Michael Sandelの「Justice」と本居宣長の「もののあはれ」

ハーバード大学の「名物講義」としてNHKでも放送されているMichael Sandel教授の「Justice」。5人の命を救うために1人を犠牲にすることは許されるか、数千の命を守るために時限爆弾テロの容疑者を拷問することは許容されるか、同性の婚姻を法律で認めるべきか、人間の命の価値は、いったいいくらか・・・。アフガニスタンで潜入作戦展開中にタリバンに通報され戦友を亡くし自らも負傷したネイビーシールズの元兵士は戦友の命を守るために自分たちを目撃した羊飼いを殺すべきだったか。次なるテロを防ぐためとしてグアンタナモで行われているテロ容疑者への拷問は正当化されるか。政府は同性婚を法律で認めるべきか。あなたにとって正しいこととは、なにか。正義とはなにか。ソクラテスから始まりベンサム、カントやミルなどを引きながら、眼前に横たわる判断の付け難い問題をどう捉えるか、聴講者の道徳観に投げかけていく。広く西欧の政治哲学を論拠にしつつ、ケーススタディとしてアメリカが抱える数多の問題に潜む道徳の相克を浮かび上がらせる。


そもそもこれらの問題を引き起こす原因はアメリカという社会そのものに依拠するものではないか(だから自業自得だ)という批判がある。確かにその通りである。国内の問題はいざ知らず、国際問題もアメリカが自ら引き起こしているかに見えるものも多い。だからアメリカでは常にこれらの相克が議論される。宗教右派とジェンダーリベラルは同性婚や堕胎容認について活発に議論するし、テロ容疑者への拷問を止むなしとする国土安全保障上の保守派と人権擁護派の議論はエスカレートする。これらがやがて政策の争点となり、ひいては大統領選挙の趨勢までに影響する。国民、つまりアメリカ人の主要な関心事にまでアジェンダとして昇華するのである。これはSandel教授が提起する「道徳上の問題」はアメリカにおいてはいみじくも顕在化した、乗り越えられるべき問題として社会が認識している、と言い換えることができる。この過程で彼らは、「アメリカにとって、アメリカ人にとって道徳的に(法律解釈からも宗教的価値観からも中立であるが十分に両者を加味した)善きこととはなにか」という命題を追求し続けているのである。平たく言えば(全ての、とは言えないが)少なからず多くの市民が「善きアメリカとはなにか」「善きアメリカ人とは何者か」という命題をそれぞれの立場で自らに、および自らを取り巻く社会に問い続けているのではないか、ということである。(繰り返しになるかもしれないが、ここでいう「善き・・・」とは西欧の政治哲学を論拠にして、法治国家たるアメリカの法律に照らして合法で、かつ彼らの宗教的価値観をも引いた上で導き出される「善」である。)


さて翻って我が国日本はどうだろうか。
政府や政治家あるいは学者はじめ識者などが「日本国とは○○のような国である(べき)」というような類の発信をたまにすることがあり、これを百歩譲って「日本とはなにか」を説明したものと言うことが出来なくはないかもしれない。しかしここには大きく二つの欠落がある。
ひとつは「日本とはなにか」「日本にとっての『善い』とはいったいなにか」といったことに関する国民的議論がすっぽり抜け落ちていること、もうひとつは「(善き)日本人とは何者か」ということ自体を国民一人一人が十分に認識出来ていないこと、である。
「日本ってどんな国?」「日本人ってどんな人たち?」「君が代ってなに?」「日本固有の・・・ってなに?」こういうプリミティブな問いかけに対して、それを正面から捉え考え応えるプロセスがあまりない。


なぜか。
「日本とはなにか」「日本人とは何者か」
この問いに一人一人が関わるプロセスは、日々営々と生きる自らの生活やそこに投影される自身の偽りようのない内面と、日本という社会が抱える歴史、宗教観、文化的価値観その他諸々の有象無象とを掘り起こして向かい合わせ、再認識して再定義していく作業だから実は殊の外しんどい。「歴史認識」なんていうワードひとつをとってもアレルギー反応が起きて議論の土俵すら作れない、ということもままある。しんどい作業からは少し距離を置いて、せっかく世界第2位の経済大国になったのだから、この繁栄を謳歌しようじゃないか、つらいことはしばし忘れたことにして・・・。そうこうしているうちに本当に忘れてしまって「経済」が唯一の拠り所になり、だから「経済」が(相対的に)しぼむとなんとなく自信がなくなり、それが巷に言う「閉塞感」などと表現される心的表象となって日本を覆っている。でも「日本とはなにか」「日本人とは何者か」という問いへの応えを自分なりにしっかり持って、かつ周りと共有し共感しながら行動している人々は、「ちっとも閉塞なんかしていないよ」と言う。


それではどこに答えがあるのか。
「大きなひとつの答え」はきっとすぐにでない。アメリカも(もしかしたら他の国も)ずっと悩んで、もがいて、苦しんで、それでも「大きな一つの答え」には至っていない。もしかしたらそんなものはどこにもないかもしれない。でもいま思うのは、私たちはそのうち「大きな一つの答え」ではない答えで満足できるようになるかもしれないということ。あるいは「日本とはなにか」という問いに答えを見出すプロセスにいまよりも多くの人が関わるようになる、ということがひとつの答えかもしれない。
「財政再建のためには、歳出削減+国債圧縮+増税で将来世代に負の遺産を遺さない!」などと言うが(もちろんそれは各論として大事だが)、本当に将来世代にわたって遺すとまずいことになるのは、実は「日本」を「日本人」をリデザインすることではなかろうか。「日本とはなにか」「日本人とは何者か」そして「我々にとっての善きこととはなにか」についてより多くの人が気づきいま議論を始めないといけない。遅きに失することはない。


最後に我々にとって「善き」こととはなんだろうか。西欧哲学的「善」なのか、中華儒教的「勧善(懲悪)」の善なのか。そもそも我々の先人は「善(悪)」という価値判断を大切にしていたのだろうか。
ひとつの挙例を試みれば、江戸時代の国学者である本居宣長が古事記を解読する中で再発見した「もののあはれ」という価値観は、人間が論理的に行う善悪の判断を超え、日常を離れたふとした事象に感じる心の底から揺り動かされるえもいわれぬ衝動と定義されている。この価値観はえもいわれぬ、つまり何だか上手く説明出来ないけど、理屈では分かんないけどいいよね、という感覚。だからといってこれを短絡的にアダプトすると、日常を離れる=自然に帰れ!農村回帰!なんて言ってしまってやや危ない空気が漂う。そもそも現代にあっても自然に近いところを生活の拠点としている人は少なからずいるし、そういう問題ではない。単に人工的なものから離れたり物質的価値を放棄したりする、という表象的あるいは行為的なことだけではなくて、例えば「もののあはれ」に表される、言うならば形至上的存在に畏敬していた時代の先人の思考がいかにして今に至るのか(あるいは断絶しているのか)、そこに我々はなにを感じるのか、もっと端的にいうとそれは心地良いかどうか、といったことをコンテクストにして導くと、「日本とはなにか」「日本人とは何者か」というコンセプトをリデザインするひとつの出口になるのかもしれない。実はこれ、先述の本居宣長はじめ多くの先人が試みていることでもあるので、我々後輩はこれを謹んで学ばせて頂けばいいのである。そう考えると少し心が軽くなる。本居宣長は商家の次男坊である。後世医者になるが武家ではなくいわんや為政者ではない。この人が再発見した価値が今日でも色あせていない(少なくとも私は「もののあはれ」を感じて価値があると思うものの一人)ということに日本の可能性を見出す、といったら言い過ぎだろうか。最近あちこちで言っているが、人気の幕末も良いけれど、近世もしくはそれ以前の日本にもたくさんヒントがある、と思っている。

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