教養の力

Baylyという人が書いた「The Birth of the Modern World」という書物を読んでいる。500ページに迫る大著であるため、素人の私が書評を書くには一生掛かると思われるので、中身のさわりに触れて考えたことを書いておこうと思う。

冒頭にこんなことが書いてあった。(以下だいぶ意訳です)

「近代化」の原動力となったものは産業革命である、という視点は、社会主義的歴史観から導き出されてきたセオリーであり、これまである一定の地位を得てきた。そう信じている人が少なからずいることも事実である。しかし(社会主義的視点から見た場合に資本主義興隆の権化である)産業革命以前にブルジョア・フランス革命が存在し、また産業革命以後の19世紀後半から20世紀初頭にかけても、依然「権力」は貴族や地主、教会のものであり続け、世界の多くの人々は貧しい農民のままであった。それでは「近代化」の原動力になったものは一体なんであったのか。「国家」が「政府」というものの機能によって動かされていくようになったことにあるのか。それとも「経済」にその要因があるのか。米南北戦争が「奴隷制度」そのものに対する賛否という人権をめぐるイデオロギー対立ではなく、奴隷を使役することがそのシステムにおいて不可欠か否か、奴隷を使役して生産した一次産品を機軸とした輸出中心の経済と、工業生産を軸とした輸入代替、保護主義的経済という経済構造上の差異が生み出した対立によって引き起こされたことに良く現れているように・・・。




Why things changed? 

この書物に限らず、歴史家がその探求の源泉とするものは、この問いであろう。そして、実は歴史家に限らずすべての人に、この「なぜ」という探求をすることの可能性が開かれている。さらには、「本当にそれは『正しい』のか」ということ。

こうして考えること、考え続けること、そしてそれを伝え続けることには、しかしながら苦難も伴う。必ずしも「答え」はすぐには見つからないかもしれない。ひょっとしたら一生かけても「答え」にはたどり着けないかもしれない。これだ!と思ったことが実際にはそうではなくて、つまづくことも多くの人が経験していることだと思う。そして悩むはずだ。本当にこれでいいのか、もっと「正しい答え」が他にあるんじゃないだろうか。際限のない苦難、つまづき、徒労にも思える悩み。なにか救いが必要だ。誰かがあるべき方角を指し示してくれたらどんなに楽だろうか。

「誰にでも分かりやすい○○」「リーダーがいない」「理想のリーダーとは・・・」

こんな言葉が、どこにいても見え聞こえする時代である。かつて人々を導いた(と人々が信じていた)あらゆるものが、力を失って消え去り、あるいは見えにくくなっている時代である。そこに救いはない。「なにか」はもう救ってくれない。「誰か」はもう救ってくれない。


本当にないのだろうか。


もうなにも救いがない、と思い悩む人がいたとして、彼・彼女を真の意味で救うことが出来るのは、突き詰めれば、ご本人の「考えること」だけである。たとえば「恋愛相談」が結局のところ根本問題をなんら解決しないことは、おそらくほとんどの方が同意していただけることだと思う。但し「相談」することによって心が軽くなり、「考えること」の効用が上がる、ということはきっとあるだろうし、なにも「考えること」はひとりきりでしなくてはいけないものでもない。ただ「一緒に考える」ということと「誰かの考えに乗っかる」ということはまったく別のことである。

ではその自分の「考えること」をどのように育てていけばいいのだろうか。単に同じレベルのケーススタディを積み重ねることで、「考えること」は強くなるだろうか。ビジネス本や自己啓発本をたくさん読めば、「考えること」は強くなるだろうか。なるかもしれない。


私は、「考えること」を強くするためには、「教養」に触れようとすること、触れること、飲み込まれること、立ち戻ることが大事であるように思う。

自分個人のレベルを圧倒的に超越したもの。時間軸でも空間軸でも、逆立ちしても容易に届かないもの。それが「教養」である。なぜならば「教養」とは何百何千何万何百万という人々が、数多悠久の時間を掛けて営々と積み重ねてきたものだと思うから。そしてそこには「積み重ねよう」とする意図すらなかったかもしれないことがある一方で、遠く未来を見通そうとしていたこともあっただろう。また一見誰か一人の人が言い出した偉そうなことであったとしても、その背景にある莫大な、主に他者の手による蓄積にも目を向けないと本当のことが分からない。

思い悩み、困窮したときにこそ、「教養」の力は私たちを救う。「教養」は私たちにとって、なにかを攻めるための武器ではない。困った私たちが自らを守り、慈しむもの。ただ、困ったからといって突然触れようとしても、すぐに触れることが出来ない。どうすれば「教養」と真に親しむことができるのだろうか。

そのことを考え、考え続けようと思う。









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