考えることについて

一枚だけ、出しそびれていた年賀状を投函しに、夕方の街を駅前の郵便ポストまで歩いた。
大晦日である。
今年ももう終わり。明日からまた新しい年。生きる社会に通念する暦に違いがあれど、多くの人が「新年」という概念を広く共有していることは、特段の証明の必要がないものと思われる。365分の1日に、どうしてかくも改まった気持ちになるのか。


暦というものがなければ、人間はそもそも月日を識らず、また今日という日が他の日と相違するものだということも識らない。


暦は、人間が自然の中に生きる己の存在をそれとして客体的に捉え、自然を識り、計り、寄り添い、あげくには支配しようとする過程で生まれ育まれてきた制度である。


暦を生きる上で人間は、時々、折々に節目、区切りを見出してきた。元来は自然のサイクルを計って己を添わせるためのものが、やがてそれ自体がシステムとなって価値を生むようになった。どうして115日と1231日は違うのか。413日と55日が違うのか。あなたが生まれた日を特定することは人口統計上、戸籍制度上の義務のみならず、あなたにとって1年で最も特別な日を、その人生で初めて定めて発信することである。


暦は、古代から幾度も書き換えられ、読み替えられて今日に至る。だから時代によってひとつの暦の中でも人々が大切にする時点には違いがある。ただひとつ確かなのは、今を生きる私たちは、1231日を特別な日と思い、このことを多くの人が共有していることである。


ことほど左様に、当たり前で、いまさら目新しくもなく、何ら感慨もない、当然のこと、しかしながら明らかに存在する「価値」というものを改めて考え抜き、「コトバ」にして、「カタチ」にした上で、人々と共有すること。新しい年には、旧年中に気付き思い起こしたこのことを改めてきちんと目指してみようと思う。


大切なものだからといって、簡単には「コトバ」にできないかもしれない。「コトバ」に出来たからといって、簡単には伝わらないかもしれない。そうであれば別に伝わらなくても良い、知られなくても良い、というのが不寛容の原因であり、あるいは、そもそも「コトバ」に出来ないこともある、と感覚や感情に必要以上の優位性を持たせようとすることがコミュニケーションを築くことに対する怠慢であるとすれば、多くの世の中に広がる問題の根っこは、この辺りにあるとも思えてくる。


世の中は、およそ不自由で、不条理で、不平等である。
あまつ唯一許されると考えられていた時間という概念ですら思ったほど自由にならず、平等ではない。ただ考えること、考え抜くこと、考え続けることだけが、等しく私たちが許された可能性であるとすれば、まずもってこれを止めることだけはしてはならない。



コメント

このブログの人気の投稿

桜と物語

読書記録 当たり前が当たり前でなくなること

ラッキーに感謝