考える葦

休日の丸の内。

早朝の人影もまばらな地下鉄の改札脇で、ごみ箱から古新聞をあさる白髪の男性。髭は無精ではあるが伸び過ぎず。住宅街をジョギングしていたらさりとて不思議にも思わない紳士面のジャージ姿を横目に階段を上がると薄汚れた寝袋と古新聞の束を抱えた無人の台車が主人の戻りを待っている。世をはかなんで路上や公園にいるのだから彼らの勝手だ、と言う向きもあるが、寒い冬の朝にそれでも命をつなぐ古新聞を集めるところにジレンマがある。

馬場先門の静謐清廉な空気の中を進むと竣工なった三菱一号館。角のテナントからジュエル・ロビュションが微笑んでいる。日本の経済発展の象徴、ビジネスディストリクト丸の内。三菱もまた近代日本の富を象徴する存在。その足元の地下道は、路上生活者の小便の臭気に満ちている。別に新発見でもなんでもない。毎日何十万人の人が目にする「日常」風景。

競争とイノベーション、自己責任、格差の必然性。そんな使い古された視点でどうこう言う気はない。どちらかといえば私だって極端な話「競争に勝つこと」の恩恵に浴してきた部類。そんな自分が生きる世の中の仕組みや社会が成長するいまの通説、理屈を根底からひっくりかえすわけでは毛頭ないが、目の前にある現実をどう理解し、どう納得するのか。果たして本当に納得しているのか。見えないものとして心の隅に追いやっていないか。改めて問われたら、どう答えるのか。少なくとも私は、自分の子どもからこう問われたときに「彼らの存在は自業自得故だ。だから君はあのようになってはいけない」とだけしたり顔で答えることはしたくないと、直感的にだが思うのである。

人間は考える葦だ。例え君の思い悩みがいま結論を導かなくても、感じた矛盾を抱えて考えつづけることを止めてはいけない。そう逃げるのが精一杯かな。いやはや実に情けない。でも人間はそうやって疑問や悩み、不思議や矛盾を何千年も考え続けてきて、それが科学であるとすればやはりそれは進歩の礎なんだ、なんて言ってあげられるのかもしれない。

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