する目的から、宗教保守層に対して融和的な発言を繰り返していたが、今回の選挙を前に宗教リベラルへの回帰が大きく報じられている。

背景には国民の間での同性愛に対する理解の広がりがあるようで、例えばニューヨークタイムズが今年5月に行った調査(http://www.nytimes.com/interactive/2012/05/14/us/americans-views-on-same-sex-marriage-poll.html?ref=politics)では、38%が「同性愛者の合法的な結婚を認めるべきだ」と答えており、「婚姻と同じ法的権利を認めるべきだが婚姻は認めるべきではない」とする「消極的賛成派」と合わせると62%に昇る。

いったいアメリカ市民は、なにを論争しているのだろうか。「婚姻は異性同士に限る!」「いやいや同性同士であっても婚姻を認めるべきだ!!」・・・これらは「婚姻のあり方」について議論しているように見える。彼らは「正しい婚姻」というものについての議論をしているのだろうか。そもそも「婚姻」とは何だろうか。人はなぜ「婚姻」をするのだろうか。なんのために?

それはきっと「家族」を創るためである。自分が思い描く「家族」は男性の父と女性の母がいる、という固定観念を持つ人は同性婚に賛成出来ない。自分の持つ「家族のイメージ」、「家族とはこういうものである」という観念が、誰にもある。

婚姻をしないと「家族」になれないわけではない、と私は思う。法律に定められた「婚姻」という制度に則らなくても「家族」を創ることはできるだろう。但し社会がその「家族」を家族と認めるかどうか、ということがこの問題の大きなポイントである。

実際問題、聖書に書いてあるかどうかなんていうことは実は理屈の話で(本当に聖書に書いてあることが「事実」であると信じる人が6割くらいいるという別の調査もあったりするのですが・・・)、想像上の家族が「男性の父と女性の母」から構成されていないと自分のイメージと合わないから許せないという人と、異性同士のカップルでないと「家族」として社会的に認められない、法的に差別されるのは問題だ、「同性の父と母」という家族構成だっていいじゃないかという人とのせめぎ合いなのではないか。

そんなふうに思えてくるのは、それが「家族の話」だからだ。誰でも「家族」を思い浮かべる時は、幸せな気持ちでいたい。だからこそ、自分の思い浮かべる「幸せな家族」の像を巡る議論は終わりがみえない。



お盆に「田舎」を想う私たちにとっての思い描く「家族」の像が多様なように、アメリカ市民もまた異なる文脈の中で「家族」の在り方に思い悩んでいる。かつて異なる身分の間では「家族」となることが認められず、異なる人種や国籍間の「家族」も歴史的には日が浅い。それでも異なる○○の「家族」が「当たり前」になってきたことを考えれば、同じ○○の家族だって一つの「家族」の形、となる日も必ず来るだろう。と同時に、一年に何度かでも自らの「家族」観について想いを巡らせることによって、私たちは「家族」を想う幸せを改めて感じる。

そのためならば、テールランプの大行列も乗車率200%の新幹線も、乗り越えられるだろうか。



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